T o k y o 古 田 会 N e w s

−古田武彦と古代史を研究する会−  No.88 Nov.2002

http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line

代  表:藤沢 徹

編集発行:事務局 〒167-0051  東京都杉並区荻窪1-4-15  高木 博 TEL/FAX 03-3398-3008

郵便振替口座 00110−1−93080   年会費 3千円

口座名義 古田武彦と古代史を研究する会        会員外配布一部 \400.-(実費)

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


目 次

*閑中月記第二十一回  −中国往来−               古田 武彦

 

*神武東征地と饒速日命                                 室伏 志畔

 

*八百万、千万(ヤオヨロズ、チヨロズ)考         飯岡由紀雄

 

*諸葛亮伝の全集上表文再録の考察(続き)          吉田 堯躬

 

【東鯷国特集】

*東鯷国九州王朝征服説は成立たない                                吉田 堯躬

 

*東鯷国について                                                                                     佐野 郁夫

 

*鯷倭の興亡 その一 −卑弥呼の時代の三国鼎立−                       福永 晋三

 

中国・山東省の古代史跡を尋ねて                        山浦 純

 

【教室便り】

*改新の詔を読む会    福永 晋三

*神功皇后紀を読む会   福永 晋三

*【友好団体の会報から】

*【お知らせと案内】

 

*会長コーナー     藤沢 徹

*事務局便り      高木 博

*編集後記         飯岡 由紀雄

 

閑中月記 第二十一回

中国往来

古田武彦

 中国から帰ってきた。

 今年の十月十六日から二十一日まで、山東半島の画像石群や仏教遺跡を巡った。いずれも、時間が足りぬほど、数々の見聞に恵まれたのである。

 なかでも、出発前から、わたしの関心の中心は曲阜だった。孔子やその門弟、顔回の生地だ。今は、儒教の、というより中国文明の聖地である。

    二

 論語の雍也篇に、孔子が顔回について述べた有名な言葉がある。

 「賢なるかな回や。一箪たんの食し、一瓢ぴょうの飲、陋巷ろうこうに在り。人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。」

 これに対する岩波文庫の訳(金谷治訳注)は次のようだ。

「えらいものだね、回は。竹のわりご一杯のめしと、ひさごのお椀一杯の飲みもので、せまい路地のくらしだ。他人ならそのつらさにたえられないだろうが、回は〔そうした貧窮の中でも〕自分の楽しみを改めようとはしない。えらいものだね、回は。」

問題の一句、それは「陋巷に在り。」である。通例は、右のように「せまい路地のくらし」といった形で理解されている。論語集註(朱熹著)などに収載された歴代の注釈類、また近年、中国旅行のさい、北京や上海、また曲阜などで買ってきた、論語の注釈類を見ても、大体、例外はない。

わたしが、新たな視点をもったのは諸橋徹次氏の『如是我聞、孔子伝(上・下)』(大修館書店刊)を読んだときだった。

「この辺は陋巷街という、正しく孔子の弟子の顔回が一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在ってその楽しみを改めなかったという陋巷そのものであります。」(八ページ)

右のように、諸橋さんは曲阜で「陋巷街」を見ているのだ。だとすれば、この陋巷、論語の中の「陋巷」も、固有名詞ではないか。つまり、地名ではないか。そう考えたのだ。

もちろん、紀元前六〜五世紀の地名が現在にまでつづいている、という保証はない。そんなこと、分り切っている。むしろ、現在地名が論語に基づいて、呼ばれている≠ニいう可能性も、当然無視できない。

けれども、問題の本質は次の一点にある。

「陋巷に住んでいたのは、陋巷に住むにふさわしい身分の人にだったのではないか。」

これだ。現代なら、永井荷風のように「江東のちまた」に身を隠し、夜な夜なバーやカフェに姿を現わし、それらの店の「遊女」と言葉を交わす。心を結び合わせる。そういう風流人も、ありえよう。そんなインテリもあったかもしれぬ。

しかし、あの周の春秋時代、魯の曲阜において、果してそんな光景が見られただろうか。そんな「住み人」があっただろうか。わたしには信じられない。

 かつて、京都へ来た。神戸をはなれ、洛南の地、洛陽高校の教師となった。そこは南区、唐橋近辺にあった。京都市内では西南のはし

に当っていた。

 住居は、逆。京都大学の東、あの吉田山と東山連峰との間、真如町にあった。

 赴任直後、後輩の教師から聞かれた。

 「どちらにお住まいですか。」

 「はい、真如町です。」

 「それは、それは。結構なところにお住まいですねえ。」

 わたしは、変な気がした。自分が探し当てた神楽岡荘という名のアパートは、今にも崩れそうな、ぶっそうな建物だった。だから、家賃も安かった。その上、何よりも京大に近い。∞大学の図書館にも、近い。≠サういった理由で、探し当てた部屋だったからである。

 「あの、安アパートが。なぜ。」

 そう思うと、可笑しかった。相手の方の「結構な」という口調が、何とも似つかわしくなかったからである。

 しかし、これは誤解だった。わたしの錯覚だったのである。その方は、見もしない、わたしの安アパートを褒めてくれたのではなかった。土地を褒めておられたのである。「左京区」という場所、そして「真如町」という土地に対して、「結構な」を連発されたのであった。

 やがて、知った。京都の土地の人の中の「土地差別」を。その理屈抜き≠フ基本感覚を。

 上京区や左京区など、「上かみ」の名は品格の高い%y地であり、下京区や南区など、「下しも」の方は卑しい£n域なのである。この理解から、あの芭蕉とその門弟たちの

 「下京や雪積む上の夜の雨」

など、一連の俳句のもつ意義、その真相が解けてきた。その経緯については、『失われた日本』(原書房刊)にすでに書いた。この「土地差別」問題こそ、右の句、特に芭蕉が「下京や」という「かむり(第一句)」以上のものがもしあれば、以後二度と俳句を語らない、と、凡兆や去来などの門弟に決然と告げたこと、その真の背景がこれだったのである。

 二十一世紀の日本にさえ遺存する、この「土地差別」、これは果して春秋時代の曲阜には存在しなかったのだろうか。

 貴族でも、士大夫でも、その人の趣味次第で「陋巷に住む」、そんな社会だったのだろうか。やはり、わたしには信じられない。

 諸橋の大漢和辞典に

 陋宗(ロウソウ)─いやしい家柄

とあり、

 伊ェ陋宗、昔遘嘉恵

〔盧ェ、贈劉琨詩〕

 〈注〉向曰、陋宗、謂卑陋之姓

とされている。すなわち、

 「いやしい家柄の者(陋宗)が、陋巷に住んでいた。」

 そう考えては、いけないのだろうか。もし、そうだとすれば、

 「顔回は、いやしい身分の出だった。」

 そういう帰結となろう。

 これが、顔回理論の「根本」である。

    四

 論語の全篇において、「顔回」の占める位置は、各門弟中、抜群、出色である。

 顔回が死んであと、すでに、門弟中に「学を好む者を見ず」(雍也篇)と言い、門弟(子貢)と同じく、自分(孔子)自身も、「顔回に及ばず」と言っている一節(公冶長篇)なども、著名である。

 その顔回は夭折した。そのさい、孔子が歎いた言葉は、あまりにも痛ましい。

 「顔淵死す、子曰く、『噫ああ、天予われを喪ほろぼせり、天予を喪ぼせり。』」(先進篇)

 この時、孔子は悲歎のあまり、自己を見失ったのだろうか。認識を狂わせたのだろうか。なぜなら、「孔子の道」とされた儒教は、漢の「国教」として再生したのみか、その後も、朱子学や陽明学、さらには日本においても、江戸時代の荻生徂徠や伊藤仁斎をはじめ、陸続と後継者が出た。今日でも、「儒教」や「孔子」の名を知らぬ人とて、ない。

 では、あのときの歎きは、一体何か。孔子の一時の感情の高ぶり、一片の錯覚だったのだろうか。

 次回は、これについてゆっくりとのべたい。

 (曲阜で入手した、顔回に関する論作の冒頭を、末尾にかかげる。「孔子文化大全」と銘打ち、『孔門弟子研究』と題する。山東省の出版局の発行。待望の一書だった。福永晋三さんの御労訳に厚く感謝したい。)

 第四日(十月十九日、土)、曲阜をあとにして済南市に向かった。山東省博物館を見学した。これも、待望の北朝系の石仏群の一端に接することができた。

 歴城区の仏教遺跡を経て、有名な千仏山遺跡へ。さすがに、唐代などの石仏が生々しい≠ニ言いたいくらいの鮮やかさで見られ、さすがに、その威容に打たれた。

 ただ、すばらしい通訳、名ガイドぶりを発揮された孫堅強さんが、 「『千仏』と言っても、御覧のように、とても『千』はありません。ずっと、ずっと少ないです。

中国では『千』というのは、その数だけある、という意味ではなく、『素晴らしい』という意味です。そう、誉め言葉ですね。」と言われたのに対し、あとでわたしが

「唐代など、各代に渡った廃仏棄釈でこわされつづけましたね。今あるのは、その残存したものじゃないでしょうか。」

と聞くと孫さんは素直にうなずき、

「そうかも、しれません」と言っておられた。

現に、最近の文革運動の中で破壊された遺跡も遺存していた。

また、博物館で見た隋朝の見事な仏像一体の光背には、百体近い仏像の姿が立派に残されていたのであるから、「千」も、必ずしも虚数≠ナはないのかもしれぬ。処々の山容の間に、仏像が刻出されているのだ。岩壁がそれを待っていた≠謔、にさえ見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


   六

 今回の旅行の圧巻は、何と言っても、画像石遺跡だった。さらに、孫氏(兵法で有名な『孫子』とその一族)の竹簡群だった。漢墓竹簡博物館である。

棄てられかけた「廃竹」から、見事な「竹簡」を克明に復元した、その精密な労力、長期にわたる作業の成果に驚かされた。

 画像石のおびただしさ、その微妙な画材のとりかたには、ただ「時間が少ない」ことを歎く他はなかった。もちろん、しっかりした資料集も出されているから、これらに取り組もうとする研究者には、不便はない。

    七

 画像石中に、面白い問題があった。

例の「太陽」の中に「烏」が描か

れている。そのこと自体には、不思議はない。太陽の黒点を黒い鳥≠ナある「烏」と見立てること、当然だからである。(もちろん、ヨーロッパでも、そうしているわけではないから、やはりこれも「文化」だ。)

 けれども、さらに「三本足の烏」となると、もう自然物≠ナはない。人間の「観念」の所産だ。これは、何か。

 すでに、わたしの探究してきたテーマがある。「三本足の烏の淵源」問題だ。

第一、沿海州のウリチ族に「射日神話」ならぬ「殺()神話」がある。弓矢ではなく、「石」を投げて「二つの太陽」を殺し、現在のような「一つの太陽」となった、という投石神話である。弓矢のあった「縄文」より以前の段階である。まだ「神」も生れていなかったから、「神」は現われず、人間のみが「登場」する。

第二、現在、千葉県近辺で行われている「オビシャ」。八日市場市椿の星神社の場合、「三つの太陽」をデザイン化した「三つの輪」の書かれた紙に「三本足」が描かれている。祭には小学一年生の子供が、「矢」を手に持ってすすみ、この「三本足の烏」に突き通す。それで終わりだ。

 右の「ウリチ族の投石神話」の系列である。弓矢の「矢」はあっても、射撃せず、「手で突く」のだ。素朴である。やはり「縄文以前」の姿なのだ。

 第三、これに対して、中国のケース。有名な曽侯乙墓(そうこういつぼ)の帛(はく)や「春秋(緯)」などの周代末期や漢の画像石など(今回、見たものにあり。)の画や文中に現われる「三本足の烏」がある。

 これらはもちろん、「縄文以後」だ。

「弓矢」も、当然出現している。「神々(伏羲など)」も現われている。「神以後」の姿をしめしている。

 第四、では両者の「交流関係」いかに。文献や画像石の「時代」から言えば、もちろん中国の方が早い。問題外だ。

だが、その実質内容を見ると、断然「逆」となろう。ウリチ族や関東人の方が、ことの「原型」を保存し、二十一世紀の「今」へと伝存してきていたのであった。

 こう考えてみると、当然

「ウリチ族→日本列島、関東人→中国文明」

という伝播経路≠ニなろう。そうならざるをえないのである。

 「三つの太陽」は、天空を「レンズ」とした、反射現象であるが、―当然「六つ」や「九つ」もありうる―そのような天然現象出やすい°C候が、沿海州などの地帯なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


逆に、天空の明晰な日が(沿海州より)多い日本列島では、太陽の「黒点」は一層観察されやすい≠フではあるまいか。ここに、日本列島で、関東・和歌山・岡山等と「太陽の黒点」の形象化としての「烏」が人気≠得た原因があるのではあるまいか。(紀州の熊野神社、岡山中学の校章、そしてサッカー。)

 けれども、それが「なぜ、三本足か」となれば、やはり、

「日本列島文明の一淵源、その底流としての沿海州文明」

というテーマへと辿り着かざるをえないのではあるまいか。

     八

 「中国文明はアジアや世界の中心。」

という、中華思想から見れば、右のテーマはとんでもない#w理と見えることであろう。

 しかし、それは、しょせん、いわば、

 

