T o k y o 古 田 会 N e w s

−古田武彦と古代史を研究する会−  No.85 May.2002

http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line

代  表:藤沢 徹

編集発行:事務局 〒167-0051  東京都杉並区荻窪1-4-15  高木 博 TEL/FAX 03-3398-3008

郵便振替口座 00110−1−93080   年会費 3千円

口座名義 古田武彦と古代史を研究する会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


目 次

* 年次総会・古田先生定期講演会             案内

* 閑中月記 第十八回

奴隷神―「続、佐原レジメ」―             古田武彦

* 邪馬壱国の東と南

神籠石と女王国                                                 吉田堯躬

*「X」印考第二回  

新たな展開                          飯岡由紀雄

* 於佐伽論への応答                       室伏志畔

* 万葉発掘                           大和田始

          持統天皇吉野行幸の謎                     十川昌久

*「天津司の舞」を見学して                  高木 博

          大国主考

その複数名称の意味するもの               飯岡由紀雄

* 松ぼっくりがあったトサその三             福永晋三

          友好団体の会報から

          教室便り

*「神功紀を読む会」                       福永晋三

案内とお知らせ

*「筑紫舞」見学ツアー

会長コーナー                                                    藤沢 徹

事務局便り                                                     高木 博

編集後記                                                    飯岡由紀雄

広告 賛助会員の紹介と会員募集

 

 

年次総会・古田先生定期講演会開催

84号でお知らせしました様に、本会の年度定期総会と古田先生の定期講演会を次の要領で開催します。

 

日時: 六月三十日(日)13:00開場(13:30開演)

演題: 古典批判―古代史への新しい

通路

場所: 全逓会館(定員200名)

交通: JR水道橋駅下車、飯田橋方向へお堀に沿って徒歩3分

講演会参加・資料費:

会員 千円 非会員 二千円

先生の講演終了後16:30から会員総会(昨年度活動・会計報告と今年度活動計画・予算案・新役員選出など)を予定しています。

第2部         講演会

本講演会受付時にお申し込みください。定員になり次第締め切ります。

演題: 未定

場所: 文京シビックセンター(会議室)定員90名 全逓会館より徒歩10分、後楽園ドーム球場そば・地下鉄春日駅・後楽園駅上

参加・資料費は会員・非会員ともに千円です。

弁当の準備はしませんので、希望者は各自、食事をお済ませの上参加くださるよう願います。

 

講演会会場にて本会編集による新古代学第6集を3割引販売いたします。

 

古田先生の著作集が刊行準備されていますが、その巻頭をかざる序文が入稿しましたので、先生のお許しを得て会員の皆様に以下紹介させて頂きます。

 

「古田武彦著作集」序文

 

桜が過ぎ、紅葉が散る、自然再生の証(あか)しである。たとえ上天に月輪が消え去り、太陽が存在を失ったとしても、それは大宇宙再生そして新生の一コマに過ぎぬであろう。けれども、その間、真実は一刻も姿を消すことがない。

わたしがこの世に生まれ、真実を求めはじめてより、わずかに七十数歳。その歩みは遅遅として幼児の伝い歩きに似る。それが数巻の書をなし、著作集の名をうる。過分とすべきであろう。

その探究の行路は、親鸞にはじまった。青年の草創、国家の敗戦に遭遇し、人聞の造り上げた観念の大廈(たいか)が一夜にして崩落するを見たからである。各家、専家、相競って昨日の非を忘れ去り、今日の道理を説く姿に接したのである。それらの百言万説にかかわらず、実証の事実、論証の真実を求めること、それが唯一の指針となった。それのみを研究の大道と信じたのである。

それはまた、日本古代史研究の方途となった。明治以降、薩長の国家は政略の便宜によって、あえて天皇家中心の歴史を以て国是となし、教科書の名において流布せしめた。以って百年の大計としたのである。そのため、戦前においては白村江の敗戦が除かれ、戦後も九州中心の神籠石(こうごいし)の存在が除かれつづけている。天皇家以前の倭国(九州王朝)の一大軍事要塞群の存在をしめしているからである。もとより、親鸞によって心血のそそぎこめられた「主上、臣下、背法違義」の一句など、日本思想の基石とすべきぺージは存在すべくもなかったのである。

