それは中国史書を無視するもの
杉並区 吉田堯躬
本誌88号の福永氏の「?倭の興亡 その一」は興味ある論点を示しているが、納得しがたいものがあるので率直に批判します.
もっとも根本的なのは銅鐸の盛時である三世紀を記述した『三国志』には東?国の記載はない、という事実を無視していることである。
『三国志』は三世紀の倭人の国を記述するが、それは東夷伝の序文に記された方針に従っていると考えるのが至当である。序文の方針、すなわち、「撰次其国列其同異以接前史之所未備焉」に示すところ、前身が東?国である国の存在があれば、前史である『漢書』に記載のある東?国のその後の記述があってしかるべきである。もちろん、そうした記述はないのであるから、氏はそのない理由を説明しなくてはならない。
筆者は理由としては @ 陳寿が『漢書』の東?国の記述を知らなかった。A 陳寿が序文の方針通りでなかった。の二つしか考えつかないが、Aについては烏丸鮮卑伝、韓伝等の記述からありえない、と考える。
@については、陳寿が燕地の倭人百余国の記述を取上げているから、可能性は少ないが、呉地の記述を直接確認してはいない。読者の精査を求めたい。氏も古田史学の方法が自分の言い分に反する結果になる場合も徹底的に調査する初期の事例に従われることを期待したい。
倭人伝は女王国の東千里に倭種の国があることを記すが、それが銅鐸圏であることの可能性は高いと思われる。しかし、それは東?国ではないであろう。なぜなら、それは周の時代に歳時をもって呉地に献見し(倭と同じ)、前漢の時代には貢献記事がなく(倭と同じ)、後漢の時代には貢献がなくなった国(倭と異なる)という中国史書の記載と銅鐸圏の盛衰とは異なるから。
さて、鮭が東?国の献上品としても、丹波がその国であろうか。筆者の通っている新潟県村上市の三面川も古来から鮭の遡上地として著名であり、そのほか、東北、関東の河川で鮭の上らない川のほうが少ないであろう。したがって、周時代にさかのぼっての呉地との交流を示す必要がある。
筆者と同じく東?国非銅鐸圏説を出されている竹田侑子さんの「蟻鼻銭の謎―まぼろしの東?人国を探るー」の示されている亀ヶ岡式土器文化圏に出土する古代中国との交流を示す出土品のほうが筆者には有力である。
最後に、銅鐸圏の地域は製鉄と関連することは当然であろうが、その地が周時代に献見したとするのであろうか。氏は筆者の東?国批判説を承知している、とされたが、その論理を批判せずに論を展開されるのはいかがであろうか。
鬼夜の旅 藤沢市 田遠清和
1
古代への旅は、知的冒険の旅であり、新たなる発見の旅でもある。
今回の旅の第一の目的は、大善寺玉垂宮の鬼夜。日本三大火祭りのひとつに数えられる神事であり、国指定の重要無形民俗文化財でもある。
久留米市大善寺町に鎮座する玉垂
宮は、筑後の国三潴庄の鎮守・高良御廟院大善寺玉垂宮として朝野の崇尊を集めている。しかし、地元の住民にとっては平凡極まりないこの事実には、すでに多くの不思議が存在する。
その最大の不思議は、「ここ三潴の地には都が存在した。」この問題だ。
三潴に都があったことの第一の根拠。それは万葉集の次の歌だ。
大君は神にし坐せば水鳥のすだく水沼を都となしつ (万19―4261)
大王者 神尓之座者 水鳥之 須太久水奴麻乎 皇都常成通