「浅薄なる中華主義」

に過ぎぬ。

なぜなら、一個の「壮大なる文明世界」が成立するとき、必ず、それに先行する、周辺の諸文明の恩恵をうけ、それらを「吸収」して成立しえているのである。この道理に、例外はない。

 とすれば、偉大なる中国文明の場合も、その一つ。そう考えて何が悪いだろう。それ以外の考え方は在りえないのである。

 中国文明は単一の一文明ではない。一大複合文明だ。A・B・C・D・E……といった、諸文明の「統合体」である。

その「結合のキイ」、それが「漢字」だった。種々の文明の、種々の言語を結びつける*割をになって成立してきたのである。

その一つ、例えば「A」に沿海州文明があり、その「B」に日本列島文明があったとしても、何の不思議もない。

 「中国文明は、周辺に影響を与えても、周辺からの影響は受けない。」

 もし、このような考えを持つ人があったとすれば、それが中国人であれ、日本人であれ、いうなれば、

 「中華・皇国史観」

の持ち主にすぎぬのではあるまいか。ふりかえれば、日本という「島国」の中の皇国史観の「本場」は、中国にあった。論語の中にすら、「影」を投げ、「大わく(ヽヽ)」をなしている中華思想がそれである。

しかし、「中華思想」をもと(ヽヽ)に中国を見る人には、中国の姿は見えない。

これが歴史の真実であるようにわたしには見えるのである。

    九

 嵐山の紅葉も、深まりつつあるようだ。竹やぶに囲まれたわが家にも、その気配は濃い。

朝夕の落ち葉も、日一日と、その色合いを増しているようだ。

その落ち葉掃きをしつつ、今年の六月以来、あまりにも収穫の大きかった「時の暦」をめくり直してみよう。

─二〇〇二年十一月十一日─

 

〜わたしたちのあと、同じ山東半島の中の旅行で、事故に遭遇された方々に対し、深い哀悼の意を捧げさせていただきたい。(追記)〜

 

「孔子文化大全」(李啓謙著)

(斉魯書社 一九八八年七月)

『孔門弟子研究』

(山東省出版総社組織出版)

(一)      顔回(顔淵)

一、                                                        家柄経歴

 顔回、姓は顔、名は回、字あざなは子淵。また顔淵と称す。春秋末年の魯国の人。紀元前五二一年に生まれ、紀元前四八一年に(孔子より三十歳若くして)死んだ。その家庭状況は、『論語・雍也』篇に言う、彼は「竹のわりご一杯のめしと、ひさごのお椀一杯の飲みもので、せまい路地のくらし、他人ならそのつらさにたえられないだろうが、回は〔そうした貧窮の中でも〕自分の楽しみを改めようとはしない。」のであった。生活はわりあい貧乏なものだ。

 しかし、『史記・弟子列伝』は記載する、彼と父親の顔路とは「父子それぞれ別々の時に孔子に師事したことがある。」と。彼ら父子が長期間孔子と一緒に読書学習した状況から見ると、その家庭は決して一物だにないはずはなく、その身分も決して奴隷であるはずがない。

 『荘子・譲王』篇の資料に言う。「回よ、そなたは家が貧しく地位も低い。どうだね、仕官してみたら。」顔回は答えた。「仕官などしたくありません。と申しますのが、わたくしには城まちの外に広さ五十畝の田圃たんぼがあり、それで粥ぐらいは作れます。また城の中には広さ十畝ほどの田圃があり、桑や麻を植えて糸ぐらいはつむげます。……わたくしは仕官などしたくありません。」

 もしもこの資料がなおかなりの参考にする価値のある話なら、それでは、顔回の出身は一定の家の財産のある自由民であるかもしれない。

 その経歴は比較的簡単で、二つの語句で概括できる。生涯仕官せず、ひたすら孔子に随って学習し生活した。死に到るまで、基本的には孔子から離れることはなかった。

 顔回の研究においては、下のごとく幾方面の問題があり探求を進めることが必要だ。

(翻訳 福永晋三)

『論語』は金谷治訳注(岩波文庫)、『荘子』は福永光司訳(中国古典選・朝日新聞社)に拠った。

 

神武東征地と饒速日命

      大阪市 室伏 志畔

 

 もう四年前のことになるが、私は『大和の向こう側』(五月書房刊)で、古田武彦が『東日流外三郡誌』が繰り返すメイン・テーマ、日向の賊・神武に追われた長髄彦の津軽定着という問題について、『東北の真実王朝』の中で、こう書いたことを問題にしたことがある。

《率直にいって、私は批判的だった。あの「三郡誌の長髄彦=記・紀の長髄彦」という基本のテーマに対し、首を縦にふることがどうしてもできなかったのだ。》

 「記・紀の長髄彦」とはほかでもない、神武によって畿内大和を追われた長髄彦のことであるが、古田武彦は『東日流外三郡誌』に登場する長髄彦説話は安日彦を常に帯同していることから、これを神武説話にある長髄彦ではないとし、「三郡誌」の日向の賊は、神武説話に関連あるものと、そうでないないものが混在しているとし、その分岐点に古田武彦が置いたのは「筑紫の日向の賊」の一句であった。そしてこの「筑紫の日向の賊」を天孫・瓊瓊杵尊(邇邇藝命)とし、東日流の長髄彦説話は九州の瓊瓊杵尊によって追われた長髄彦のことであり、畿内から神武に追われた長髄彦でないとし、それを傍証するものとして九州の痕跡を引く東北における稲作伝播について論じた。

 私はこの二人の長髄彦問題を興味深く読み、古田史学の白眉と思えたあの輝かしい神武論はここでついに振り出しに戻ったのであると断じた。それは九州域内の神武東征を、記紀史観のままに近畿大和への東征とした古田武彦に訪れた不可避の矛盾の露呈と思えたからである。

 

《古田神武論の歩み》

 私が初めて古田武彦の著作に出会ったのは、「古代は輝いていた」の古田新三部作が出揃った一九八五年の夏のことであったかと思う。その中の『日本列島の大王たち』で、古代の河内湾の奥深くに日下を置いた畿内の弥生〜古墳期の地図に出会い、『記・紀』の記述がいかにリアルであるかを説く古田節に聞き入った。そこで古田武彦は、「淡路島以西不戦」問題に始まり、「速吸門」問題、「日下」の論証、「南方」の論証を行い、ことに古代地図に符合した「日下」と「南方」の論証に、私は唸ったのである。というのはそれと前後して吉本隆明が『ハイ・イメージ論』で、神武の熊野からの大和侵入にある地名を、「無限遠点の宇宙空間から地表に垂直に降りる視線」である世界視線を、人工衛星ランドサットからの畿内画像に重ねて、神武紀にある熊野からの侵入地名は標高七〇メートル線上にあり、また神武たちの初期王朝は標高五〇メートル線の湖岸に展開された弥生集落の共同体を宗教的威力によって統合したとする論は、当時の歴史地図に合致しているとする視点は、古田武彦の弥生期の地図と符号し、戦後史学が架空とした神武東征は完全に歴史に奪回されたと考えた。

 その七年後の一九九二年、古田武彦は『神武歌謡は生きかえった』で、神武の出発地を通説の宮崎県の日向から、福岡県の糸島郡の高祖山の麓にある天孫降臨地の日向に重ね、神武歌謡の謎解きを行い、瞳目すべき「君が代」の新解釈へ歩を進めた。

 つまり古田神武論は一九七五年上梓の『盗まれた神話』から一九九二年の『神武歌謡は生きかえった』まで、実に十七年の歩みがあり、神武東征から神武東侵を経て神武東行と進んで来た。それは古代地図との符号という画期の論証からその神武出発地の変更という修正を含んで、さらなる飛躍を勝ち取ったのである。この自説の修正を含んださらなる飛躍に私は魅せられたのである。ことに神武出発地の変更は天孫降臨論との絡みもあり、私は一度はそうではないかと疑いながら、古田任せにしてきた自分を恥じ、それをバネにして私は、偽書疑惑の謀略をもって九州王朝説を葬ろうとした安本美典の謀略にもの申す形で古田史学にコミットすることになった。その私がなんの因果で、かつて古田史学の白眉と思った神武東征論に異議申し立てを行わねばならぬのかと皮肉な巡り合わせをそのとき嘆いたものである。

 

《大倭豊秋津洲の意味》

 それから四年した二〇〇二年の今年、記紀の「神武の来た道」を古田武彦は同行者と共に自ら辿り、神武論の集大成を「新・古代学」六集の「神武古道」で行っている。これを今、俎上に乗せたいと思うのは、神武東征をどう見るかは、大和朝廷論の根幹に関わるからである。

 私は古田三部作の内の『盗まれた神話』の天孫降臨論と神武東征論に蹴られなかったら、古代史に興味をもったかどうかは怪しい。その私が古田史学の金字塔と思えた天孫降臨論の核心部分について異を唱えることから『伊勢神宮の向こう側』(三一書房)を成し、息を呑む思いで読んだ神武東征論について、『大和の向こう側』で異議申し立てをするのだから、明日はまったく恐ろしい。

 私の疑問はこうである。同書で古田武彦は国生み神話を取り上げ、矛をかき回してできた大八洲国の中に銅鐸圏の大日本(大倭)豊秋津洲が含まれているのは「不審である」とし、本論で通説はこの筑紫洲を九州全体、大日本豊秋津洲は本州としたが、この大八洲国の地図は天孫降臨時点の政治地図で、前者は天孫降臨地の筑前領域なら、後者の大日本は「後世の付加」で、実体は豊秋津洲で、それは豊国の国東半島にある安岐から別府湾岸に比定した。そこは天(アマ)地名の氾濫地域であったことに重なる。この画期の比定に私は触発されながら、なぜ後世の大和朝廷はこれを大和のある本州の美称として用いたかを思ったとき、大和朝廷の出自をそこに重ね、そこからの大和の《移動》という驚嘆すべき問題に突き当たるほかなかった。というのは歴史の造作は、フロイトの古典的定義によれば、史官による《書き換え》と《移動》という二つの軸から成るからである。しかし古田武彦を初め日本人の造作意識には、すっぽりと《移動》の観念が欠落していることを思ったからである。かくして古田武彦は豊秋津洲について明察したとはいえ、大倭を後世の付加とするところに置くほかなかった。しかしそこには唯一、天皇の即位奏告を受ける宇佐神宮があったのだが、その意味について古田武彦は今のところ語ろうとはしない。

 

《饒速日命と大倭》

 神武東征地となった大日本(大倭)には、すでに降臨した天神族の饒速日命があった。その末裔の物部氏の『先代旧事本紀』では、「三十二神霊、五部族、五部造、二十五部人」をもって饒速日命は降臨したという。これは「三神霊、五部族、二軍団」による祭祀氏族の降臨にすぎなかった天孫・瓊瓊杵尊をはるかに上回る大部隊の降臨であった。このとき天神族の降臨の目的地は、実は大倭への降臨であって、瓊瓊杵尊の筑前の日向への降臨はその別動隊の派生的な事件にすぎなかったのではないのか。それが、後世の天孫族の繁栄が、饒速日命の降臨を押しのけて天孫降臨事件として特筆大書されることになったのではあるまいか。

 瓊瓊杵尊の降臨に先立つ饒速日命の降臨地を思うとき、対馬海流上の天国領域からのその降臨が、九州ではなく瀬戸内海の最深部にある大和に置いてよいのであろうか。鳥越憲三郎や谷川健一がすでに遠賀川流域に濃厚に残存する物部二十五氏の地名を拾っていることを思うとき、私は神武東征を畿内大和とする記紀史観を疑うほかなかった。

 私の幻視によれば、この遠賀川流域の最深部の筑豊に大倭(大日本)が在り、饒速日命を祭祀する安日彦と政治を司る長髄彦に対し、同族の「日向の賊」である神武が襲ったのである。彼らは始め遠賀川を遡行し、その中心を目指したが長髄彦に見つかり、この侵入は失敗し、彼らはかつての邇邇芸命の母である万幡豊秋津師媛が開いた豊秋津の別府湾岸に退き、その上部の国東半島の御毛国に入植し、捲土重来を期したのである。神武の別名が稚三毛沼命で兄に三毛沼命があることは、その傍証となろう。その地はかつて遠賀川から侵攻した大倭の背後にあった。この裏からのゲリラ的急襲作戦が、遠賀川に睨みをきかせていた長髄彦に不覚を取らせたのである。そして大倭に入った神武は神日本磐余彦尊と名を改めたのである。とすると狭野命は腹を空かしていた筑前の日向あるいは豊の安岐津での名前であろう。

 この神武の急襲の中で饒速日命一族は分裂し、その本流は遠賀川一帯の居住地を捨て近畿に入った。そしてその傍流が神武と結んで物部氏と成ったのである。私の新たな幻視では、この本流の逃亡経路が、後の神武東征の瀬戸内海経由の日下への侵攻経路に取り込まれたのではないのか。彼らはその上陸地の近くに石切剣箭神社を営んだ理由であろう。そこで彼らはかつての九州の大倭への降臨を、ここでのことのごとく伝承したのである。

