〜 第18回 〜
<1999.6.6 公開>
Flute |
フルートとの付き合いは、中学に入ってから。 中学で吹奏楽部に入ったが、パートを決める時、女の子は木管、フルート、クラリネット、サックスの中からしか、楽器を選べなかった。 当然人数は決まっていて、サックスの二人はちょうど希望者が二人ですぐ決まり、残るほとんどがフルートを希望していた。 20人くらいの中から4人だけ。 アミダで決めたのを憶えている。 クジ運が良かったのか、あたしはフルートになった。 フルートに決まってから、すべてがうまくいったわけではない。 新入生が使える楽器が3本。 どうしても、一人は使えない。 4人の中で、一人の子が朝連などの時、全部先にキープしてしまい、あまり話しをしなかったあたしには、楽器が回ってこず、楽器に触れることは少なかった。 毎日、マウスピースの練習だけ。 もともと、鍵盤経験のないあたしは、譜面を読むのにも苦労していたし、運指がついて来ず、どんどん遅れて行った。 先輩たちは、そこまでひどいことになってると思わないから、ちゃんとしなさいという。 ある日、あたしにも限界が来ていた。 パート練習中、絶えられずに泣いてしまった。 もう辞めてしまってもいいと思っていた。 結局、パートリーダーの説得?で、残ることになったのだけど、楽器のほうはあいかわらず。 その後、練習に遅れてくる先輩の楽器を使っていいことになり、放課後の練習には、パートリーダーとのマンツーマンレッスン。 与えられた譜面をなんとか吹けるようになった。 そして、3年生も引退し、楽器も個人個人に与えられ、意地悪をしていた彼女も、転校していった。 この後、2年、3年となり、引退したけど、あたし自身、ただ音を出せるだけで、譜面は読めても、リズムを取ることはあまり出来なかった。 高校に入っても、吹奏楽をするかは迷っていた。 でも、たまたま、中学で同じパートだった先輩に声をかけられて、入部を決めてしまっていた。 でも、フルートへのこだわりはなかった。 でも、何がきっかけってわけでもなく、なんか、周りの雰囲気であたしはフルートになっていた。 フルートをしたくてなれなかった人には、ちょっと悪いなぁとは思ってたけど。 高校にいる間は、フルート経験者が同期で一人だったのもあって、ちょっと気が張っていたとこもあった。 個人持ちの楽器もこの時買っている。(現在も使用?) リズムが取れないままではダメだぁと自覚もあって、ちょっとはわかるようになっていた。 フルート自体に執着しだした?のも、この時期かもしれない。 楽器店の一日講習会に参加して、いい音を出すことをちょっと考え始めた。 高校卒業してから、OBバンドに参加していたけど、最初3年くらいは、パートの先輩もいたこともあって、がんばろうとおもってなかったように思う。 でも、自分がパートで中心的に動き出すようになってから、ちゃんとしなきゃとか思い出したと思う。 ソロとか、苦手だったけど、なんとか吹けるようにはなった。 今現在、フルートは休止状態が続いている。 いろいろなことがありながらも続けてこれたのは、苦しい時に助けてくれる人達がいたから。 このまま、辞めてしまうのは、自分としてもちょっと寂しい。 ちゃんと習ってみようとかも考えている。 ただ、プロになるとかってのは無理。 だって、今度は音がうまくとれないんだもの。 |
にせエコロジスト |
エコロジー、環境問題、自然保護。 まったく興味がないといえばウソになるけど、真剣に取り組んでるかといえば、そうでもない。 ゴミの分別も、100%出来ているわけでもなく、リサイクルも中途半端。 本当に、リサイクルや環境問題に取り組もうと思ったら、何が出来るか? ごみの分別、紙、カン、ビンのリサイクルは、まず当然として... ものを大事に使うこと? 無駄を省くこと? 例として聞いてのだけど、油で汚れたフライパンをそのまま洗うか、紙で拭きとってから洗うか? そのまま洗うと、水を汚してしまう。 紙に拭きとって洗うと水の汚れは軽減するけど、紙を捨てる、ゴミとして燃やすと、空気が汚れる。 どっちにしても環境には良くない。 だけど、紙で拭きとってからのほうが、環境に与える影響は少ないので、こちらを薦めるそうだ。 生活してる限り、なんらかの影響は出てくるけど、なにもしないより、出来るだけ少なく済むように考えることが大切だそうだ。 本当に自然にいいことをしようと思うと、今の生活を変えないといけないと思う。 ある意味、大昔の生活がいいのかも? でも、人間が生きてる限り、自然に100%いいことは、出来ないかもしれない。 なにも考えないより、少しでも考えるほうがいいとは思う。 だけども、あたしも完全なエコロジストには、なりきれない。 |
めがね |
めがねを使用しだしたのは、中学2年の時。 後ろの席から、黒板の文字が見えにくくなっていた。 それまでは1.0をなんとかキープしていた。 常にかけだしたのは中学3年の時だったように思う。 母親がめがねをかけていたのもあって、子供の時は、めがねがかけてみたくて仕方がなかった。 めがねが必要になった時も、そんなに嫌だとは思っていなかった。 ただ、めがねをかけるようになると、転がり落ちるように視力も低下していった。 中学では、めがねがなくても、譜面くらいは楽に見れたのに、高校では、ぎりぎり見えるくらい。 働くようになると、もう譜面は見ることが出来なくなってしまう。 ちょっと不便である。 めがねがないと、ほんとになにも見えないといえばウソになるけど、細かいものをみるのはしんどい。 文字を読むのは、ちょっと苦しいかも。 カットに行っても、雑誌がまともに読めない。(写真とかは見えているのに) 露天風呂なんて、景色や空がきれいなはずなのに、ぼやけていてわからない。 コンタクトにすれば?と言われる事もあったけど、なんだか... めがねって、なければないで、寂しい感じがする。 何度か、考えたことはあるんだけど。 めがねをかけることは、あたしにとっては仮面をかぶるようなものなのかもと、たまに思う。 外してしまうと、なんか戸惑ってしまうかも。 あたしはあたしなんだけどね。 |