右の作者未詳の作品は現在の万葉学では「水奴麻」を普通名詞の「水沼」と解釈し場所の特定を避けている。しかし歌に地名が読み込まれることは通例である。この歌が三潴の地を指していることは疑いがたい。
第二の根拠。それは現地地名および遺跡だ。久留米市三井には驚くべきことに「小朝庭」という字地名が残されており(注1「久留米市誌」上編・昭和七年版)近くに「曲水の宴」の遺構が発掘されている。長岡京における字大極殿、太宰府・都府楼跡における字紫宸殿・大字内裏の例からも明らかなように「朝庭」という字地名が、朝庭の実在という問題と全く関わりなく残されたとは想定しにくい。「朝庭」があったから「朝庭」という地名が残された。そう考えるのが理性的な判断であろう。また「曲水の宴」とは天子の遊興である。太宰府天満宮や平城京に曲水の宴の遺構が残されていること、周知の事実。「小朝庭」の地に曲水の宴の遺構が存在するという事実が指し示すベクトルはただひとつだ。久留米には都が実在したのだ。
御井と三潴は目と鼻の先。ほぼ同一領域と呼んでもさしつかえないだろう。そこに残る「小朝廷」という字地名と万葉集に歌われた水沼の「皇都」。これが無関係であるとは考えにくい。
第三の根拠。それは大善寺玉垂宮からほど遠からぬところに御塚・権現塚という九州最大級の円墳が存在するという事実だ。また隣接する八女市には筑紫の君・磐井の墓とされる岩戸山古墳があり、八女周辺だけでも300基程の古墳群が存在する。更に筑後川をはさんで対岸には「嶺の県主」の領土である三根、世界最大の環濠集落である吉野ヶ里遺跡がある。そして言うまでもなく大善寺と同じ玉垂宮の名を持つ高良玉垂宮。この神社が古代において中心的な役割を果たしている点、もはや古代史の常識と述べてもさしつかえないだろう。この地域は、単なる地方の一豪族の支配領域とは考えにくい。
その中心領域で行われる雄壮な火祭りの神事、それが鬼夜である。
2
大善寺玉垂宮の創建は天武天皇の白鳳元年(673)とされるが、実際はすでに1900年以上の歴史が存在する。このことは地元では公然の秘密となっている。
神社の表向きの創建年と実際とが異なるように鬼夜の祭りも表向きの由来と実際の内容とがかけ離れている。
鬼夜は追儺の火祭りで疫鬼払いの神事である。地元鬼夜保存会の方が作った資料を基に祭りの概要を要約しておこう。
@鬼会(大晦日〜1月7日)
種火の神火を神殿に灯し、大晦日から満願日の1月七日まで、神官が斎戒沐浴してそれを守り続け神事を行う。
A大松明作り(1月4日)
長さ13メートル・頭部の径1メートル・重さ1・2トンの巨大な松明6本を、6部落の総賦役で作る。材料はすべて竹で、芯竹として3本の大孟宗竹を通し、回りを小竹で包み365の縄目で締め上げる。
B鬼夜(1月7日)
午後一時、鬼面尊神の神事が始まる。鬼面尊神は昼間本殿から鬼殿へと渡り、夕方再び本殿へと戻る。ここで宮司の役割は終わり、後は代々受け継がれてきた勾当家でしきられる。この行事が終わって、午後八時ごろ、汐井口開けとなる。拝殿から二本の手松明を先導に、裸になった二十数名が汐井桶をかついで社前に流れる霰川に飛び込み、川の中央に張った注連縄の中で体を清め、汐を汲んで神前に運び供える。これが汐井汲みの行事で鬼夜の開始である。これを合図に、神殿裏の神苑に集まった裸の氏子数百人が禊をするために列を作って小松明を振りかざし、社殿と霰川の間を三往復し気勢をあげる汐井かきとなり、参道は一面の火の川となる。