 それ以前に、畿内大和の三輪山の麓に侵入し、銅鐸を一掃した一族について私は、素戔鳴命によって征服されて八俣大蛇と蔑まれた八雲族と見ている。そして素戔鳴命に奇稲田姫を差し出し合流したのは、おそらくその傍流でこの合体の中から饒速日命一族は誕生したのである、現在、各地にある天照神社や天照御魂神社はこの饒速日命系の信仰であって、決して天照大神系ではないのは、その祭神が天照国照彦天火明櫛玉饒速日命とあることによって明らかであり、それは対馬海流上の天国と出雲国の共存を意味する日神信仰の確認であったのは、筑豊の大倭と同じであった。しかし時代は次第に天つ神(天照)系による国つ神(国照)系の征服に進んだのは、大国主命の国譲りや神武東征に明らかである。さらにその征服王権のねじれの中でこれら日神信仰を剽窃して皇祖神・天照大神が創造されたのは、七世紀後半以後のことに属する。

 

《王道としての神武東征論議を》

 ところで、九州王朝説の側において記紀の神武経路を辿る実地検証と前後して神武東征論議がまた盛んになったのは喜ばしい。そこで古田武彦が「熊野より吉野への道」が「険しい山々を貫く」、尾根伝いの「縄文ルート」であったとする「神武古道」論も成立を見たが、その一方、古賀達也は紀伊半島を迂回して熊野村まで神武は「神倭伊波禮毘古命」と呼ばれていたが、高倉下が登場するに及んで「天神御子」に名を変えているとし、それ以後の天神御子による戦闘譚は「天孫降臨神話からの盗用」とする古田「神武古道」論に対立する見解を発表したのは記憶に新しい。これに先立ち、福永晋三が「於佐伽那流 愛彌詩」の中で「忍坂の大室屋に………撃ちてし止まん」に至る神武歌謡もやはり天孫降臨時の肥前征服伝承からの借用としたことも記憶に値する。また古田武彦自身も神武経路にある天磐盾をこれまでの新宮市の神倉山の崖やごとびき石から、別府湾岸の登り立てに戻した。かくして紀伊半島迂回の神武侵入経路は賛否両論が沸騰する薮の中に入った。

 しかし、これは筑紫の日向から日下の蓼津での戦闘に敗れ血沼海へ敗走するまでは、すでに古田武彦によって論証されたところであると、いみじくも古賀達也が述べた記紀の神武侵入経路の部分的な実地、文献論証の中で起こった話にすぎない。私や大芝英雄は、記紀にある神武東征譚のすべてを疑い、大和からすべては始まったとする大和一元史観のトリックは、記紀の神武東征のこの布石にあったと考え、私はその幻想表出に注意を促した。おそらく記紀の神武東征は、遠賀川からの侵入失敗譚と豊前の難波からの筑豊への大倭侵入成功譚をつなぎ合わせ、瀬戸内海経過地を一行挟むことによって生まれたのである。

 それは最初に見た国生み神話の政治地図は天孫降臨時の政治地図ではなく、神武東征後の政治地図と見るとき、筑紫洲は筑前から筑後に広がり、大倭豊秋津洲の大倭(大日本)は、決して後の付会といったものではなく、別府湾岸に連続する地域として、神武東征によって拡大されたその上の豊前領域を意味するのはもはや自明だからである。

 我々が求めるのは誰もが納得する歴史の真実、諸王の王なのだ。とするとき誰も自説のナルシストたることはたやすいが、それを拒否する学問の王道の中にしか真実はあり得ない。現在の完全とはいえない神武東征の検証が、部分的ではなく、全面的に検証される中で、より発展的な結論を得るためにも、対立する異論を却下することなく論争が行われることを望みたい。(H一四.七.二三)

 

八百万、千万(ヤオヨロズ、チヨロズ)考

杉並区 飯岡 由紀雄

 

今、目の前にこの稿を書くきっかけとなった一遍のパンフレットがある。

昨年の古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊30周年記念講演会(10月8日)の際に参加者に配布された講演会資料である。

その資料の中に日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人磨の作る歌一首の資料が掲げられている。人麻呂がこの国がどのように出来あがったのかを、歌の冒頭から荘重に歌い出して行く歌である。古田先生がこの歌を取り上げたのは、この講演会が初めてではなかった。

講演会では主に上座、下座について飛鳥(あすか)「飛島」の話と絡めて福岡県、小郡市にある地名との関連について、お話されたのであるが、それは、以前にも何回か多元の会主催の講演会などで伺った話であった。ちょうどその頃、「X」印から、国つ神の代表とされる出雲の「八」、「八州」という数字に対する記紀の表記の異様とも思えるこだわりを始め、天つ神の開いた「八」「八州」を一つだけ上回る国「九」、「九州」について考えていたこともあって数字についてはかなり敏感になっていた。

そこで先生の熱心な話を伺いながら目に飛び込んできたのは「八百万(ヤオヨロズ)」、「千万(チヨロズ)」である。

これは一般に「数の多いこと」と説明、納得されているようであるが出雲の象徴であるような「八」を頭につけて「八百万(ヤオヨロズ)」というのはまあ良いとして、それと対立するように使われるのに、何故「九百万(クオヨロズ)」と言わずに「千万(チヨロズ)」という言葉が日本語として定着し、使われているのだろうかと考えてしまいました。

「八重(ヤエ)」があり「九重(ココノエ)…キュウチュウとも呼び「宮中」の意味でも使われると辞典に説明があります。」と、きちんと国つ神、天つ神の言葉として対応して残っているものがあるのに、この場合だけどうして「千万(チヨロズ)」なのか、心の中に湧き上がってきてしまった疑問が大きくなるにつれ、古田先生のお話の声はそれに反比例するかの様に遠く、小さくなって行ってしまいました。一方、先生の同歌中の「神下し 座(いま)せまつりし」、「神あがり、あがり座(いま)しぬ」がどうやら福岡県、小郡市の上座、下座の地名に関係があるのではという説明を聞きながら、この「八百万」、「千万」も地名に関係しているものではないかと思うに至りました。

ならば果たしてその地名とはいかなるものであろうか。

「ヤオヨロズ」を分解するとすれば「ヤオ+ヨロズ」であろう。

「ヤオ」は八尾、八王、矢尾と出雲に関係するとともに現存する地名である。

「ヨロズ」は川・河の民とされる蛙・河伯・河童が「川衆(カワズ)」と呼ばれているのがヒントになった。

「ヨロズ」は「寄衆」であろう。「八百万・ヤオヨロズ」はこうして解けた。

「八尾寄衆」で八尾(八王、矢尾等)に代表される出雲に、天孫降臨時に天孫の侵入に対抗して与力・合力した人々を表す言葉なのであろう。

「チヨロズ」も同じように考えられないだろうか。

同様に分解すれば「チ+ヨロズ」である。ただ、これでは思い当たる地名が浮かんでこない。何かの音が落ちている感じである。「ヨロズ」は固定できそうであるので、問題は前の部分の「チ」である。音が落ちるとすれば後ろの頭の音と同音のはずである。それを付け加えれば「チヨ」である。「チヨロズ」は「チヨ+ヨロズ」であるに違いない。

「チヨ」は古田先生が仰っているように福岡県の県庁所在地「千代」であろう。

鬼前大后、上宮聖徳法王・太子の話を思い起させる、あの「千代」である。

「チヨロズ」は「千代寄衆」で天孫・天孫側に組した人々を表す言葉だったのである。

そうした人々…今ではもう神々となった人々が天の河原に集まって和議を諮り、天照らす日女の尊をその頂点に立てることにより、この国の形が出来たと人麻呂は歌うのである。

 

出雲に2度(古事記、書紀では3度)に渡る「国譲り」説得隊を派遣、大国主に侵入にあたって手を出させないことを承諾させたものの、なお、八尾・出雲に組して戦う人々の数は天国・対馬、壱岐の侵入軍が本土内呼応軍(対出雲反乱軍)の人々をその数に加えたとしても圧倒的に多かったのであろう。最近の古田先生によれば、侵入軍は高祖山連峰・日向のクジフル岳に集合日時を定めて、何派かに分かれて山の峰伝いの縄文ルートを使い、見つからないように侵入したと言う。これはまったく、信長の今川義元を破った多勢に無勢のあの「桶狭間の戦い」を想起させる戦いである。

その「多勢」であった記憶をして「八百万(ヤオヨロズ)」がその本来の意味(寄衆・ヨロズ)を失い、単に「多数」を意味するようになるとともに、一方、「千万(チヨロズ)」には「時」の観念加わることで万代・世(ヨロズヨ)となり、「君が代」、「蛍の光」の歌に使われるように「長久」を意味するようになったとしか、私には思えないのである。

古田先生が「君が代」に歌われている「千代」を地名に引き戻し、その歌解釈に新たな視点の光を与えたのは、まだ記憶に新しく、日本国民の国歌「君が代」理解に対する先生の大きな功績の一つです。

「八百万(ヤオヨロズ)」、「千万(チヨロズ)」の言葉がこのように、「君が代」に歌われている千代と同じように地名を基盤にして成立した言葉であるとするなら、その複合語とも思える各地に点在する「八千代(ヤチヨ)」という地名は「天孫降臨」後の和議の一時の平穏な時期に国つ神と天つ神が和議の実行・具体化として共同で入植、開拓された土地として付いた地名なのではないでしょうか。他の地名に比して新しさを感じてしまいます。

また、単一地名として千代田も日本各地にあります。これなども千代に実りを約束してくれることを称え、祈りを込めて、人々が名付けた地名なのか、九州・福岡の千代にその出自の淵源を求めた人々に由来する地名なのか興味が尽きません。

以上の様に「八百万(ヤオヨロズ)」、「千万(チヨロズ)」を地名に戻して考えてみましたが、会員の皆様はどのようにお考えでしょうか。ご意見ございましたら事務局編集のほうまでお寄せ頂ければ幸です。

2002年8月8日記了

 

諸葛亮伝の全集上表文再録の考察(続き)

杉並区 吉田堯躬

 前号に曹家の漢王朝簒奪に対する非難の文の掲載はあるが、司馬宣王に対する非難の文を見ないと述べた。その続きの前に禅譲についての陳寿の見方を検討してみる。

陳寿の禅譲観

漢から魏へ禅譲する献帝は山陽公となるが、その伝は立てられていない。また、その禅譲を受けた文帝紀にも、その評価の文はない。ただ、山陽公の薨に際し、明帝が公としてでなく漢の礼式により漢孝献皇帝としてなされた記述がある。

一方、魏から晋への禅譲を行った陳留王は三少帝紀の最後の伝であるが、そこに禅譲の日時、その方式が漢魏禅譲の例に従ったことを記述する。陳寿の禅譲観はこの三少帝紀の評に記される。

 

評曰古者以天下為公唯賢是與後代世位立子以適若適嗣不継即宜取旁親明徳若漢之文宜者斯不易之常準也明帝既不能然情繋私愛撫養嬰孩傳以大器託付不専必参枝族終於曹爽誅夷斉王替位高貴公才慧*成好問尚辞蓋亦文帝之風流也然軽躁忿律之肆自陥大禍陳留王恭己南面宰輔統政仰遵前式袖揖譲而禅遂饗封大国作賓于晋比之山陽班寵有加焉(注1)

 

評にいう。古代では、天下を公共のものと考え、ただ賢者だけに与えられた。後世になると世襲になり、嫡子を後継ぎに立てた。もし嫡子が後を継がない場合には、旁系の親族のうち徳すぐれた者を選び出すべきであって、漢の文帝、宣帝がその例にあたる。これこそ不変の法則である。明帝はそのようにすることができず、私の情愛にとらわれて幼な子をいつくしみ育て、〔その子に〕天子の位を伝えたうえに、一人の人物に委託の責任をおわせず、あくまで一族のものを参与させた結果、曹爽が誅滅され、斎王が帝位を追われることになったのである。高貴郷公は才能すぐれ若くして完成をみ、議論を好み文章を尊重するなど、文帝の風格を持った人物だともいえよう。しかしながら、軽はずみな性格で憤怒にまかせ、自分から大きな災難〔死〕に陥ってしまった。陳留王はつつしみ深い態度で帝位にあったが、宰相が政治をとりしきり、〔けっきょくは〕過去の方式に従って、おだやかに帝位を譲り渡すこととなった。かくして〔晋から〕大国を領土として受けとり、晋王朝の賓客として礼遇された。彼を山陽公〔後漢の献帝〕と比すると、一段と寵遇されたと言えよう。(注2)

すなわち、天命の尽きた王朝は禅譲することが天の意志であり、それにより禅譲した旧王者もすくわれる、という観点が明らかである。

なお、明帝批判が明帝紀の評でなく、ここになされたこと、また、劉備の孔明に対する委託を理想とする観点があることは注目される。

魏晋禅譲批判の文言は右にでている曹爽の誅滅及び高貴郷公の災難は司馬への抵抗であり、そこに司馬の専横や曹家への介入批判があったと思われるが、そうした文言は筆者の見た限り記されてはいない。ただ次の語句をわずかに見出した。まず、后妃伝中の明元郭皇后紀。

 

三主幼弱宰輔統政與奪大事先咨啓於太后而後施行毌丘倹鐘會等作亂咸假其命而以為辭焉(注1)

 