今日の是は、再び明日は崩落の日を迎えることであろう。一国家の一時期の便宜は真実とこれを相対すれば、一夕のかげろうよりもはかないからである。親鸞は己が生涯を賭けたミダ仏さえ、大自然の真実を知るための「れう」〈料、手段〉であると言い切った。

後生のわたしたちにとって、何に

はばかり、何にためらうことがありえよう。

そのような未来の探究者たちの前にひそかに本集をささげたい。

 

二〇〇二年四月七日朝、記 

古田武彦

 

 

閑中月記  第十八回

奴隷神

―「続、佐原レジメ」―

 

古田武彦

 

     一

 四月二十六日、訃報があった。斎藤史(ふみ)さんである。九十三才。お会いしたことはなかったけれど、その痛切な調べに引かれていた。

 過日、隣町(長岡京市)の図書館で、御本人自選の歌集(注1)に触れ、早速当書肆に送付を依頼した。到着後、お礼の電話したとき、

 「今朝、四時、お亡くなりになりました。」

との声を聞いた。悲縁である。

 

 冬、二・二六事件新資料発見の報あり

 何が出るとも勝者の資料 弁護人なき敗者に残る記録とてなし

 歴史とてわれらが読みしおほかたもつねに勝者の側の文字か

(昭和六十三年)

 

この昭和十一年の事件は斎藤作品の原点をなす。身近の人々が、或は処刑され、或は生涯不遇となられたからである。その事件が暗霧のように全作品の背後におかれている。鑑賞者、周知のところだ。

 だが、右の二首の歌うところ、古事記・日本書紀という、近畿天皇家

作成の資料≠フ真相をうがつものであること、果して作者は知っておられたか。おそらく「否」であろう。(注2)

 「詩人は、みずからのべるところの真実を知らない」と言われているように。

 右の両古典は、白村江の敗戦のさいの中心王朝、倭国(九州王朝)の

存在≠消し去っている。「勝者」たる大唐(北朝系)の意を迎えるため、かつて南朝に帰服し(倭の五王)、やがて南朝の滅亡と共に、みずから「日出ずる処の天子」を名乗った「倭国」(九州王朝)という「敗者」を、歴史から消し去った。

 代ってみずから「万世一系」めいた偽称≠行なった。それが両古典の、になった使命である。

 二首は、見事にそのような歴史の真相を突いた。

 七月十二日、処刑帰土。わが友らが父と、わが父とは旧友なり。わが友らと我とも幼時より共に学び遊び、廿年の友情最後まで変わらざりき。

 

 北蝦夷の古きアイヌのたたかひの

矢の根など愛する少年なりき

(昭和十一年)

 四年後の歌。

 

いふほどもなきいのちなれども生き堪えて誠実(まこと)なりしと肯(うべな)はれたき

(昭和十五年)

      二

 次は「続、佐原レジメ」に移ろう。

 前回論述したように、エクアドルのバルディビア遺跡出土の遺物中、きわめて興味深いもの、それは「土偶」だ。

 わたしがエバンズさんに対して

"Japanese like"( 日本人好みの≠ワた日本人に似た=jとご返事した、あの土偶である。最近リマ(ペルー)から大量出土したインカ帝国の土偶(副葬品の陶器)とは、明らかにちがう。

(図A、参照)

こちらはわたしたちには なじみ深い人相(●●)なのである。      


 
 


 


 


 
 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「バルディビアと縄文土器の(複合したデザインの)類似など、ただの偶然にすぎない。」

と称してきた、日本の考古学者たちにとって、何とも 居心地の悪い≠アの面貌(つらつき)だった。     

そこへもってきて、アラウージョ・フェレイラ論文がしめしたように、南米の古代ミイラ(三六一〇〜三六〇年前)の糞石の中に 化石化 ≠ウれていた寄生虫(ベンチュウ卵・コウチュウ卵)は東アジア、なかんずく日本列島の中に多い寄生虫だったのである。

 「あの()で、()()()には同じ寄生虫。」となればもう 偶然の一致≠竍偶然の類似℃汲オて、すませられるものではない。その上、駄目押し≠キるように、ウイルス(HTLV)と遺伝子の一致を報告する田島論文が現れたのだ。

 だが、この「土偶」問題こそ、佐原レジメにとって、最大の笑嘲≠フ的(まと)となっている。

「ヴァルディビア文化には沢山の土偶があります。これをなんとか縄紋土偶と結びつけたいところですけれど九州では出水式土器の時期にはまだ土偶は出現していません。そこでメガーズさんは愛媛県上黒岩の縄紋草創期の扁平な川原石に人の姿を彫りこんだ礫偶をとりあげ、作りがわるいと人造品かどうかわからないから出水式の人形はみのがしているだろう、と論じています。そこまでいう!」