午後九時、一番鐘を合図に境内全体の灯が消された浄闇の中で、手々降りを先頭に、裸のたいまわし全員が6本の大松明の回りに勢揃いする。手々降りは社殿横の直会場に走り直会を済ませて鬼火をまつ。やがて、社殿から鬼火が出てくる。神火からとった鬼火は、小松明に移され、社殿から粛々と大松明に近づき、一挙に、6本の大松明に火が灯される。この瞬間が鬼夜の最初の見せ場であろう。
大松明に灯された炎は闇を焦がし、境内は、爆竹音と歓声とに包まれる。やがて、古式にのっとって「鉾とった」「面とった」「そら抜いた」という魔払いの神事が鬼殿前の舞台で行われ、これを合図に鐘や太鼓が乱打され続け祭りは最高潮に達する。燃えさかる大松明は神殿を右回りに数回まわり、鬼堂にこもる鬼は赫熊姿の子ども達にかくまわれて堂を七回半、人目に触れないように回る。
午後十一時、燃え残りをもつ一番大松明と、赫熊の子どもや棒頭にかくまわれた鬼とが、惣門をくぐり霰川で禊をする。再び、鬼は神殿に帰り厄鐘の音とともに大松明は消えて祭りは終わる。
3
江戸時代の書物『吉山旧記』によれば、仁徳天皇五十六年(368)1月7日、籐大臣(高良大明神・玉垂命)が肥前国水上の桜桃沈淪の首を討ち取り、焼き殺したのが鬼夜の始まりとされる。しかし、この表向きの由来は実際の祭りのストーリーとは矛盾している。
第一点目、鬼夜のご神体は鬼面尊神であり、籐大臣ではない。鬼そのものがご神体なのだ。
第二点目、鬼夜では鬼は子ども達や棒頭にかくまわれて霰川に逃げ延びる。つまり、鬼は焼き殺されてはいないのである。
つまり、この神事は『吉山旧記』に記された表向きの由来とは全く異なる内容なのだ。
「鉾とった」
「面とった」
「そら抜いだ」
という魔払いの声は一見するといかにも鬼を討ち取った時の勝ち鬨の声のようにも聞こえるが、実際のところは、鬼はまんまと逃げ延びた上、神殿に無事帰還している。これは、どういうことなのだろうか?
旅行中のバスの車内において先生も同様の疑問を提示された上、鬼夜は南方に起源する祭りではないかという仮説を提示されていた。
根拠一、祭りは汐井汲みの行事から始まる。海との深い関係が連想される。
根拠二、祭りは裸の若者によって仕切られる。裸という姿態も南方を連想させる。
根拠三、大松明を燃やし続けている間、鰐口を乱打し続けたような打楽器の音が続く。これも南方系の民俗音楽を連想させる。
根拠四、大善寺玉垂宮には河童が祀られている。またこうやの宮の南方系の人形ばかりではなく周辺神社には河童伝承が分布している。河童伝承は南方系の住民の渡来した痕跡もしくは事実である。であるとすれば、鬼夜とはいかなる祭りなのか?
今後の研究が楽しみなテーマである。
4
鬼夜の翌朝、現地の新聞には太宰府天満宮の「鬼すべ」と「鬼夜」とが紙面を飾っていた。鬼すべは堂内に籠もる鬼とその護衛を神官が火と煙であぶり出し豆を投げつけ退治する祭りである。短い紙面の中にその内容が簡潔に記されていた。ところが鬼夜については籐の大臣の鬼退治としか記されていない。実際の内容には何一つとして触れられてはいないのだ。
久留米市に「小朝庭」の字地名が残る事実や「曲水の宴」の遺跡が存在する事実。こうした事実を、久留米市民はどれほど知らされているのだろうか?