(時に三人の皇帝が幼少であったために、補佐の大臣が政治を行い、国家の大事については、すべてまず皇太后におうかがいをたててから、施行した。毌丘倹と鐘會らが反乱をおこしたときも、みな皇太后の命令に仮託して理由づけを行なった。

〈注2〉)

しかし、毌丘倹伝及び鐘會伝にはその辭はとられていない。

 

毌丘倹伝に次の文がある。

正元二年正月有彗星数十丈西北竟天於吴楚之分倹欽喜以為巳祥遂矯太后詔罪大将軍司馬景王移諸郡國擧兵(注1)

(正元二年〈二五五〉正月、数十丈の長さの彗星が出現し、西北の空いっぱいに尾を引いた。それは呉・楚の分野にあたっていた。毌丘倹と文欽は喜び、自分たちのための瑞兆と考えた。かくて太后の詔勅を偽作し、大将軍司馬景王〈司馬師〉の罪状を書きつらね、郡や国に送るとともに、兵をあげて反乱を起こした。

〈注2〉)

 

また、鐘會伝に次の記述がある。

會以五年正月十五日至其明日悉請護軍郡守牙門騎督以上及蜀之故官為太后發喪於蜀朝堂矯太后遺詔使會起廃文王皆班示坐上人(注1)

 

(鐘会は〔景元〕五年〈二六四〉正月十五日に〔成都に〕到着したが、その翌日、護軍・郡守牙門騎督以上の身分のものと蜀の元官吏たちを全員招き、蜀の正堂において太后〔明元郭皇后、四年十二月に崩御〕の喪を発表すると同時に、太后の遺書を偽作して、鐘会に兵をあげて文王を廃せよとお命じになったといい、座中の人すべてに宣示し、〈注2〉)

 

現在の『三国志』には裴松之の注

があり、前者の伝には毌丘倹・文欽の上表文が補われており、十数項目の痛烈な司馬師批判が収録されているけれども、陳寿の本文には敵国誹謗の言はないのである。

陳寿の孔明著作集上表文採録の意図

 

陳寿は魏から晋への禅譲を当然としてはいたが、その点は漢・魏禅譲も同じであるから、そのために敵国誹謗の言の収録を行なわなかったのではあるまい。

当然のことではあるが、陳寿は晋朝の史官であるから晋朝の歴史編纂方針に従い、晋朝への誹謗の言の収録はできなかったのである。その場合、陳寿の才能を愛した上司の失脚が孔明著作集の場合と差ができた理由であろう。『三国志』を正史としなかった勢力の編成方針のもとで、上表文採録によって孔明著作集と異なることを、そして前者編纂の際に上司である張華の態度をたたえたのである。

司馬炎への寛容感謝の言は上司張華への思いを含めた語として理解できる。

注1:百衲本『三國志』(台湾商務印書館発行)による

注2:訳文は筑摩書房刊『三国志』

今鷹 真・井波律子訳による

 

*東鯷国特集*

東鯷国九州王朝征服説は成立たない

      杉並区 吉田堯躬

 

 八十七号の福永氏の「『鯷』字考―東鯷国の比定に関して」を読み、氏の同字が鮭ではないかとする考察に感服した。たしかになまずとかカタクチイワシでは一国を代表する献上品としては不十分の感じがあったが、鮭ならば日本列島の名産品として恥ずかしくないし、その皮による冠の作成も納得できる。

しかし、丹波がその東鯷国とする結論はいただけない。

氏が神宮皇后の丹波出発による征西により九州王朝を打倒し、継承したとすることは国内伝承の再構成であり、まだ十分納得したわけではないが可能性を認めるのにやぶさかではない。

ところが東鯷国は中国史書に記載されているものであるから、中国史書により解釈される必要がある。

したがって、同国の記述が『漢書』と『後漢書』にしかないという事実を無視しての論証やその発展はおかしい。

『三国志』の孫権伝の夷洲及び亶州についての記述にはそれが東鯷国であるとはされていない。また、『後漢書』の記事は、むしろ前号に指摘したように両者は別個に並列の関係で記述しているから、両者をイコールで結ぶことは不可能なのである。

さて、今回中国文献の中から「鯷海」の用例を指摘され、「鯷人の住む海外の国」とされ、中国では陸に囲まれた地域を海とするとして日本海、もしくは若狭湾とされている。

しかし、同字については「古称会稽之外海。因其間有東鯷人所建二十余小国而名。」とされているのであって、日本海とか若狭湾とする特定性は見出せない。そればかりでなく、会稽海外を日本海と見ることは『漢書』の「楽浪海中」の表記や三国志の「大海」とする記述との整合性がない。

福永氏の古田説への態度は筆者も同感であるけれども、国内伝承によって中国史書を解釈するのは松下見林へ戻ることであり、方法論としておかしいと思う。

 

東鯷国について

千葉市 佐野郁夫

 

一、はじめに

 東鯷国は前漢書(班固32-92)の巻二十八下地理志、呉地の終わりに「會稽海外有東鯷人。分為二十餘國。以歳時來獻見云。」と後漢書(范曄398-445)の巻一百十五東夷傳第七十五東夷、倭在韓東南大海中。の終わりに「會稽海外有東鯷人。分為二十餘國。」があり、約三百五十年後の後漢書は前漢書を踏襲していることが解る。尚燕地のおわりに「夫楽浪海中有倭人。分為百餘國。以歳時來獻見云。」がある。時代背景と遺物特に玉璧やガラス璧等から論考を進めたい。

二、前漢

(中國の歴史・貝塚茂樹著参考)

 

 漢の高祖(前202-前195在位)は秦の拡張政策を取らず、人民に負担をかけない守勢安定政策をとった。次の景帝(前195-前188在位)は病弱で母の呂后(前187-前180在位)が政治。

 次の文帝(前180-前157在位)は寛仁の君主で漢帝国独自の制度を創設し、漢帝室による中央集権の実をあげよとの政治学者の賈誼の主張を全面的に採用出来なかった。

 次の景帝(前157-前141在位)で呉楚七国の乱を平定後、郡県制の上にたった中央集権的な漢帝国の行政組織は完成し、政権は安定した。

 次の武帝(前141-前87在位)は董仲舒の儒教的国家を再建すべしという主張に心引かれ、前130に儒教は漢王朝の国家の正統学門として公認。漢帝国と儒教思想との抱合はそれ以後二千年にわたって中国の王朝国家の性格を決定した。律令国家の政治は儒教的教養をうけた文人の手で行われた。

 国内の体制を整備した漢の武帝は、国外に眼を向け、もつとも強大な匈奴に対応した。前129年から119年までの10年にわたる長い戦いがはじまり、前127年には将軍衛青が黄河のオルドスで匈奴の大軍を破り、秦の旧長城内の失地をとりかえし、長安への脅威をとりのぞいた。前119年に匈奴と漢の最大の会戦か行われ、漢が大勝した。前103年までめぼしい戦争は見られない。武帝は漢帝国の版図を西はゴビ砂漠、東は前109年朝鮮を征伐し、楽浪、玄菟、真番、臨屯の四郡をおいて統治した。

 次の昭帝(前87-前74在位)、武帝の全遺産を継承した治世は、国内、国際とも両漢四百年中の絶頂時代と称され。

 次の:温厚な元帝(前74-前33在位)、次の貴公子・成帝(前33-前7在位)の頃は衰退の兆し。次の哀帝(前7-前1)、次の平帝(前1-西紀5在位)の時代は宦官専制による腐敗政治と農地の兼併による社会の貧富の差が拡大し、大きな社会不安。

 外戚の王莽(西紀8-24在位)が新国を建てる。

 制度の改革を実施。周礼の如き理想制度に近づけるのが改正の理論的目的の一つであった。民の貧しきを憂えず、均しからざるを憂える儒教の教義にしたがつて、何らかの社会政策を実行するのが改正の現実目的であつた。

 まず天下の田を王田、奴婢つまり男女奴隷を私属と改称し、奴隷売買を禁止した。この法令は貧農や奴隷には歓迎されたが、大土地所有者にして奴隷主である天下の貴族、豪族、大商人、一般の自作農から致命的な悪法として、猛烈な抵抗をこうむつた。

 最大の失敗は貨幣制度と官制の改革であつた。

 さらに天下に二王なしの大義名文論をふりかざした王莽は、天下の諸王国のみでなく、辺境、外国の国王をすべて侯と改称し、外国にこれを通告する使者を派遣した。今まで漢の某王の印章を貰っていた蛮夷の君主は、新たに某侯の印章に取り替えられて憤慨した。匈奴は完全に離反した。これの征伐を強硬する為、地方に派遣した官吏の不正が続出し、人民は流亡して盗賊となり、やがて大規模な農民の叛乱をまねくもととなった。

 そこで後漢の光武帝(西紀25-57在位)が洛陽に都を開き、中央政府の組織の強化に全力をあげた。

 続いて遺物に触れる。当時の日本で前漢の遺物は玉璧とガラス製璧が重大と考えている。

 

三の一、前漢の玉璧

 前漢書巻二十八下地理志の粤地のおわりに黄地國有り。民族ほぼ珠崖と相類す。その州広大。戸口多し。異物多し。武帝(前140−前87)より以来、皆献見す。駅長有り黄門に属す。募に応ずる者。倶(とも)に海に入りて明珠、璧流離、奇石、異物を市(か)う。黄金、雑(ざつそう・種々のきぬ)を齎して而して往く。

 前漢書巻九十六上、西域傳第六十六上の罽賓(けいひん)国王。循鮮城を治む。長安を去る萬二千二百里。都護に属さず。戸口勝る。兵多し。大國なり。(中略)

 罽賓の地平は温和なり。その民巧なり、雕文と刻鏤(こくろう)。鉄を罽(けい・うおあみ)。文繍を刺す。好く食は治まる。金・銀・銅・錫有り以て器と為し。市場に列らぶ。金銀を以て銭と為す。銭文は騎馬の形、幕面は人面。出封の・水牛・象・大狗・沐猴・孔雀。珠璣。珊瑚。虎魄。璧。流離。武帝より罽賓は通じ始む。

このように罽賓国(カピサ=現ペグラム地方、アフガニスタン)と黄支國(カーンチプラ=現コンジェベラム、インド)の項に産物として璧流離と璧と流離がある。

 さらに山東省嘉祥件の武氏祠石室には、壁面に画象が刻まれていて、一般に武氏画象石(150年頃)として有名である。この画象石の一隅に、璧が描かれ、それに璧流離の名称がつけられて、その説明として、「王者は禍ちを隠さざれば、則ち至る」と刻み込まれている。

武氏画象石の璧流離には璧の図がついているので璧流離がおそらくガラス璧を意味していたと考えられるのに対して、「漢書」の中に使われた璧流離は、外国の産物として描かれている。漢代には、ガラス製の壁もかなり作られていた。璧は天子より下賜される貴重な宝物であり、吉祥なものであった。

 なお前漢書には罽賓国も黄支國も武帝のときより献見するとあり、罽賓國のその民は雕文刻鏤に巧みとあり。また璧、流離と使い分けている。玉の璧があり、ガラス璧もあった可能性が高い。黄支國は璧流離でありガラス璧のみであろう。

尚、私は平成14年10月18日に「古田武彦氏と行く中國・山東省の古代史巡り」で嘉祥県武氏墓群石刻を見るのを今から楽しみにしている。心躍る此の頃である。

 

三の二、東鯷國の玉璧

 古代南九州、特に太平洋の志布志湾岸を武力統一したおりの大器が文政元年(1818)日向國那珂郡今町、現在の串間市に住む、農業佐吉の所有地、字、王之山の石棺より出土した。

 現在東京目黒前田尊経閣(旧侯爵前田家関係)に保有されている。

 平成5年春、お願いして写真を取り寄せたが見事なものである。写真の径で20糎である。

 実際は更に大きい、尊経閣の長華子さんにお願いして菊池紳一氏に実測して戴いたが外形33.2糎、厚さ0.6糎の見事な大寶器である。どこも欠けた所のない完全な璧、即ち完璧である。

 尚戦国時代、趙王「和(火)氏の璧」に秦王が城邑十五と交換の申し入れに蘭相如の外交活躍の完璧物語が史記に有名てある。

 この東鯷玉璧を実物大の33.2糎と雲肌麻紙に描き、その年10/8-13、第9回白馬絵画展に日本画10号(53×45糎)で出展した。33.2糎大の玉璧は10号に程よい大きさである。

 そのとき感じた実物大の33.2糎の円、から外縁、外側の絡縄文2つ、内側の絡縄文2つ、孔縁と孔径6.4糎の円と8つの円を描き、外側に五つの龍を、内側に三つの鳳を、外側と内側の間に穀粒紋を克明に数え半分位の粒もいれて五五〇粒を確認して描き、骨がき(墨いれ)が終わったときの喜びは忘れがたい。

 この玉璧は玉髄的瑪瑙製と考えるが、玉髄はきわめて微細な石英の結晶が霜柱状または放射状に無集合し、緻密な固まりをなすもの。普通は白色半透明、そのほか灰・青・緑・赤・褐などの諸色を呈する。蝋状光沢を有し、硬度6.5-7.0と硬い。