 前回にも、明記したように、バルディビア(式)の土偶が日本列島から出土していない≠アと、この事実に疑いはない。

 けれども、右の文章が、学者には珍しい「!」で結ばれているのを見ると、わたしは、正直言って、自分の方が「恥ずかしく」なる。なぜなら、故エバンズ博士、現メガーズ博士との、度重なる文通や(メガーズ博士との)交流の中で、お二方とも、実に冷静な、そして良心的な学者としての筆致とお人柄をもっておられること、幸にも熟知しているからである。典型的な、アングロサクソンの生み出した、上質の学問的研究者だ(メガーズさんは、ドイツ系)。

 それを知るだけに、わたしには何とも恥ずかしい≠フである。

 佐原さんは、(わたしより)お若い、戦後育ちの方だから、御存知あるまいけれど、戦争中の新聞や雑誌に現れた(充ちていた)、アメリカ人(の能力)軽視、アメリカ(文化)罵倒の文章の「語調」を、なぜかわたしはこれを見て思い出さざるをえなかったのである。

 それらの威丈高なせりふが、果して理性的だったかどうか、今は世界の人々の周知するところとなっている。

 

       

 エストラダ・メガーズ・エバンズ報告書『エクアドル沿岸部の早期形成時代』(一九六五、スミソニアン)にしめされた、上黒岩の礫偶(女神石)とバルディビア礫偶との対比表はきわめて興味深い対照≠しめしている。

(図B)

 

問題点を列述してみよう。

(一)      両者は基本的に共通≠オている。それは共に「石面に刻された、数多くの縦線」だからである。「線刻石」だ。

(二)      従って、もし(「思考実験」として許容されたい)、このバルディビア礫偶が日本列島内(たとえば、高知県など)から出土したとすれば、これを「上黒岩との交流(伝播)」として考察の対象としない考古学者はいないであろう。

(三)      この問題の、「第一の難問(関所)」は、空間的距離の広大(もしくは「過大」)″である。

(四)      けれども、人種的に日本列島と南米≠ニの一致性が証明された。

(五)      その上、アラウージョ・フェレイラ論証によれば、(寄生虫の場合)「ベーリング海峡経由」は不可能であり、黒潮経由(エストラダ・メガーズ・エバンズ説)による他はない。(古田説も、同じ。)

(六)      ウイルス、遺伝子の一致も、田島論証のしめすごとくである。

(七)      右の現研究状況からすれば、空間的な過大≠理由にして、両地の礫偶を「考察対象」とせずに来た、日本の考古学界の態度は、遺憾ながら、不当と言わざるをえない。

以上が前段のテーマだ。

 

     

後段に入ろう。

第一のテーマは、上黒岩の地理的位置である。普通、愛媛県といえば、瀬戸内海に面している。しかし、この上黒岩(美川村)を流れる川(久万川)は、面河(おもご)川と合流し、やがて仁淀(によど)川として土佐湾に流れこんでいる。すなわち、この上黒岩の流域は、地形上、土佐″側に属しているのである。(明治維新以前は土佐藩。)

地形だけではない。上岩のある久万(くま)川の下流に、小川、藤川、川があり、土佐湾の沖合には、あの潮が流れている。この「黒」は ″black ″の意味ではない。

″神聖な ″という意味の古代日本語だ。

すなわち、言語・地名上においても、この上岩は「潮の流域」にある。

そしてその黒潮の終着点は、エクアル・ペルーの沖合だ(同地点で、北上する、フンボルト大寒流と衝突)。

すなわち「上黒岩〜黒潮〜エクアドル」は、地理的に、同一線上にある。この問題だ。

 

     

第二のテーマは「岩壁線刻」の問題だ。上黒岩と中黒岩の中間点、諸川(露峯川・久万川・有枝川・直瀬川・面河川)の合流するところ、そこには岩壁群が存在する。その岩壁群には、無数の縦線が刻されている。もちろん、人間の手 ″ではなく、大自然の手 ″によるものだ。地殻変動のさいの、造物主の妙手による。