正しい情報を市民に伝達しないことにより引き起こされた悲劇。それを戦前の日本民族は体験した。その過ちを再び繰り返してはならない。そうした使命感が現在のマスメディアに欠如していなければ幸いである
むろん、ことは久留米市民にとどまる問題ではない。日本国民ひとりひとり、そして日本国家それ自体が問わねばならぬ問題だ。でなければ国が指定する重要無形民俗文化財としての価値はあるまい。
大善寺玉垂宮の鬼夜の神事はそうした問いかけを、巨大な松明の炎のように、私たちの心の中に灯し続けて止まないのである。
【注1】
三井郡合川村の東南方向元の南方「古コフ」の地に在り。「フルコフ」は「古國府」の義なるべく此邊多く古瓦を出す、西方に溝渠の阯を存し、西隅高隆の地を「コミカド」と稱す「小朝廷」の意ならんか。(「久留米市誌」三、故蹟遺物・第四節國府址)
スミソニアンの旅余聞
川崎市 高柴 昭
ワシントン
ワシントンの二日目である。前の晩から降り始めた雪は朝には二十センチほどに積もっていた。テレビが学校閉鎖や公共サービス等の開始時間がニ時間遅れる等混乱状況を伝える中、我々は予定通り迎えのバスに乗り込んで、メガース博士ご推奨のダンバートンオークス博物館のプレコロンビアンコレクションを見学するべくジョージタウンに向った。
雪のため車の数が少ないこともあったのか、博物館には予定通りに着いた。入り口のドアは閉まっている。もし開館時間が遅れるようだと困るなと思っているとドアは案外簡単に開き、責任者のジェフリー・キルター博士をはじめスタッフの方々がにこやかに迎えてくださった。感謝しつつ博士のご案内で早速中を見せて頂くことになった。
こちらではよくアメリカのことを新世界という言い方をされるが、プレコロンビアンはそれに関連する言葉でコロンブスの大陸発見以前という意味らしい。考古学の世界としては括りとして大き過ぎるような気がしないでもないが、これも土地柄というものかと妙なところに感心しながら博士の後について回った。
最初に案内された場所は古典的な家具や調度に包まれた部屋で、第二次大戦の末期に、戦後のあり方を決めるダンバートンオークス国際会議が開かれ、その後国連の発足に繋がったミュージックホールだという。
最近、国連の役割や意義についての議論が広がっている。その源になった場所としては控え目の広さのように思えなくもなかったが、全世界の感心が戦争の終結に向いている時に耳目をそばだてずに会議を開くには格好の設営かもしれないと思われた。
グレコの絵が何気なく飾られ、大切に扱われてきた時代もののピアノやチェンバロが並んでいる。ストラビンスキーの曲はしばしばここで初演が行なわれ、今でも時々クラシックの演奏会が開かれるそうで、かつらを被ったモーツアルトが現れても似合いそうな重厚な雰囲気である。余韻を楽しみたい気持を残しつつ、先へ進んだ。
渡り廊下を経てプレコロンビアンの展示室が設けられていた。上から見ると円周上に八角形の展示室が八つ繋がっており、中心部には中庭があって展示室は大幅にガラス壁を取り入れた大胆な造りになっている。採光の面を最大限に重視した設計であるが、現在では光が当りすぎると痛むものもあり必ずしもデザインだけを自慢するわけにも行かない事情も生じているとの説明があった。
薄暗い展示室に置かれた物を見慣れた目にはきらきらした光の中に置かれた金や宝石で出来た装身具等は文字通り輝く宝物に思えた。中で目を引いたのは黒曜石製と説明された加工品だが、糸巻き状に丸く薄く加工された見事な仕上がりは我々が日頃見慣れた黒曜石製品とはどうしても思われなかった。Obsidianという用語には我々が知っている黒曜石以外にも、もう少し幅広い意味があるのかも知れなかった。全体として東洋的な感じは薄かったが、中には古代中国のものに似たような模様を持つものも見られ、唐草模様と言われればそのような気もした。
ニューヨーク