 また一般的なものを玉髄、縞状・帯状をなすものを瑪瑙という。

 墨いれ後、色をいれたが、柿色に近いオレンジ色を上右の四分の一強に残りの部に褐色に近いチョコレート色に。褐色・穀粒紋の光沢を胡粉で表す。

 春遅く写真を依頼して一月かかって届き、梅雨・夏の前半かかつて描いた玉璧、実物の大きさ、色など十分体感することが出来た。今も書斎で光り輝いている。

 玉璧の歴史にふれると玉壁は周礼に「礼拝天神用蒼璧」と古来祭祀用であった。副葬品としても棺内に入れられている。時代が下がるに従い建築調度の装飾に用いられた。

 良渚時代(前3300-前2000)に径10糎以下だったのが戦国時代(前五世紀頃)から径10糎以上となり、前漢の初めには皇帝の兄弟等に径20‐30糎大と大型化した。品質も石系から玉系に向上。また彫刻された戦国時代の龍鳳玉璧(河南省孟津県出土・径14.8糎・厚さ0.6糎)、龍や鳳が配される玉璧は曾侯乙墓、中山王墓、南越王墓、徐周獅子山楚王陵などから見事な品が出土している。このような最近の資料も含めてかなりの数の玉壁を調べた。

 この東鯷玉璧は彫紋、大きさ、玉質とも上述の品々に負けない見事さで、遅くとも武帝以前、前漢初期の玉璧と考える。前漢書・地理志に有(ゆ)うように、前漢の天子から東鯷國王に下賜された祭祀用の玉璧である。後代の金印の前駆であろう。後漢書、光武帝紀第一下、中年二年(57)春正月---東夷倭奴國王遣使奉献。この遣使奉献に対し天明四年(1784)、志賀島から出土した漢委奴國王の金印がある。金印下賜より僅か二百年程前に東鯷國に下賜された玉璧が、今も王之山の地名を伝承している王之山より出土した。

 なお前漢書・地理志に呉地とあり、今の会稽、九江、丹陽、豫章、盧江、広稜、六安、臨淮群、呉の分を尽すなりとあり。呉の地区が完全に前漢の支配地になったことがわかる。即ち地理志の終わりに天下を分けて三六郡につくる。---武帝三辺を広げる。高祖二六を増し、文・景帝各六、武帝二八、昭帝一、凡そ郡国一0三とある。これらから東鯷国も前漢支配となった。ここで会稽郡の前漢支配は何時頃、高帝紀第一下・高祖12年(前195)---詔して曰く、呉。古の建国なり。また地理志・会稽郡のはじめに秦の置く高帝6年(前201年で前漢の成立は前200年)、荊國と為す。更に12年(前195)呉と名のる。景帝紀第五・4年(前153)春。復び諸国を置く。地理志・景帝4年江都に属し揚州に属す。

以上のように会稽の前漢支配開始時は荊国、呉のとき国を建て、景帝4年(前153)に郡の中に取り込んでいる。東鯷人はこの時期以降に歳時來り獻見し、天子から見事な玉璧を下賜されたであろう。

 

四、倭人のガラス璧

 前漢書・地理志・燕地のおわりに「夫楽浪海中有倭人。分為百餘國。以歳時來獻見云」と。この時の獻見に前漢の天子は同様に、或いは少し良い玉璧を祭祀用として下賜したと

考えた。20余國と100余国の勘案を考えた。しかしそうではなかった。

 出土したのはガラス璧だった。

 倭国王墓と考えられる福岡県前原市の三雲遺跡はガラス璧が8つ、福岡県春日市の須玖岡本遺跡はガラス璧残欠2つ、そのほかに福岡県朝倉郡峯遺跡でガラス璧2つである。

四、一、

三雲遺跡南小路・一号甕棺墓

 

四、一、一、調査!822年

 福岡県前原市三雲南小路・一号甕棺墓は弥生中期後半の倭国王墓と考えている。その豪華絢爛たる出土物、棺外で有柄中細銅剣1、中細銅戈1、朱入古壺、棺内に鏡は大小35面。   

 ガラス璧1、ガラス勾玉1、ガラス管玉。

 呱々で文政五年(1822)、当時の碩学青柳種信著の筑前怡土郡三雲村所掘出古器図考によれば三雲村の農長清四郎の宅地南隣・南小路に土塀を築むと土地を三尺ほど掘りて下げて一銅剣、これは鋒(ほこさき)を上にして植え埋める。鋒を上にして立てている。その傍に一銅鉾・小壺が出て、その下に大甕二口その口と口をあわせて横臥し、その内は必ず人の屍ならんと懼れて掘り下げをやめて郡庁に訴える。その後堀上げてみれば、甕径二尺余、深さ三尺余と二つとも同じほどなり、この大甕素焼き、その中に古鏡大小三十五面・銅鉾大小二口・勾玉一また鏡と重なる間毎に形偏く円にして径二寸八分(8.5糎)、中間に穴あり、穴の径七分(2.1糎)、両面とも堊土(しらつち)を塗った如し、半面の白き中に霰紋に形厚く縁を側(そばだ)てて見ゆ。堊土の如き物の中はあめ色で光沢有り硝子(ビイドロ)の如し。

 その硝子は久しく水土に蒸され表は白色に変えられことごとく砕け分からず。また図があり、おもての破片として扇形で内側10外側19の点、右方7列左方8列に描かれ合計119の点があり、霰、萌黄色。裏の全図として円形で中に径3分の1の穴がある。円形の部分にいろ白とある。図の右に鏡の間にこれを敷きかさねたり。と但し書き。

 この当時の資料によると問題のガラス璧は、甕内の鏡の間に挟んであつたもので径8.5糎、穴径が2.1糎の萌黄色のガラス璧で穀粒紋が200-300程だつたことがわかる。

 

四、一、二、調査1985年

 1985年(昭和60)、福岡県教育委員会発行の「三雲遺跡」南小路地区編、福岡県文化財調査報告書・第69集によると一号甕棺墓と二号甕棺墓は図では4mはなれ、文政5年の発見のものを一号甕棺墓とし、一号甕棺墓より北側約4mのところに盗掘された別の甕棺墓、本体が半分ほどのこっていたもの2号甕棺墓とした。

@甕棺墓壙は東西長さ4.15m、南北長さ約3.6mの隅丸長方形で、墓壙内内側には2段の段築と格段に平坦面を設け、3段目が最下段となる。

A甕棺の時期は弥生中期後半の新しいものである。

B副葬品(1号甕棺墓の副葬品は青柳種信の柳園略考にその大半が紹介されているその種類はつぎのとおり。)

棺外  有柄中細銅剣1、中細銅戈1、朱入小壺、

棺内  細形銅矛1、中細銅矛1、重圏彩画鏡1、四乳雷文鏡1、重圏斜角雷文鏡「精白」銘鏡、重圏「清白」銘鏡2、連弧文銘帯鏡26以上、ガラス璧1(8)、ガラス勾玉1(3)、ガラス管玉多数(60以上)であるが、調査の結果は()のように改める。新発見のものとして金銅四葉座飾金具8個分追加された。

三雲遺跡一号墓の鏡9面の科学的分析・鉛同位体比の結果。

東京国立文化財研究所・馬淵久夫、青山学院大学理工学部・平尾良光。

重圏彩画鏡・1号鏡、

朝鮮系遺物・多紐細紋鏡や細形銅利器と同類の鉛。

雷文鏡・2号鏡、

前漢鏡の範囲、中國北部産の鉛。

連弧文清白鏡・3号鏡、

朝鮮系遺物。

連弧文清白鏡・5号鏡

前漢鏡の範囲。

連弧文清白鏡・7号鏡

朝鮮系遺物。

連弧文清白鏡・4号鏡

朝鮮系遺物。

連弧文清白鏡・8号鏡

前漢鏡の範囲。

重圏清白鏡 ・21号鏡

前漢鏡の範囲。

重圏精白鏡 ・19号鏡

前漢鏡の範囲。

 

1号鏡・3号鏡・7号鏡・4号鏡の四面は朝鮮半島産の原料で作られたのは朝鮮半島であろう。とある。9面の内4面である。4割の比率である。前漢鏡と朝鮮半島産製作の鏡が混在していることは前漢の武帝が楽浪郡を支配した前後と考えられる。

 

四、一、三、ガラス璧

 ガラス璧は、柳園略考や資料によると、棺内の重ねられた鏡の間に挟んであったもので、略考によると唯一箇所で2片となる物あり。これによると径2寸8分(8.5cm)、穴径7分(2.1cm)、厚さ2分許(0.6cm)の大きさであるという。

 発掘調査では大少の破片が20片ほど発見されたが、このうち13片が個体を識別でき、7個体に復元整理できた。したがつて略考や資料に記載されていた1個を合わせると合計8個以上が存在したことになる。

 図があり、図1は出土中最も多くの破片が揃ったもので、原形の3分の1以上がある。大きさは直径12.3cm、内径3.8cm、穀粒紋最大厚さ5.5mm、外縁端厚さ2.8mm、内縁端厚さ3.2mmである。

 厚さは穀粒紋で内側(3.6mm)から外側(3.05mm)に向って薄くなっている。穀粒紋は片面のみで、裏面は完全に平坦で縁取りもない。穀粒紋は、3.5×4.5mmの長方形の底辺わした載頭方錐形を呈するが、頭部は丸みがある。穀粒紋の底辺が長方形を呈するのは、鋳造後に不鮮明な穀粒紋を際立たせるため、穀粒間を溝状に連続して研磨したもので、結果的に方眼状に研磨し、穀粒が長方形になつたのである。

 表面は全体に淡褐色を呈するが一部に飴色や淡緑色の光沢の部がある。裏面は渦巻き状

にガラス湯のながれが観察でき、全体的に白色を呈する中で、部分的に淡緑色や濃青緑色をした部分があり、本来は濃青緑色をしていたことがわかる。両面に朱が付着している。

 図2は、図1ほぼ同系のものであるが、厚さの点において、図1と異なることから、別個体としたる大きさは、外形約12cm、内径約3.8cm、外縁厚さ2.4mm、内縁厚さ2.5mm、穀粒部厚4.2mm、地文厚3.6mmである。穀粒紋は、底辺3.5×4.0mmの載頭方錐形で、頭部に丸みがあり、図1と同様に穀粒間を溝状に研磨している。表面は全体に淡褐色を呈するが、一部に飴色と淡緑色の部分がある。裏面は白色であるが、一部濃青緑色の部分がある。表面に朱が付着している。

 図3は1片のみの破片で、外径12.2cmの大きさである。以下略。

四、二、三雲遺跡南小路・二号甕棺墓

 星雲文鏡1、連弧文昭明鏡5、連弧文日光鏡7、重圏昭明鏡1、日光鏡8、ガラス製垂飾。硬玉製勾玉1、ガラス勾玉12と豪華絢爛たる出土である。

 甕棺も1号と同時代である。鏡は星雲文鏡1号と連弧文昭明鏡2号と連弧文日光鏡9号、3面の鉛同位体比の結果は星雲文鏡・連弧文日光鏡が前漢鏡の範囲であり、連弧文昭明鏡は朝鮮系遺物である。

 ガラス垂飾

 これは棺内撹乱土中の発見で、平面的には甕棺の合口付近から出土した。床面から20cm以上浮いていた。出土位置からは、副葬状態や仕様法は確定出来ない。本品は、分析によるとバリウムを含んだ鉛ガラスで、現在は半透明のさえた青緑色をしている。この垂飾の形状は、丸みのある不整三角形をしており、長さ18.6mm、最大幅12.4mm、最大厚さ3.7mmのもので、丸みの方に穿孔されている。穿孔は両方穿孔で、外径で2.95mm、貫通部で1.15mmの大きさになっている。

 本製品の側面観は、板ガラス状を呈するが、わずかながら穿孔されている側が湾曲している。この湾曲に片寄りがあることと、外側に当たる面の弧を描く段と格子状の溝はガラス璧以外の何物でもない。これを1号甕棺墓のガラス璧と比較すると、4号璧の裏面の内側縁が湾曲しているし、穀粒紋間を研磨した溝の間隔も5mmと同一である。ただし溝の間隔は他の璧もほとんど同じであるから、4号璧の破片というわけではない。ただ、この垂飾品をガラス璧の破片とした場合に、穿孔とは別の破片の端部に径3.7mmの半円状のくぼみがあることと、裏面の一辺に沿ってわずかな段が残っていることが気になる。ガラス璧であることを疑うのではなく、ガラス璧が破片となつた経緯に関係ある傷、また破砕するため

の切込みである可能性はないかということである。表面の穀粒紋を平坦に研磨してつぶしている以上は、単なる破片の転用ではなく意図的である可能性があるが、これ以上は推測でしかない。もう1つの問題点は、保存のよさにある。1号甕棺のガラス璧の全部が乳白色に変化し、半透明の青緑色が残るのは局部的であるのに対して、この垂飾にされた破片は、完全に原色が残っているといつてよい。分析の結果は両者に大差がない。

 またこの資料で鏡のほか璧1・璧2や管玉3・勾玉4の鉛同位体比が測定されたが、ガラス中の鉛は、全て中國北部の鉛を含み、前漢鏡の鉛とは系統が異なる鉱山から採つたもの。

 また一号甕棺墓と二号甕棺墓から朝鮮系原料が使用された鏡が5面出て、武帝の朝鮮侵略以後の楽浪郡・玄菟郡時代の交流が考えられる。なおこの資料に既に発表した前漢鏡は須玖岡本、立岩、宝満尾、丸尾台、二塚山、椛島山などの遺跡から出土した12面であるが、朝鮮系と判断されるものは一面もなかった。従って、今回見出されたし事実ははじめての