わたしは、再度にわたり、現地をおとずれたさい、これを見、これを「黒岩」(神聖なる岩)の由来として認識した(第一回、単独の研究調査)。右は、第二回(朝日トラベル)の訪問のさいも、この点を強調してきた(講演等)。

今、問題の線刻石(女神石)は、右(黒)のミニチュア、それを模した ″ものである。わたしは、そう考えた。

その「女神石」という 学術上の命名″が、あまりにも 華々しいネーミング″であったため、かえってその「実体」が見失われてきたけれども、「黒」(神聖な)の本質は、(一部のものに発見 ″された)「乳房」などではなく、「全体」としての「無数の縦線」にこそ存在したのではあるまいか。

すなわち、地上の「神聖なる岩壁(黒岩)」を 模し″て、河原の自然石に類似の縦線 ″を刻し、神聖の供物(ミニチュア)″としたのであろう。

それを供え、祭る人もまた、植物繊維を以って、身に「神聖なる縦線」の 神衣=@をまとっていたものと思われる。

その中心をなすもの、それは当然(縄文期であるから)「女性」だ。縄文は、女神中心、女神の時代だったからである。

 右のような、時代的背景、そして信仰的内実が、あの「礫偶」(線刻石)として表現されている。わたしは、そのように考えた。

このような理解に立つとき、同類の「無数の縦線」を刻印した「バルディビアの線刻石」は、興味深い。

「上黒岩の地の、信仰と伝統をうけつぐもの、その発展形(●●●)(石の整形、その他)」ではないか、という、あまりにも興味深い、問題提起が、今後「考察」されねばならないであろう。

 

    六

 第三のテーマは「時間の間隔」だ。上黒岩とバルディビアとの間には、「長大な時間の壁」が存在している。

上黒岩(九層)─一二一六五±六〇〇年B・P【現在以前・編集部注】

バルディビア─六〇〇〇〜三〇〇〇年前(縄文中期、前後)(注4)

この両者の「時間の落差」は、あまりにも大きい。この事実を 無視=@乃至 軽視=@して、両者の関係を「直結」させること、それは不可能である。問題点を列記しよう。

 

〈その一〉

前回にふれた、鹿児島県広田(種子島)の例がしめしているように、

 

殷・周の銅器─縄文(後・晩)期 広田の貝製装身具─弥生期

 

 両者、時期を異にしているけれど、その間のデザイン(とうてつ文と隷書〈「山」〉)の伝播に関して、異論はない。

 この場合、両者の間に存在すべきミッシング・リング=i失われた結合帯)を前提としていること、当然である。

 

〈その二〉

もちろん、今の問題である「上黒岩〜バルディビア」の場合、その「時間の壁」は、右のケースとは比較すべくもないほど、長大である。けれども、次の一点が注目されよう。

それは

「縄文早期においても、縄文前・中期においても、変わらず、黒潮という一大潮流は、日本列島の岸辺から、エクアドルの沿岸部へ流れつづけていた。」

という事実である。

とすれば、かりに「縄文中期」前後に、両地の 交流=@乃至 伝播=@が存在したとすれば、「縄文早期」においても、同じ問題( 交流=@や 伝播=@)が存在したとしても、不思議ではない。─このテーマである。

 一言にしてこれを言えば、「伝播の多時性」の問題だ。

 もちろん、これは「理解」にすぎず、出土事実の「年代表示」そのものではない。それゆえ、この点、あくまで「未来への課題」であるにとどまるであろう。決して両者の「直結」を断言(●●)できるていの問題ではないのである。

 上黒岩の「礫偶」(女神岩)は「九層」すなわち、最古層にのみ出土し、「八層」以降には、全く(●●)出現(●●●)しない(●●●)。著名の事実である。

 では、この「九層の縄文人」は、一体どこへ消えたのか。これが、もっとも興味深い、考古学上の今後の課題なのではあるまいか。

 

    七

 第四のテーマは「縄文殺人」である。

従来の考古学界において「有力」だったのは、次の命題だった。

 

 「人間と人間との間の闘い、すなわち戦争は、弥生時代以降であり、縄文時代にはいまだ存在しなかった。」

と。この命題の主唱者乃至力説者が、他ならぬ佐原氏その人であること、学界周知である。(注5)

これに対し、最近、高知県の土佐市の居徳(いとく)遺跡から、数体の縄文人骨が 武器=@によって殺傷された形で出土し、天下の注目を引いた。

 これに対し、「縄文に殺人乃至戦闘があった」証しと見なした多くの学者のコメントに対し、佐原氏は「反対」もしくは「慎重」説をのべられたようである。(注6)