ニューヨークのニ日目は地下鉄に乗ってグランドゼロで及ばずながらも犠牲者の冥福を祈ることから始めた。摩天楼が立ち並ぶ中にポッカリ空いた大きな空間が衝撃の凄さを無言で語っていた。穴の周辺のビルの壁も激しく痛んで修復されていないまま残っている。現場のすぐ脇にある教会の垣根は、よくテレビで見られる通りTシャツや花束で隙間がない程ビッチリと埋められている。
現場は厳重な格子に隔てられて中に入る事は出来ないが、隙間から見ると最終段階と思われる片付け作業が黙々と進んでいた。
中に大きな看板が立ててあり、The human spirit is not measured by the size of the act but by the size of the heart、と書いてあった。
物質文明の象徴のように思われてきたアメリカ、その中心のニューヨークで、公共的な掲示物に「心」の重要性が書かれるほどの何かが起こりつつあるのかも知れなかった。この分野は東洋や日本が得意としていたはずで、力の追随とは別の道を探る導と、なり得るかもしれないと思われた。
アメリカ自然史博物館見学が昼間の部の最後の見所となった。開館は千八百六十九年とあるから明治維新の翌年になる。人類の文化、自然界、宇宙をテーマとして、発見、解釈、普及を目的として活動されている。
入口では混雑していたが、中は十分な広さがありゆったりと見て回る事が出来た。フロアプランに従って外せない所から回ることにし、まずはオルメカ文明に向った。型どおりの出土品の展示を眺めているうちに思わぬ物を見つけて一同の目が止まってしまった。何と、あの遮光器形土偶にそっくりな土偶があったのである。数多くの土偶の中で二点だけということではあるが、ユニークな形が全く偶然の産物なのか、又、この事自体議論される事があるのだろうか等と思いつつニューヨークを後にする事になった。
立川市 福永晋三
改新の詔を読む会(持統天皇紀)も神功皇后紀を読む会も、その中心の内容が直前の平田博義さんの文章に出ています。そこで、五月の予定のみ記します。
*改新の詔を読む会
五月二五日(日)午後一時半
堀留町区民会館
*神功皇后紀を読む会
五月一〇日(土)午後一時
杉並産業商工会館
*年次総会と古田先生の講演会を次の様に予定しています。次号にも案内いたします。
日時:六月八日(日)午後一時から四時半
場所:豊島区立南大塚ホール
*講演会資料費は千円〜千五百円を予定しています。(詳細は次号で)
*天津司の舞と山梨県立博物館見学会を下記の要領で予定しています。
日時:四月六日(日)
募集人数:20名
参加費用:六千円 会報85号に高木さんの見学記事がありますので、参考にしてください。問い合わせは事務局まで。
*会員福永氏参加の合同講演会が久留米大善寺で四月十三日にあります。
問い合わせは事務局まで。
大善寺玉垂宮千九百年御神期大祭
四月十一日(金)〜十三日(日)
講演会(四月十三日午後1時から)
古代のロマン─水沼の歴史を探る─
大善寺玉垂宮創建の謎を解く
一、
鬼夜に秘められた古代史
福永晋三(都立昭和高校教諭)
二、玉垂宮縁起絵に関して
菊竹淳一(元九州大学教授)
会場…大善寺校区公民館大ホール
玉垂宮縁起絵が里帰りして公開されます。
【「新・古代学」の原稿募集】
「新・古代学」第七集の原稿を以下の要領で募集しています。
*締切り:原則として2003年4月末日
*
歴史・考古学関係の論文・随想・報告など、原則として二万字以内。手書き原稿は二部お送りください。(校正等に必要なため)
*パソコン、ワープロの原稿はフロッピー・デイスクを添付しソフトの形式・作製機種を明示してください。特殊な資料、貴重な原版はお手元にとどめられ、コピーのみお送りください。印刷段階に改めて送付いただきます。
*
採否は編集部に御一任願います。
*
送付の際は他の原稿と区別するために、表に「新・古代学原稿」と表示してください。
*
原稿送付先
東京古田会事務局・高木 博
郵便番号167―0051 東京都杉並区荻窪1の4の15までお願いします。