ものである。とある。

 

四、三、須玖岡本遺跡

 福岡県春日市須玖岡本遺跡群D地点、大石の下にうった甕棺墓から出土した遺物も豪華絢爛たるもので倭国王墓である。

 夔鳳鏡1、重圏四乳葉文鏡2、方格四乳葉文鏡1、重圏精白鏡2、重圏清白鏡3、内行花文鏡4-5、重圏日光鏡3、星雲文鏡5-6、清白鏡4以上、内行花文鏡片、蟠螭文鏡片、草葉文鏡片、中細銅剣1、細形銅矛4、中細銅矛1、鹿角製管玉13、ガラス勾玉1、ガラス璧残欠。

第十一冊 筑前須玖史前遺跡の研究・京都大学文学部考古学研究報告には玻璃璧残欠二個、D地点発見。この璧の破片何れも二寸内外、八木奘三郎氏が曾て調査のさい齎し帰られたものである。大正12年大震災の時、この地出土の鏡片若干とともに焼亡に帰したが、その写真は世に伝えられている。表面に穀粒面を現し、裏面は素文のものである。とある。

 写真1、ガラス璧5-6cm、二個が穀粒紋の方を上にしてあり、その傍、写真2の同様な形体の支那発見玻璃璧が比較してあり径約22cm、穴径約8cmがある。穀粒は約200個である。

 

四、四、峯遺跡

 福岡県朝倉郡夜須町東小田峯遺跡、甕棺墓10、棺外 剣1、矛1、棺内 連弧文日光鏡1、連弧文清白鏡1、ガラス璧2、時期中期後半。

 また考古学雑誌・17巻7号・昭和2年7月5日発行、考古学者で医学博士の中山平次郎氏の論説でクリス形鉄剣及び前漢式鏡の新資料があり、昭和2年5月10日発行の九州日報紙上に「合わせ甕の中から古鏡と鉄矛が出る。朝倉郡の峰の薬師から」と翌11日の午後公務の余暇巡検と興味ある資料を数年前コピー製本した。しかしガラス璧の記載は無かった。

 

五、おわりに

 東鯷玉璧は秦の始皇帝が中國統一、さらに前漢の天子が呉地を今の会稽、九江、丹陽、豫章、盧稜、六安、臨淮郡にした頃、即ち前漢の景帝(前156-前141)もしくは武帝(前140-前87)から、遥かなる東鯷国王派遣使の獻見に対して見事な玉璧の下賜であろう。

 いつぽう楽浪海中の倭人は百余國を為し、代表的な三雲遺跡の倭国王遣使が武帝かその後の天子から下賜されたのは鉛ガラス製の采沢光潤な青緑色のガラス璧であつた。

 須玖岡本遺跡の倭國王遣使にも少し前の前漢・天子への獻見に対しては、より大きいガラス璧が下賜されている。東小田峯遺跡の准倭国王遣使にもガラス璧である。

 これらの状況からは楽浪海中に倭人あり。分かれて百余國を為す。歳時を以て來り獻見す。と鼎立した倭人たちがそれぞれ獻見する様子が浮かび上がって来る。倭国でなく倭人と班固が記録したわけである。

 なかでも三雲遺跡の倭国王と須玖岡本遺跡の倭国王の代表争いは熾烈のようである。

 須玖岡本遺跡のガラス璧の大きさ、前漢鏡の多い倭国王時代と、三雲遺跡ガラス璧の数の多さ、前漢鏡の多さ、武帝の楽浪郡設置以後、かなりの朝鮮製前漢鏡混在させた倭国王時代と、両者の権力争いは壮絶であった事実を物語っている。

 しかしこの大きく美麗なチョコレート色とオレンジ色が光り耀く硬い瑪瑙的玉髄の玉璧の絵を見るとき、二十余國を統べた会稽海外の東鯷人は、弥生初期の海退・海進に伴い、種子島の貝王国から侵入し、東鯷人と「鯷」という字の「是」は「はし」を意味し「東のはしの國」の鹿児島湾・志布志湾を含む南九州一帯を統一したことを想起する。

 なぜ志布志湾岸の串間から玉璧なのか、姶良カルデラ火山系・桜島の影響の少ない志布志湾岸の平野で、東端が串間市、西端に風土記の大隅国串卜郷・昔し國造りし神の串良や前漢鏡・日光鏡の伝世鏡出土の天子丘古墳、大崎町などがあり、さらに鹿児島湾に接し鹿屋を含む平野を海進、噴火の恐怖をぬぐう安住の地とさだめ、東鯷国としたのであろう。

以上。 平成14年10月13日

 

参考資料、前四史(前漢書、後漢書)・天津市古籍書店。中国の歴史・貝塚茂樹著・岩波新書。ガラスの道・由水常雄著・中公文書。図説中国古代銅鏡史・孔祥星+劉一曼著・中國書店。第十一筑前須玖前遺跡の研究・臨川書店。早良王墓とその時代・福岡市歴史資料館。三雲遺跡・第69集・福岡県教育委員会。

 

鯷倭の興亡 その一

―卑弥呼の時代の三国鼎立

立川市 福永晋三

はじめに

 『三国志』の魏書・蜀書・呉書に「東鯷国」は直写されていないようだ。だが、「鯷」字考に述べたとおり、梁の沈約の「従軍行」中の「鯷海」なる語が「東鯷国」を指すかぎり、また、沈約以前の「鯷海」派兵記事に相当するものが『三国志』呉書の黄竜二年記事しか見えないかぎり、三国時代にも「東鯷国」は邪馬壱国と並存していたと考えざるを得ない。それは、邪馬壱国の中心と東限を考える上でも重要なテーマであり、同時に「狗奴国」の領域の比定とも関わる重大問題でもある。

 「鯷」字の解明が、わが国の古代史を覆し始めたと筆者はひそかに考えている。

   東鯷国丹波説

一、  鮭と丹波国

 「鯷」字考を、日本の鬼の交流博物館館長の村上政市氏にお送りした。すぐのご返事が来た。

 「東鯷国丹波説、『我が意を得たり』という感慨を持ちました。鯷=鮭説もきわめて興味深いです。丹波・丹後は、延喜式記載の貢納品の中に鮭を出しています。(勿論、その場所は由良川です)」

とあり、鮭にまつわる古伝承のある大原神社(三和町大原)と大川神社(舞鶴市大川)の資料を紹介していただいた。

 藤沢徹氏からは、忘れかけていた『続・日本の地名』(岩波新書 谷川健一)を教えてもらい、次のことを知らされた。

  [サケ] 気多(けた)

中山太郎は柳田国男とも親交のあったロシアの東洋学者ニコライ・ネフスキー(一八九二─一九四五)から、ロシア語のケタは日本の鮭に相当するということを聞いて触発され、「気多神考」を書いている。それによると、日本各地にある気多という地名並びに気多の名を冠した神社は、鮭に縁があるのではないかというのである。中山が挙げている地名および神社は次のとおりである。

「和名抄」による気多地名

因幡国気多郡 「古事記」には

気多の前

但馬国気多郡

遠江国山香郡気多郷

「延喜式」による気多神社

能登国羽咋郡  気多神社

越中国射水郡  気多神社

越後国頸城郡  居多神社

居多旧訓ケタ

加賀国江沼郡  気多御子神社

越前国     気多神

(式外「三代実録」所載)

但馬国気多郡  気多神社

飛騨国吉城郡  気多若宮

(式外「三代実録」所載)

岩代国河沼郡  気多宮

 …これら気多と名のつく土地がことごとく海もしくは川に沿うていることに注目すべきであると中山は力説している。…

 

 筆者には、これらの領域が古代丹波国と思われ、他ならぬ鮭の国、東鯷国と見ている。

二、  東鯷国=銅鐸圏

 古田武彦氏の東鯷人=銅鐸圏説と吉田堯躬氏らの銅鐸圏説批判とがあったことは承知している。そのため、東鯷国が長らく不定となっていたことも合点している。そうした経緯を無視はしていない。

 今次の東鯷国丹波説は、その銅鐸圏説との重なりを見せ始めた。筆者の脳裏には、丹波に興った東鯷国が南下した先に銅鐸圏を築いたのではないかとの推測があった。

 折も折、飯岡由紀雄氏がNHK・BS2で放映された「古代幻視紀行─謎の円形神殿」のビデオを持ち込まれた。次はそのビデオから起こした氏のキャプションである。

 

 

 

 

伊勢遺跡(滋賀県守山市)


 

 

 



建物の位置、角度を説明した画像数棟並んでいる画像二十三棟並んでいる画像 放送では三十棟(邪馬台国三十余国)と繰り返していたが、飯岡氏が数えたところ二十三棟、東鯷国の二十余国にむしろ合うと気づかれた。この遺跡に近接するのが、野洲町の銅鐸博物館(野洲町立歴史民俗資料館)である。明治一四年(一八八一)に十四個、昭和三七年(一九六二)に十個、計二十四個の銅鐸が大岩山から発見された。博物館はその地に建てられ、当の銅鐸と関連資料とが展示してある。しかも、耳飾のある大型銅鐸(近畿式)と耳飾のない大型銅鐸(三遠式)とが混在して出土したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この銅鐸出土地の至近に、三上山を神体山として御神神社が鎮祭されている。十月十三日に飯岡氏と参詣した。御祭神は天之御影あまのみかげ神。平田博義氏に導かれて見出した、舞鶴市行永の大森神社(弥伽宜神社)の御祭神と同じなのである。

湖東平野は、従来の歴史学が製鉄の一族息長氏の本貫地としたところでもある。三上山は、別名御影山、近江富士、または俵藤太の百足退治の伝説に因んで百足山とも呼ばれている。天之御影神は天目一箇あめのまひとつの神と同神であり、金工鍛冶の祖神である。製鉄の地であること必定だ。

古事記開花天皇の条に「日子坐ひこいます王は天之御影神の女むすめ息長水依比売おきながみずよりひめを娶り水穂真若王をお産みになった。この真若王の子孫は安直やすのあたひ即ち野洲国の地方長官となられた」とある記述は、ほぼ歴史事実と思われる。

銅鐸と製鉄と息長氏と丹波の地と古事記の記事が、すべて深い繋がりを有している。そして、これらの銅鐸が丁寧に埋納された直後に、あの「倭呉合作鏡」(藤田友治説)たる三角縁神獣鏡が同地に出現する。

吉備を旅したとき(九月十三日)に、岡山大学の新納泉教授にお会いした。彼こそ若き日に、権現山五一号墳二号鏡写影(古田会ニュース八四号参照)を描かれた方だ。教授曰く、「鏡の研究から見るかぎり三世紀に作られたと思います。したがって、古墳時代が早まるのではないでしょうか。」と。「倭呉合作鏡」説と東鯷国丹波説には有利な説のように思われた。

三、  銅鐸と鮭

 まさかであった。

 十月十六日、帰京して銅鐸博物館の常設展示図録を繰っていたら、三上のずいき(里芋茎)祭りのことが書かれてあった。祭りは十月十四日であるが、九日の甘酒神事(献江鮭祭)から始まると記されている。献江鮭祭けんこうさけさいとはどんな祭りか。鮭は本当に鮭なのか。即座に御神神社に電話した。当直の氏子の方が出られて、 

「ああ、アメノウオのことです。神様に献上します。神官の三上さんのほうが詳しいですよ。」

 後日、三上さんに電話でお聞きした。

「琵琶鱒ですよ。今は、苦労して大きな琵琶鱒を入手して神様に供えるんです。」

「氏子の人たちは琵琶鱒を食べますか。」

「昔は食べなかったようです。今は、神様に献上した後、氏子で分けて食べます。」

 ここ湖東平野の地にも神の魚として、鮭の一種「琵琶鱒」別名アメノウオを神に献上する祭りが伝承されていたのである。丹波の地と、鮭を介しても繋がりのある地だったのだ。

 東鯷国丹波説は、鮭という新たな観点から、東鯷国はまた銅鐸圏でもあるとの帰結を得たようだ。

四、  丹波と呉の往来

 『後漢書・倭伝』に「(東鯷国の)人民時に会稽に至りて市す」の一文が記されている。人民は、勿論、徐福の一行の子孫である。中国側が会稽に来たと記してあるとき、日本側すなわち東鯷国から中国に行ったという国内伝承はないのか。

 やはり丹波の地にあると思われる。浦嶼子伝承だ。浦島太郎のおとぎ話が有名だが、丹後国風土記、雄略紀二十二年七月の条、万葉集と、正史や著名な古典に出て来る歴とした伝承である。

 出身地が、与謝の郡。日置の里(宮津市)、筒川(伊根町)、水の江(網野地方)と微妙な違いはあるが、すべて与謝半島の地である。浦嶼子は日下部首らの先祖であるから、日子坐王に限りなく近い存在である。実在性の高い人物が、はるかかなたの海の向こうに渡ったようであるから、浦嶼子が呉地に行った東鯷人の一人と考えても大過なかろう。因みに、籠神社四代目の倭宿禰の像が境内にあるが、亀の背に座している。