 もちろん、いまだ正規の報告書も出ているわけではないから、「断言」はできない。佐原氏が、その自説を「守る」ために、容易に屈せられぬこと、学者として当然だ。むしろ、その面からの他説への「反論」それが今後にのぞまれよう。学問の進展のために有益である。

 けれども、今は、わたしの立場から、この問題を俯瞰してみよう。

第一、わたしはすでに早くより「

縄文殺人」乃至「縄文戦争」の存在を 主張=@し、その立場から、諸現象を解説してきた。

 第二、今、その一例をあげれば、信州の和田峠を中心とする「黒曜石と海産物(貝等)などとの交換」という著名の 商業行為=@も、その前提として、信州側の 軍事力=@の存在が必須である。なぜなら、もしそれが存在しないなら、関東や東海の縄文人は 交易=@などせずとも、みずから黒曜石を発掘する=@であろう。「交易」の必要性など、存在しないのである。

 第三、同じく、出雲の隠岐島(島後)の黒曜石の場合、本土(出雲)との間に、海上の 軍事力=@が必須である。「海人(あま)族」だ。対馬海流流域の、この「海人族」こそ、弥生以後の軍事・政治関係のキイ・ワードをにぎった(天照大神たち)。

 第四、従って、従来すでに少なからず「発掘」されていた「鏃などの刺傷をうけた縄文人骨」も、当然「人間、対人間」のトラブルの結果と見なすべき可能性が高い。(今、問題の「上黒岩、四層」からも、出土。)

 第五、従来は、一九二〇年代(昭和初期)以来のマルキシズムの影響(というより、日本人による 当てはめ=jにより、

(A)縄文時代―原始共産制(戦争なし)

(B)弥生時代―搾取と階級対立と国家の成立(戦争始まる)

 

と解されてきた。イデオロギー優先の立場だった。そしてそのイデオロギーの立場から、各地に少なからぬ「縄文人の(鏃等による)刺偶」の事例を以って「あやまって人間に当たったもの」と解説してきた(各地の博物館)。しかし「刺傷」という物理的事実からは「あやまって」か、「ねらって」か、判断できるはずはない。すべて「イデオロギー優先」の解釈であった。

第六、今の問題に関して言えば、上黒岩、「九層」の縄文人が、突如 消えた ″こと、「八層」以降に、その継承文化、信仰(「女神石」等)を見ないこと、これらの事実は、或は「八層」以降の縄文人によって 追い出された ″という可能性も無視できないであろう。「上黒岩〜中黒岩〜(藤黒川・小黒川・黒川)〜黒潮」のルートである。

もちろん、何等「断言」の許されるような状況ではない。そのことを十分に「認識」した上で、「未来の課題」へと、わたしたちは立ち向かわなければならないであろう。

逆に「それはありえない。」という権威的断言を以って若き研究者の研究の将来をはばむこと、それは決して許されうるところではない。

 

今年の四月二十三日、驚くべき報に接した。フランス南西部の遺跡で発見された、約三万六千年前のネアンデルタール人の頭がい骨の化石に「仲間から武器(なたなど)で襲われたと思われる傷跡」があり、「同種間によるいさかい」の可能性が考えられるという(二十三日付の米科学アカデミー紀要、掲載)。

まだ、その詳細な論文は未見だから、確定的なことは言えない。またこの人種は、現代人とは 直結 ″しない、という。そのような状況認識を知悉した上で、わたし自身の「私見」では、格別不思議とは思えない。なぜなら、「他の動物は襲っても、人間同士は襲い合わない。」というのは「自然状態」と言うより、むしろ、高度な「人間の倫理」にもとづくもの。わたしにはそのように思われるからである。しょせん、人間が手にした「武器」とは、諸刃の刃(やいば)なのである。

昨今、中近東における、諸民族、国家間の死闘が伝えられぬ日とてない。

国際連合などの手も、その成果をあげかねている。「人間と人間の闘争」だ。このような「性(さが)」は果して 近年の創造 ″だろうか。わたしには、それこそ何万年もの「伝統」をもっているように思われる。人間という生物はいまだ凶暴な「動物」の域を出ぬまま、いたずらに「武器の性能」を精緻にし、そして巨大化したのではないか。