古田先生の展開してきた論から出発しながら、自己の論理の赴くところに従って、各人それぞれのテーマの探究の道を歩いている各会の論者が、室伏志畔氏を代表に「越境の会」を独自に立ち上げ、同時代社から「越境としての古代」を初版自己費用負担で出版をしましたので、案内いたします。内容タイトルは次の通りです。
定価は千六百円+税。割引販売可能ということですので購入希望者は事務局のほうまでお問い合わせ下さい。
第一章:豊前王朝説
「九州難波津」の発見
大芝英雄
第二章:「磐井の乱」を考える
六世紀前半の倭国
兼川 晋
第三章:日本偽銭考
和銅開珎の「謎」を考える
添田 馨
第四章:倭国易姓革命論
福永晋三
第五章:起源の物語
『常陸国風土記』
松崎健一郎
第六章:「新撰姓氏録」の証言
三宅利喜男
第七章:九州王朝の脱構築
室伏志畔
【友好団体の会報から】
多元No・54
ウラジオストックの史料批判
―出雲弁と東北弁
古田武彦
国際教育シンポ
―古田先生参加発言要旨
安藤哲郎
玉垂宮鬼夜の火祭り
清水 淹
神籠石―古代山城を訪ねて
下山昌孝
日本書紀に見る二倍年暦の兆候
清水 淹
謡曲の中の九州王朝
―逆鉾・龍田 新庄智恵子
スミソニアンの旅に参加
村井洋子
埼玉県から旧石器遺跡
長井敬二
「臺・台(たい・だい)」地名を訪ねて
長井敬二
二つのダイイング
安藤哲郎
古田史学会報No・54
歴史の曲がり角
ウラジオストックの「発見」
古田武彦
四番まであった「君が代」
深津栄美
ソクラテスの二倍年暦
古賀達也
『神武が来た道』和歌山平野から熊野へ
伊東義彰
淡路島・東香川、史跡めぐりの旅
木村賢司
連載小説「彩神」第10話
―真珠 深津栄美
菩提僊那僧正像
水野孝夫
糸島の小さい神社・桜谷神社
平谷照子
「古田史学いろは歌留多」大募集
木村賢司
九州古代史の会No.107
日向・大隈の史跡見学会報告
編集部
白村江の戦いは662年
兼川 晋
日本古代史のラフ・スケッチ
室伏志畔
「「清の見た邪靡堆国」を考える
松中祐二
ニュースの89号には「古田史学会報の熟田津論簡約」という題で、編集部・福永晋三氏が論文・意見を発表しています。この件に関して申したいことがあります。
先ず、氏が編集部と称しても東京古田会を代表する意見ではありません。
次に、氏の「意見」の中には不適切・不穏当な文言がありました。いささか感情的な過剰表現で関係者にご迷惑をかけたことをお詫び申し上げます。
会則の「古田武彦を中心として日本の古代史を市民の立場から学問的に究明する」立場に反しない限り、会員の良識を信じ、提出した原稿はすべて掲載するようにしています。
近・現代史でも解明されていない事実がたくさんあります。古代史の論考はすべて仮説といってもよく、それをどう説得的に論証するか、そのプロセスが重要であります。
問題は会員の多くの人から多様な違った意見を出してもらいたいということです。納得いかなければ私を含め読者の会員の批判を浴びるだけのことです。東京古田会ニュースは会員に開かれています。
しかし、だからといって特定の個人や団体を誹謗中傷して良いことではありません。匿名で投書しても受付けられません。この点、原稿採用などの編集方針についてもっとはっきりしたく、今度、事務局に編集委員会を作りました。ご期待下さい。編集後記に詳しく書いてあります。
いい研究をしていてもシャイで出さない人がたくさんいらっしゃることも知っています。どうぞ投稿をしてください。お待ちしています。
*スミソニアン旅行参加者の最長老は92歳の柳沢義幸氏。23歳の(孫でない)娘の京大大学院生翠(すい)さんを連れてきた。氏は全部自前の歯で元気一杯。福岡県二日市のお医者さんで、「王冠」などの有名大コレクター。ご自宅にプライベート博物館をお持ちとか。
*通訳の飯塚文枝さんも同じ年頃。おかっぱ頭で縄文・バルデビアの土偶そっくり。アメリカの大学院で考古学を専攻し、メガーズ博士の後を継ぐ学者になるでしょう。
