TOKIのわがまま

〜 第44回 〜

<2000.6.11公開>

英会話入門
今年の4月から、NHKラジオ「英会話入門」を聞いている。 ある日、新聞広告でNHK春の開講講座お知らせが目に付いた。 英会話には興味があったけど、習いに行くほど真剣に勉強しようという気もない。 ラジオ講座だったら、興味がなくなっても簡単に辞められる。 とりあえず、3ヶ月は聞いてみようと思っただけ。

月曜から土曜まで毎日、1日3回放送される。 朝の放送を録音。 3回目の放送はちょうど帰宅時間で、地下ではなく地上の電車に乗っている時間帯なので、昔もらったカードラジオを手に聞くことが出来る。 帰りに聞くのは人の目もあるし、最初は勇気がいる。 だけど、自分がやりたいと思ってることをしてるだけで、大音量で聞いているわけでも、ぶつぶつと発声しているわけでもない。 とりあえず周りに迷惑はかけていない。 そう考えるとちょっと楽に聞くことが出来る。

毎日確実に聞けるわけじゃないから、週末にその週のを再度聞くことになる。 ここで初めて声に出して見ることが出来る。 家だからといっても、ちょっと気が引けて、小声での練習になってしまうんだけど。

他の講座はどういうのか知らないけど、「英会話入門」はおもしろい。 15分だけの放送がちょっと待ち遠しい。 NHKと聞くと真面目な放送で堅苦しく思えるけど、この講座は堅苦しさはない。 ちょっとした例文のやり取りが親しみやすいものだったり、早口言葉の練習があったり、楽しく続けられるようにといろいろ工夫されている。 実際に聞いてもらうのが一番なんだけど。

ラジオ講座を聞き出すようになるとは、自分では思っていなかった。 ラジオを聞きつづけることは、自分にはただの苦痛のように思えた。 今続けられているのは、放送が楽しいのもあるけど、テープに録っているから今聞かなきゃ行けないという強迫観念もない、とりあえず聞いてるだけで完璧に取得しなきゃという義務感もない、からかもしれない。 

今月はちょうど3ヶ月目。 この先、聞きつづけようかどうかは深く考えていない。 特別身についてくるのを感じることもなく、ただ聞いているだけ。 そのうちわかる瞬間が来るだろうと気長に考えている。 次も3ヶ月を目安に聞いてみようかな?
2000.6.10

 

人権って?
サングラスをかけて出かける父親。 電車の中でもかけたまま。 まぶしいくらいの日差しがあるわけでもないのに、サングラスをかけている。 おかしいというと、サングラスをかけている人への人権の侵害と返ってくる。 

人権って、そんなに簡単なものなんだろうか? やりたいことをやってるだけで、人に迷惑はかけていない。 サングラスをかけている=なにかやましいことがある、顔を隠さなきゃ行けないことがある、と世間では考えがちなこと。 確かにだからといって即悪いことであるとも言えない。 だけど、普段の生活の中でサングラスをかける必要性がない。

世の中にはサングラスをかけて悪いことをする人もいる。 被害を受けた人にとってサングラスをかけた人はそのことを連想させ、嫌な思いをする。 そう言う場合も人権侵害と本当にいえるのだろうか。 人権侵害だから嫌な思いをする自分が悪くて、この先精神的苦痛を我慢しつづけなきゃ行けないことなんだろうか? 被害を受けたことは、その人が悪いわけじゃないのに。

人権って、人として平等に扱われる権利だったと思う。 その人の出身や人種、性別を問われることなく生活していけること。 ただ自分がやりたいことをやることを妨げられることで人権侵害というのはちょっと拡大解釈しすぎている感じがする。 それって、ただのわがままだと思う。 

サングラスをかけた人を見て、ただ何の根拠もなく不快に感じるのは、人権侵害というより、偏見だ。 脱色している髪の色で、悪い奴だと決め付けるのも偏見。 目の病気を患っていて、人目に触れたくないのかもしれない。 薬のせいで髪の色が抜けているのかもしれない。 ただの個人的趣味で、何の害もないかもしれない。 あきらかに態度が悪い場合は別なんだけど。 サングラスを見て不快に思う人がいて、そう言う人に対して偏見だということもある意味、偏見かもしれない。

自分ではやりたいことをやっているだけで、別に誰かに迷惑はかけていないと思うことはたくさんある。 だけど、その行動で精神的苦痛を強いられている人もいるかもしれない。 自分がやっていることを否定されることと、精神的苦痛を強いられている人と、どちらが本当に苦しんでいるのか。 そういうことまで考えて人権侵害という言葉を使って欲しい。 

個人的趣味でやっていることは本当に今しなきゃいけないことなのだろうか。 ちょっとの気遣いをみせることこそ、人権侵害という言葉が生きてくるのではないだろうか? 偏見の中には実体験から出てきているものもある。 一度不快な思いをするとそう簡単には消えるものでもない。 お互いの立場を考えることで何かわかってくるような気がする。 あたし自身が完璧に出来ているわけじゃない。 これを機会に、この先ちょっと考えるようにしてみたい。 
2000.6.11

 

初心者本
何かをはじめよう、学ぼうとする時、あたしは本をまず探すことが多い。 「完全解説本」よりも「初心者のための」とついている方にまず心引かれてしまう。 基本的な内容なんて結局似たようなものだったりするのに。

パソコンを買う数年前より、「Paso」を買いつづけている。 「初心者のための」ともちろんついている。 未だにまだ買いつづけてしまうのは、興味のある連載があり、初心者向けの内容が何か安心させるから。 違う雑誌を買ったこともあるのだけど、内容的にあたしにはちょっと難しく、読みつづけることが苦痛だった。 初心者の域を抜けたら、その程度の知識は必要なのかもしれないけど、あたしにはあまり必要に思えなかった。

ある程度の知識、基本的なものが身についたら、更に上のレベルに進もうと思う。 だけど、本当にあたしは基礎が出来ているのだろうかと考えてしまう。 普段の操作には不自由もないけど、ちょっと違うことをしようとする時、うまく出来るのだろうか。 そんな状態で基礎的な知識習得をやめ、上のレベルに進んでいいのだろうか?

「Paso」を買いつづけているのは、自分の不安な気持ちの現われかもしれない。 「初心者」という言葉に引かれてしまうのも、基礎をちゃんとしなければ自分が不安なのかもしれない。 自分の知識に自信がない。 自信なんて本当はどうでもよく、実績が出ればいいだけのものかもしれないのに。

「初心者」という言葉に、この先も引かれつづけるだろう。 だけど、別に悪いことじゃない。 そのことで自分の不安が少しでも減るのなら、あえて「初心者」ものを手にしよう。 だけど、中身は吟味するよ。 
2000.6.11

 

[History]


http://www.ne.jp/asahi/toki/times/ 
Update : 2000/06/24.