それだけではない。各種族が各自の「動物的闘争本能」を、おのが「神」の名において美化し、合理化し、神聖化しているのである。

まさに、「神」は 人間の奴隷 ″、そして 欲望の奴隷 ″なのである。言うなれば、「奴隷神」だ。

わたしたちが、このような「奴隷神」のすべてに対して、「否(ノン)」の一語を発する日、それは果して、いつ来るのであろうか。わたしはその日を見たいと思う。

 

【注】

(1)『改訂版、齋藤史歌集(齋藤史自選、不識文庫)』(2001、不識書院刊)

(2)壬申の乱における「勝者」は唐、「敗者」は倭国(九州王朝)、近畿天皇家(倭国の分派)は、唐への協力勢力。

(3)黒森・黒石(青森県)等、日本列島各地に Black ″に非ざる「黒」地名は多い。「くら」(祭りの場)と同類語か。

(4)エバンズ氏等の使用する「縄文中期」は、日本の考古学の使用例より、はるかに 広い ″用法である。

(メガーズ氏による。)

(5)『人類にとって戦いとは(全三巻)』(国立歴史民俗博物館・監修。東洋書林刊)参照。

(6)2002年3月20日、各紙

(7)読売、産経等、各紙。

 

2002年5月6日・記

 

 

邪馬壱国の東と南

神籠石と女王国

 

                  杉並区 吉田堯躬

 

 『「邪馬台国」はなかった』発刊三十年の記念講演会は内容といい、人の集まりといい素晴らしかった。その中で筆者が特に関心を持ったのは、同書では解決していない邪馬壱国の東と南についての古田先生の説明である。即ち、その説明では、神籠石の分布を基に同問題の解決可能性があるとのことであった。

 

「狗奴国」の所在地

魏志倭人伝で女王国の東と南がはっきりしないのは、女王国に属する二十一国の南にある「狗奴国」と「女王国の東海を渡ること千里」にある倭種の国が明らかでないからである。

 そのうちの「狗奴国」について古田先生は『失われた九州王朝』の第五章Vにおいて三十国の領域と青銅文化圏の重なりを説いた上で、その直後に『読者に』の項を立て一人の読者は「狗奴国」が熊本付近だというのは不審だ、といわれた。北に邪馬壱国(戸数七万)、南に投馬国(戸数五万─鹿児島を中心とする)にはさまれていて、邪馬壱国を脅威しうるとはかんがえにくい、というのだ。この読者の直感の正しかったことは今回の研究の進展の中で証明された(前の本で、論証上は「狗奴国」の位置にふれていなかったにもかかわらず、不用意にも投馬国のきたにある≠アとにふれた一句をのべていたのである)。

その不用意な個所と言われるのは『「邪馬台国」はなかった』第六章中の陳寿の倭国記述の特徴の(7)の記述

 

狗奴国より南に存在する投馬国

 

を指すと思われる。

 それはともかく、この段階における先生の認識は狗奴国=非九州である。

 ところが、吉野ケ里遺跡の発掘以降、同地を女王の都の一部と見る考えを展開され同国の南側の防衛施設との認識を示されている。もちろん筑後川は海にも連なっているから、海外に対する備えの意味もないわけではなかろうが、一義的には筑後川以南の勢力に対するものとおもわれる。事実、『九州の真実―60の証言』の証言35「自然の巨大天濠筑後川の一線―吉野ヶ里からの情報」において

吉野ヶ里の「楼観」(物見やぐら)、そこから有明海が見えた。その海を北上する侵入船団を、いち早くキャッチできたのだ。その 仮想敵国≠ヘ、どこか。中国大陸・台湾・フィリピン等は、いささか遠きにすぎる。近くは熊本から鹿児島。かの隼人族の地こそ、もっとも、可能性ある侵入者≠フ領域…「筑後川の一線」はしめしていた。この「巨大天濠」が南方(鹿児島・熊本等)から自己(以北)を防衛すべき決定的な軍事的マジノラインであったことを。

との記述をされている。

                         

 「東?国」との関連は?