 次に、田道間守の伝承が見られる。記紀には新羅王子天日槍が但馬(丹波から分かれた)にとどまったと伝え、その子が田道間守という。彼は、垂仁天皇の命で常世国に行き、非時香果ときじくのかくのみを求めたが、帰国時に垂仁は没しており、悲しみのため、陵前で死んだという。

先の浦嶼子の伝承地の一、網野銚子山古墳の脇に浦嶼子の住居跡があり、古墳の被葬者を悼んだ故事が伝承され、万葉集の作者もここを訪れたらしいことが歌から読み取れる。。

非時香果が橘であるなら、蜜柑を意味し、呉地もしくはさらに南方に行った可能性がある。橘は、魏志倭人伝にないが、それに基いて書かれたと思われる『梁書・倭伝』には「橘」が出現している。

 

以上、数々の観点から、改めて東鯷国を、銅鐸圏も含めて、丹波を中心とする領域に再度比定する次第である。

  

倭国(女王国)の都

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 東鯷国が銅鐸圏も含むとなると、従来の教科書に有名な、銅鐸文化圏と銅矛文化圏の二大青銅器の分布図は、その意味を取り戻す。前者が東鯷国、後者が倭国および狗奴国の版図と成り得る。

 今回は、狗奴国と倭国の東限について言及する紙幅がないが、倭国と東鯷国の国境はおよそ兵庫県加古川の辺りであることがおぼろげに見えて来た。また、吉備の鬼の城が九州の神籠石と同じ建造物であり、女王国の東限のようでもある。次回に詳述する。

 さて、魏志倭人伝に記された卑弥呼の都、女王国について論じよう。

 疑問は、神功皇后紀の松浦県の記事からであるが、次の地図が疑問をさらに大きくした。

江戸時代の「国郡図」のうち筑前国である。南北が逆だが、玄界灘の隣に松浦潟があり、博多湾を指している。肥前国を確認すると松浦の海に、松浦潟はない。

 魏使の九州島の上陸地「末盧国」とは、博多湾岸の国ではないのか。

神功紀に記された「火前國松浦縣…玉嶋里」は、仲哀記では「筑紫末羅縣の玉嶋里」となっていて、本居宣長は例の手法で筑紫を西海九国の総名と解している。これに対して、肥前の区域はもと筑紫に属していたかの解釈もある。だが、筆者はここに「末盧国博多湾岸」説を採ることにする。理由を述べよう。やはり魏志倭人伝の里程問題と関わるからだ。

 

 古田武彦氏は、『「風土記」にいた卑弥呼』(朝日文庫)の「首都のありか」の項で次のように書いておられ

る。略記する。

 「部分里程の総和は、総里程と一致する」、「不弥国は女王国の玄関である」ということは、末盧国の位置によって、女王の都とする国は判明する=B

 そして、不弥国を博多湾岸とし、末盧国を松浦湾の付近(唐津など)とされ、

 卑弥呼の都するところは、博多湾岸に面していた

との帰結を得られた。

ところが、「一大国(壱岐)→松浦湾岸」(千余里)の距離は、「狗邪韓国→対海国」(千余里)や「対海国→一大国」(千余里)に比べて短すぎる、として末盧国を、宗像から遠賀川下流域に至る間とする説が出された。(高木彬光・坂田隆等)ある程度、短里説に従っての比定である。古田氏は、「海上の行路は、中国人にとって測定に不得意であり、大よそのものとして、三海峡とも『千余里』とした、と見なす方が、かえって大局的に見て妥当する」とされ、遠賀川下流域説を退けられた。

しかしながら、先の資料と、里程とを冷静に計ると、やはり、「一大国→末盧国」間は短すぎるのである。いくら何でも千余里と五百里足らずを混同するとは思われない。

そうすると、魏使は、壱岐から大よそ一千里(七二キロb)の海岸に上陸したと考えざるを得ない。そこは、香椎潟から宗像の辺りである。

 

次回に詳述するとして、女王国へご案内しよう。

末盧国から東南五百里は大よそ、鞍手郡若宮町や宮田町の間である。天孫降臨の主人公、饒速日の降臨した地、筑紫贄田物部の故地である。そこはまた、万葉集熟田津歌の福永仮説「新北」に近いところである。その名は伊都いつ国。一大率の居たところであり、委奴いぬ国の都でもあった可能性がある。だから、卑弥呼の時代にも形式的に男王がいた。また、犬鳴川の流れる地でもある。

東南百里、奴国。万葉仮名で「ぬ」「の」の読みがある。「ぬこく」または「のこく」。直方(のおがた)がある。「奴潟」から直方に転じたか。もう一つの「ぬかた」の読みを考えると「額田王」との関連が成立する。

東百里、不弥国。調査中である。直方の隣とすれば、その南、英彦山川流域が女王国となる。そこは田川や香春の辺り。筆者は、飯塚を期待したが、里程どおりに進めば、飯塚には至らなかった。

英彦山川をさらに遡っていけば、耶馬溪や山国町が今日も存在する。

 おわりに

サケと推測される「年魚」を風土記や風土記逸文から抜いた結果、次が再確認された。

 豊前の国の風土記に曰はく、田河の郡。香春の郷。此の郷の中に河あり。年魚あり。(略)

(宇佐宮託宣集)

 右の河は、彦山川の支流、清瀬川(金辺川とも)とあり、遠賀川の支流でもある。

 「アイヌにとって川は鮭がのぼってくる道であり、また野獣を山の方へ追うときの道にほかならなかった。川は海洋から山を目指すというのがアイヌの心の中にある川の観念であるという(更科源蔵『アイヌの神話』)。」

天孫降臨(実質は天神降臨)の中心地は遠賀川流域(縄文遠賀湾〜弥生遠賀潟)の地であり、そここそが「天満倭あまみつやまと」の地であり、ヤマト(山門)と呼ばれた地である。アイヌの観念がもし反映されているなら、この地こそ確かに「海洋から英彦山を目指す」山門の地に当たる。

女王国もまた倭やまと国であった。

 

(以下、次号へ)

 

中国・山東省の古代史跡を尋ねて

 

豊中市 山浦 純

 五泊六日、バスによる走行距離約二千キロと、ハードな旅であった。しかし、それも和気アイアイの雰囲気の中で何とか乗り切ることができた。

 中国古代の予備知識ナシで行ったが、振り返えれば鮮烈な印象となって残っている。

 まず、銀雀山の前漢前期の墓から出土した大量の竹簡がある。二千年以上もの長い眠りから出土した竹簡には、明瞭に判別できる文字が記されていた。そして、『孫氏兵法』と

『孫殯兵法』とが別々の書であり、現在流布する『孫氏兵法』がほぼ原著に近いことも判明したという。このように、物証によって科学的に古代の真実が明らかになることは、千

載一遇の幸運であり、素晴らしいことである。

『三国志』でも四世紀西晋代のものと推定される古写本が新疆から出土しているが、「邪馬壹国」の文字を含んだ古写本(物証)が出てくれば素晴らしいのに、と思わずにはいら

れない。古代九州年号だって、九州の地から竹簡文字として出土でもすればナアと思う。

 また、各地の博物館で鳥の嘴に似た土器(それも新石器時代の)を多く見かけた。現地ガイドによると、古代人は自分の祖先を鳥だと思っていたという。いわゆるトーテミズム

・獣祖観念の反映だというのだ。そういえば、日本でも神話時代の天孫族の中にはやたらと鳥が出てくるが、これなども鳥祖信仰の反映かも知れない。ヤマタノオロチが龍蛇信仰

族を象徴しているように。

 最も印象的というかショッキングな遺跡は何といっても、馬を六百匹も殉死させ、その遺骨が整然として残っている齊景公の殉馬坑であろう。青州市博物館所蔵の東魏〜隋代の棄仏された四百体の石仏と共に、その規模の壮大さに驚く。古代では貴重な戦力だった馬をこれだけ多く殉死させて、その損失は計り知れないのではという疑問が参加者からも出ていたが、一万匹の馬を持つ王侯貴族にとっては単なる権威の誇示だったのだろうか。

 この例と反対に、馬が死んだのでそれに殉死させられた御者の逸話も哀れを誘う。

 この旅行は、漢代の画像石墓を多く見てまわった。この山東省に多い石灰石に刻まれた多くの線刻は人物や馬や武器・生活道具を生き生きと捉えていて見応えがあった。

しかし、日本の古代史と直接響き合う遺跡が少なかったように思うのが少し残念な気がするのだが、それは私一人の感慨なのだろうか。

 古代遺跡巡りの中にあって、三日目の夜、孔子舞・音楽団による踊りと、鳥の鳴き声をメゾソプラノで鮮やかに再現する見事の一語に尽きる芸の鑑賞が一服の清涼剤になった。

 

【教室便り】

*改新の詔を読む会

立川市 福永晋三

 

 持統天皇紀を読み続けています。

九月の自由発表では、「県」の制度がいつから始まったかを確認するため、記紀から、何箇所にもわたる関連条文を、佐野郁夫さんが抜き出して来ました。また、現在までに出土した青銅鏡を寸法を添えて逐一まとめ直すという、大変な作業の一部を披露してくれました。

 

伊吉連博徳の謎

伊吉連博徳いきのむらじはかとこの記述に関して、官職や表記に揺れが大きいとの疑問に対して、平田博義さんが十月の会に、早速、関連記事を抜粋して回答しくれました。

 

@斉明五年(六五九) 

伊吉連博徳書の記事(書の中に、「日本国天皇」と「倭客」の語の併

記がある。)

A斉明六年(六六〇)

伊吉連博徳書の記事

B斉明七年(六六一)

伊吉連博徳書の記事

C天智六年(六六七)

  小山下伊吉連博徳らを以て送使と為す。

D天武一二年(六八三)

  壹伎史…并十四氏、姓を賜ひ連と曰ふ。

E持統称制前紀(六八六)

  小山下壱伎連博徳(皇子大津の謀反に際し捕えられた一人、すぐに赦される。)

F持統九年(六九五)

  務大弐伊吉連博徳

G文武四年(七〇〇)

  直広肆伊岐連博得

H大宝三年(七〇三)

  従五位下伊吉連博徳

I天平宝字元年(七五七)

  従五位上伊吉連博徳

 

 会では詳細な報告でしたが、教室便りでは、省略させていただきます。Dの時点で、連の姓を賜わったとするなら、これ以前はおかしくなりま

す。また、Cあたりまでは、伊吉連博徳は「倭客」であったようで、D以降、「日本国天皇」に仕えた形跡が認められます。『日本書紀』は、最初

から伊吉連博徳が日本国の家臣であったように記事を前後にスライドさせたようです。

 これに関連して、平松幸一さんからは、天智系の「和銅日本記」と天武系の「養老日本紀」の成立の違いがあるとの貴重な指摘がありました。

重い課題がまた増えました。

 

 西暦五三五年の大噴火

 天埜貴子さんから、右の本(文芸春秋社)が紹介されました。ジャワのクラカタウ山の過去五万年間で最大級の火山爆発によって、全世界に異常気象が起こり、世界各地に政変が起こったとする一大テーマを扱っている。天埜さんは、日・中・朝で当時、何が起きたかを調査中とのことでした。詳しい報告が待たれます。

 

 次回、十二月二十二日(日)、 堀留町区民館 を予定しています。

 

*神功皇后紀を読む会

立川市 福永晋三

 

 サケとヤマト

引き続き、サケと推測される「年魚」を風土記や風土記逸文から抜いた結果、次が再確認されました。

 豊前の国の風土記に曰はく、田河の郡。香春の郷。此の郷の中に河あり。年魚あり。(略)

(宇佐宮託宣集)

 右の河は、彦山川の支流、清瀬川(金辺川とも)とあり、遠賀川の支流でもあります。前回の福岡県嘉穂郡嘉穂町大隈の「鮭神社」の話は、やはりそのまま、風土記の時代の話でもあったのです。谷川健一の『続・日本の地名』(岩波新書)にも同じ話があり、昭和五十三年十二月十三日に鮭が遡上したとの最新の記録が採られていました。また、

 「アイヌにとって川は鮭がのぼってくる道であり、また野獣を山の方へ追うときの道にほかならなかった。川は海洋から山を目指すというのがアイヌの心の中にある川の観念であるという(更科源蔵『アイヌの神話』)。」

という貴重な観念が載せられていました。これは、現在執筆中の「天満倭考」に深い示唆を与えてくれます。もはや、教室の皆さんには告げました。天孫降臨(実質は天神降臨)の中心地は遠賀川流域(縄文遠賀湾〜弥生遠賀潟)の地であり、そここそが「天満倭あまみつやまと」の地であり、ヤマト(山門)と呼ばれた地であると。アイヌの観念がもし反映されているなら、この地こそ確かに「海洋から英彦山を目指す」山門の地に、ここでも当たるのです。逆に、この観念から言えば、奈良県の地はただの盆地で、目指すべき「ヤマ」も海洋からの「ト」もない、「山門」には全くふさわしくない地となります。

 「天満倭」の天神族が東遷した結果の「東なるヤマト」と考えるより他はなさそうです。

 