*古田先生はこの二人の娘さんの他にロシアに強い松本郁子さんという京大の大学院生が大のお気に入りになった模様。ウラジオストックでの研究のパートナーになるでしょう。
遅くなりましたが「発掘された日本列島2002」を府中市郷土の森博物館にて見てきました。数々の新発見出土品の中から荒屋遺跡旧石器後期13000年前、荒屋型彫器を含む細石器類を伴う遺跡群が日本にては新潟県荒屋、北海道白滝を始めロシアのイルクーツクのヴェルホレンスカヤ山、マカロクオ、クーラウや沿海州のウスチノフカ、クナシリのソコル遺跡他シベリア、カムチャッカ、アラスカからも出土分布図が掲示されていました。
極東ロシア地域と日本列島との日本海を介在とした交流を再度考えるべきと思います。
古田武彦氏の「出雲神話の国引き神話」の実像に迫る考察と調査活動を支援したいと思います。
福永氏の一連の発表に対して当会会員を始め各友好団体会員の方々からの貴重なご意見、激励、ご指導をありがたく受け止めて福永氏共々、今後とも古田武彦と供に日本古代史の解明にいそしんでいきたいと思います。
スミソニアンへの旅はご参加の皆様のご協力を給わりまして無事当初の目的以上の成果を上げることが出来ました事務局よりお礼申し上げます。
当初3月下旬に予定いたしました「韓国慶州史跡巡りの旅」は半島情勢を見定めまして、新たに企画いたします。
追伸:4月幹事会、勉強会は4月27日(日)、阿佐ヶ谷勉強会は4月19日(土)予定
編集後記 高柴 昭
突然ですが、一言ご挨拶申しあげます。この号より「編集委員会」が編成されることになりまして、その一員として編集に携ることになりました高柴ともうします。東京古田会には二年ほど前に参加させていただき、半年前から幹事の末席を汚させて頂いております。
東京古田会に参加して以来、節度を踏まえつつも自由闊達な研究発表や意見交換に接し感嘆すると共に、古代史の究明に懸ける皆様方の熱意について行く事が精一杯でありました。又、文献や書籍などの紹介、入手に対する便宜など思いやり溢れる対応に感激いたしております。この度は旧い会員の方から、不用になったと云うことで探しても中中見つける事が出来なかった書籍などをお譲り頂くことになり望外の喜びを感じております。
古田氏が切り開かれました所謂多元史観も、その後研究者が陸続し理論の面では益々深化しつつある様に見えますことは誠に喜ばしい限りであると思います。
が、眼を普及面や研究者相互の連携と云う面に向けますとき、相互の相違点に眼が向き勝ちで必ずしもエネルギーが相乗効果が期待できる方向に向わずに、ややもすると相違を強調して潰しあう方向に向う傾向がある様に見えますのは誠に惜しまれることだと感じております。
東京古田会もその目的は会則にあります通り「古田武彦氏を中心にして、日本の古代史を市民の立場から学問的に究明する」と明確でありますが、運営の基本方針と云った部分につきましては、従来やや曖昧さを残していたように見えます事は否めないと思います。
此の度「ニギタヅ論争」に端を発し多少の混乱が生じておりますが、その背景にも運営基本方針の曖昧さといったことが影をおとしている様に感じられます。
その反省を踏まえ、会報の「編集委員会」が設置されることになりました。その場で確認された編集の基本方針(案)は以下の通であります。いずれ総会の場でご承認頂きたいと思います。
一、 古代史にかんする議論(論争)は会の内外を問わず積極的に行う
二、 議論の対象は事実関係、解釈、推論等古代史の究明に関するものとする
三、 他の会の運営等については議論を行わず、個人攻撃等も行わない
四、 同時に他の会から当会の運営方法や個人に対する干渉じみた意見開示等がなされるようなことがある場合には明確な対応を行う
今後は従来の活動に加え、今まで以上に皆様に納得して頂ける会報の発行を目指しまして微力を尽したいと考えております。宜しくお願い致します。
又、引続き皆様からの積極的な投稿をお願い致します。