 鬼の城きのじょうの衝撃

 吉備の鬼の城を高木さんのお陰でついに訪ねました。神功皇后が気比を出て筑紫の熊襲を征討したことを史実と考える立場からは、どうしても実見せねばならない遺跡でした。なぜなら、神功皇后が瀬戸内海に出た途端に、戦闘が開始された節が窺われるからです。吉備の牛窓に戦闘の伝承が残されていました。その東の鬼の城に、桃太郎の鬼退治の民話に繋がる土地に、神功皇后が何等関与していないのか。その疑問を解くために訪ねました。その成果は「鯷倭の興亡」に発表させていただきます。

 

 十一月の会は、いよいよ鎮懐石の段です。

 

 十二月の会は十四日(土)、 西荻地域区民センター を予定しています。

 

【友好団体の会報から】

多元No.52

倭人伝の全貌(二)

 ―魏志と後漢書の間    古田武彦

吉備の古代史跡を訪ねて   下山昌孝

「日十大王・年」と『春秋』 安藤哲郎

謡曲の中の九州王朝(七)   新庄智恵子

魏志倭人伝と物理問題    清水 淹

「皇帝」について(一)   深津栄美

「皇帝」について(二)   安藤哲郎

『日本史研究序説』

 沈 仁安著 紹介     編集部

 

古田史学会報No.52

新・古典批判「二倍年暦の世界」A

仏陀の二倍年暦(後編)   古賀達也

『神武が来た道』に思う   伊東義彰

連載小説「彩神(カリスマ)」第九話

螺鈿の女D         深津栄美

太安萬侶その一―出自    齋藤里喜代

志賀島の金印の読み方    古賀達也

阿麻氐留神社の祭神問題   室伏志畔

倭(ヰ)人と蝦(クイ)人  古田武彦

 

九州古代史の会NewsNo.105

「磐井の乱」とは何か

磐井の乱から考えるM    兼川 晋

白村江以後の倭国G     小松 洋一

裴清の見た邪靡堆国     生野 真好

灰塚照明と高神問題     室伏 志畔

「神武東征譚」豊前説(後半)  大芝 英雄

 

【お知らせと案内】

古田先生の講演会が次のスケジュールと演目であります。

 

一、二〇〇二年一二月八日(日)

午後一時半(開場十二時半)

古田武彦氏特別講演会

(多元の会主催)

演題 

出雲弁の淵源と天皇家の復活

─論語批判─

○会場…文京区民センター ○資料費…千五百円 ○懇親会…午後六時〜八時半。参加費二千円。(食事付)

 

二、二〇〇三年一月五日(日)午後

 久留米郷土会三十周年記念

 古田武彦講演会(久留米郷土会主催)

会場…久留米市立図書館(予定)

入場無料

 

三、二〇〇三年一月二五日(土)

午前九時〜

第8回国際教育シンポジウム

(全国共同利用施設・東京学芸大学国際教育センター主催)

 古田武彦氏、パネラーとして出席

テーマ…二一世紀教育における「公」・「共」・「私」をめぐって

会場…一橋記念講堂(千代田区)

 

「鬼夜を見に行く旅」ご案内

 

由来に関して、仁徳天皇54年肥前の国桃桜沈輪発起し異国へ内通し、悪徒を集め諸所

乱妨の旨、百姓等濫訴に及び、之に依り葦連大善寺勾当職吉山氏の祖)奉聞し奉り、

同帝55年卯12月勅命に随い、藤大臣難波高津宮を出て、同年同月24日筑後塚崎葦

連館へ御下着在す。(中略)大臣秘計をまぐらし、同帝56年正月7日類賊遺らず退

治し給う。夜に入りて沈輪行衛しれず、大臣四方に命じ大池を囲み、棒を以て其の岸

を松明を照らし、鉾を以て水中を探り、

逃るる処なく棒を奪い取り、葦連目当打って懸る、用意の刃を抜いて沈輪が首を打ち

落し給う。その首虚空空に舞い上がる。大臣八目矢を以て射落し、茅を

集め焼き給う。是れ鬼夜の始と云う。

 

日本三大火祭り(熊野、鞍馬)の一つに数えられる鬼夜ですが、言い伝えられた伝承

は古代史の闇を私達に語りかけているようです。創祀1900年を迎えた

大善寺その歴史にも驚きまが、九州年号「端正」や大宰府管内誌内の記述「天皇屋

敷」や「桃桜沈輪」等を含めて伝承されている鬼夜を是非一見して下さい、鬼夜保存

会会長光山利雄様も皆様の御来訪をお待ちしております。当日は桟敷席をご用意して

おりますが、極寒時の夜間ですので防寒対策は十分お考え下さい。

詳しく鬼夜を語ることはいたしませんが、どうぞ一見してから御自身にて謎の解明に

一石を投じて下さい。

 

日程:

1/7 羽田空港==福岡空港==大宰府天満宮(五郎山古墳)==御塚/権現塚==大善寺玉垂宮==水天宮==久留米ホテル(夕食)==鬼夜見学==ホテル(泊)

 

1/8 久留米==岩戸山古墳==こうやの宮==唐原神籠石==福岡空港==羽田空港

 

費用

@1泊2日(1/7〜8)Aコース

39,000円

 

A3泊4日(1/5〜8)Bコース

49,000円

*1/5(日)に久留米市内で行われる予定の古田先生の講演会に参加します

 

詳しくは株式会社トラベル・ロード高木迄お問い合わせ下さい。

 

【「新・古代学」の原稿募集】

 

来年度発行予定の「新・古代学」第七集の原稿を以下の要領で募集しています。

*締め切り:原則として2003年4月末日

            歴史・考古学関係の論文・随想・報告など、原則として二万字以内。手書き原稿は二部お送りください。(校正等に必要なため)

*パソコン、ワープロの原稿はフロッピー・デイスクを添付しソフトの形式・作製機種を明示してください。特殊な資料、貴重な原版はお手元にとどめられ、コピーのみお送りください。印刷段階に改めて送付いただきます。

            採否は編集部に御一任願います。

            送付の際は他の原稿と区別するために、表に「新・古代学原稿」と表示してください。

            原稿送付先

東京古田会事務局・高木 博

郵便番号1670051 東京都杉並区荻窪1の4の15までお願いします。

 

 

会長コーナー

藤沢 徹

 東鯷国はどこかを巡って論争がかまびすしい。新知見の開陳、それに対する反論、また反論。東京古田会は会員が自由に論議を尽くすいい場と思いませんか。

 インターネットのホームページから入会される方が増えてきました。

新入会員の方々に心から歓迎のご挨拶を申し上げます。ITの時代が生活に根付いてきたのですね。

 シアトル在住の日本人考古学研究者から小生宛メールが入りました。初めての方です。理由を聞いて吃驚しました。

 スミソニアン協会のメガース博士から聞くと、古田武彦先生を始めとする東京古田会のメンバーが来年ワシントンを訪問し南米ペルーのバルデビア考古出土品を見学し講演もするとのこと、南米の土器に興味を持っているので是非ご一緒したいとのことでした。

 実は、先日高木事務局長から2月は航空運賃が最低になるのでスミソニアンに行こうじゃないか、古田先生もご一緒するしとのことで、メガース博士にメールで都合を伺ったところ快諾されたのです。その上、博物館の展示品はスペースが限られているから郊外の倉庫に行くと、門外不出だけど日本の縄文土器そっくりの、バルデビア土器がたくさん収納してあり、それをお見せましましょうとまでおっしゃって下さいました。

但し、そうなって欲しくないけれどイラク戦争が始ったらちょっと考え直してと付け加えました。

 スミソニアン協会の博物館と美術館にはアメリカの世界に誇るコレクションが一億四千万以上あるといわれ常設展示は一パーセントもないけれど十いくつかの建物の一つでも見るのに何日もかかるという代物。

 太平洋を縄文人が渡るパネルやアウトリガー船などの展示があるのは、国立自然史博物館。メガース博士はここの現役文化人類学アソシエートで広い個室研究室をお持ちです。

 メガース博士も我々の来訪を心待ちにしておられるから、シアトルの研究者に連絡されたのでしょう。

もし、古田先生の講演会または対談をスミソニアンでやる企画が実現できたら、日本の蛸壺古代史、考古学界の反応が楽しみですね。きっと興味津々無視するでしょうね。

 旅行プランには、ニューヨークの自然史博物館見学も入れました。アメリカに初めて着いた民族のモンゴリアンについてはスミソニアンと意見を異にするとのことです。

 

事務局だより

高木 博

古田武彦の構築した古田史論は無限の広がりを持って世界を包む、心を包む。それを誰も止められない。

最近思うことだが私のような凡人はとうてい無理だが、有能な会員諸兄は個別のテーマ別に原点に戻って

考察すべき時期であるのではないのかと思う。

翼賛の時代にも志を貫いた人間が居たように、人間古田武彦の考察と業績を高々と掲げてより前進しよう。

蒼い海原は無限に広がる。蒼茫の古代はさざなみのごとく虚構の歴史を崩す。大善寺玉垂宮の鬼火は虚構の歴史をも飲み込んで秘められた歴史を影絵のごとく瞬間浮かばせ全てを

焼き尽くす。研ぎ澄まされた感性を持って真実を見抜け。

当会は来春アメリカのワシントンDCにあるスミソニアン博物館への訪問を計画しております。

メガース博士のご案内ご指導による博物館見学と博物館において古田武彦の講演等を計画しております。

出来るだけ安価な費用に仕上げるつもりです、事前予約を承りますので事務局(高木)迄ご連絡ください。

 

訪問予定:スミソニアン博物館、自然史博物館

期間:平成15年2月7日〜13日(5泊7日)定員:20名(予定)

 

編集後記

飯岡 由紀雄

 日本各地から北海道を始めなんと九州・阿蘇からも初雪の便りが聞かれるようになり、世相も北朝鮮拉致・イラク攻撃準備問題で明け暮れる昨今ですが、会員の皆様におかれましてはお元気でお過ごしのことと思います。

十月十一日の日経朝刊・文化の欄に志賀島の金印「漢委奴国王」の読み方について古田先生の読みを支持する、近いうちに出版される本と著者の紹介がありました。

著者は久米雅雄、立命館大学で考古学・文献史学を専攻の後、現在、大阪府教育委員会・文化財保護課主査の仕事を担当している方のようです。

紹介記事によれば前漢時代の中国には十四の方言区があり(『方言』による揚雄著BC53〜AD18)、例の金印の印文を読むには上古北方漢音と南方呉音を考慮する必要があること、また中国出土金印の精査から「かんのわのな」という「宗主国+民族+国」の分断的な読み方は存在しないし、北九州の弥生王墓は奴国ではなく伊都国に集中していることや当該金印は後漢・光武帝の都・洛陽で作られたことから印文は漢音の「ど」としか読めず、「倭の奴国」説は成立し難く「かんのいとこくおう」と読まれるべきものであるとの意見を著作の中で展開している模様です。

本は「日本印章史の研究」の題で出版されるとのことです。

古田先生の力説にまた一人、賛同者が出たようです。

 

会報編集の前任者でもあり本会存続の功労者ともいうべき田島君からお便りを頂戴しました。

 その中で二倍年暦について崇峻紀以前は神武、崇神、神功紀は例外とするものの、日付のほとんどが一日から15日までということで、一月の長さが半分なら一年の長さも半分になり、これはとても奈良朝の史官が造作できるものではないでしょうとの意見を述べていました。

 

会員の深津栄美さんから会報87号掲載の拙文「巫女考 梅の精?コノハナサクヤ」に関連して『花世の姫』、『鉢かづき』(世界シンデレラ物語・新潮選書)の資料を頂きましたが、拙文との関係がどうなるのか、これからの課題になりそうです。室伏さんや福永君が言うように古典文学には正史に隠された史実が反映されているようですので楽しみです。

 

佐野さん、「漢風謚号懿徳について」の原稿、また預かりになってしまいました。ご容赦のほど。

田遠君の原稿もずっと預かり続けているばかりで、機会を見つけて必ず掲載・分割掲載も考えていますのでお許しください。

 

 

早いもので会報編集も一年を過ぎました。今年の会報の目次を眺めると話題は満載でした。来年はどういう展開になるのやら全く予測が付きません。スミソニアンへの旅行も計画されているようですし…とりあえず、近くは古田先生の講演会へいくつもりです。

会員の皆様、それではよいお年をお迎えください。そして、総会でお会いできるのを楽しみにしております。

 

【夏の対馬旅行のヒトコマ】

 

「わたしは飲みませんので御注ぎしましょう」と先生

 


 


暑い夏の山の上にある神社参りは大変!健脚を誇る先生も同行の参加会員と境内にあった木に腰をおろし一休み。

 

 


 

 

 


東京古田会は以下の企業各位に賛助会員になって頂いています。ご用命の向きはお問い合わせ下さい。

そして賛助会員の皆様におかれましても、来年が良い年になりますようお祈り申し上げます。

保険の相談は

インシュランスオフィス湘南

(安田火災海上、ひまわり生命保険代理店)

Tel0466-26-4866 Fax0466-52-3110担当 小沢

旅行の相談は

(株)トラベル・ロード 担当 高木、

 

住まいの手入れは(有)スバル総研 担当 矢代 Tel03-3392-8596 Fax03-3392-8595

 

貴金属、宝飾品の相談は

株式会社ジュエル第一

Tel03-3834-4641 Fax03-3834-4645

担当 福島、田中

 

以下、余白