また、先生が『漢書』の地理志の記述が倭と並ぶ位置にあると、その重要性を指摘された「東?国」について、当初の銅鐸文化圏説から宮崎県の玉璧の出土地とされたことがある(現在は不明とされている)。同国は『三国志』に出現しないことに着目して先生の論理は展開されているのであるが、狗奴国や東千里の国と「東?国」の関係をどう判断されての神籠石による女王国の領域確認なのであろうか。「東?国」は二十か国とされるから、その数だけは「狗奴国」とおなじであるが。

(私見では「東?国」は関東か東北である 注)

      

神籠石と倭国の範囲

邪馬壱国の時代はともかく、九州王朝はその勢力範囲を九州以外にも拡大していることは中国の史書の語るところである。したがって、「狗奴国」も結局のところ九州王朝に吸収されたのであろう。その段階でも首都防衛線は必要であろうけれども、その首都が邪馬壱国の女王の都と同一であると考えるわけには行かない。また、国際交流の点でも両者には違いがある。邪馬壱国は三十の国を束ねてか代表してかの対中国交流であるが、倭の五王の時代の対中国交流や対高句麗戦は少なくとも九州一円が支配下になければ不可能であろう。

神籠石の建設時期については諸説あるし、また、場所により一定ではない可能性がある。

新説は貴重であるけれども、従来説との間の吟味は後人の義務である。

 

【注】 拙論「東?国=銅鐸圏説は成り立つか」拙著「『三国志』と九州王朝」(新泉社1997年)所収参照

 

 

「X」印考・第二回

新たな展開  

 

杉並区 飯岡由紀雄

 

「X」印に新たな展開が生まれた。

以下、簡単に会員の皆様に報告させて頂きます。

84号でお知らせしました様に、3月3日霞ヶ浦・石岡近辺の古墳見学会が良好な天気の下に行われた。見学会の終了数日後、高木事務局長からの電話で、14日に八郷町の町役場を再訪することになった。3種の神器が出たことで参考陵墓地扱いになっている、恋瀬川沿いの丸山古墳の出土物を教育委員会の配慮で見せて頂けることになったのである。

鏡、勾玉、管玉、銅鏃いずれも丁寧な作りで素人の私にもその技術水準の高さを推し量ることの出来る優品であった。

委員会の配慮をこの場を借りてお礼申し上げます。

役場に隣接した公民館で例の「X」印のついた円筒埴輪に10日振りに再会した後、石岡小学校そばの青屋神社(常陸国司が交代の折に鹿島神宮を参拝するのが常であったが、荒天で霞ヶ浦を航行出来ない時に仮屋を設けて神宮を遥拝し参拝に代えた跡地だという)、ブルドーザーが発掘作業を続けている常陸国府跡、その傍の民俗資料館を見学した後、隣接する常陸総社宮に寄ってみた。出雲の置き千木を載せた建物で主祭神はイザナギノミコト、スサノオノミコト、オオクニヌシ、ニニギノミコト、オオミヤヒメ、フルノオオカミ六神とあるが、その裏手にひっそりと天麻比止都禰命(天目一神)の石碑が置かれていた。総社の佇まいは古墳の跡地に建てられたもののようであった。境内を歩いていると同行の高木さんと福永君が「飯岡さん、この石塔に「X」マークがあるよ〜」という呼び声。慌てていってみると紛れも無く「X」印が浮き彫りにされている。その日は3日に不参加の福永君が見学できなかった舟塚山古墳、富士見塚古墳なども見学予定をしていたために後日、総社のほうに何らかの謂れがあるのでは、

常陸総社宮石塔の「X」印


 

 


と電話で問い合わせたところ、宮司さんの話によれば問題の石塔は氏子の寄進によるもので、明治から太平洋戦争前の間のものであろうが良く分からないという。装飾についても氏子の寄進者の好みによるものではないでしょうか,神社の方からこうしたものにして下さいという注文は出していないと思いますという返事であった。

「X」印についての神社側の伝承は完全に途切れていた。その日は予定の古墳を見学して帰途についたのであるが、神社に電話を入れた数日後、木事務局長から電話があり、木さんがたまたま前日に読んでいた本(『対馬歴史観光』永留久恵著 杉屋書店 平成6年7月1日発行)の中に対馬・厳原の瀬戸原(せとばる)遺跡の発掘報告記事があり、それを読んで非常に驚いて私に電話とFAXで問題の個所を送ってくださった。

要はこういうことである。

昭和5年に瀬戸原(雷命神社の近所?)で二本の弥生時代の広形銅矛が「X」字状に埋められた遺跡が発掘された。囲い石などは無く関係遺物は不明ということで、付近を調べても別に遺構と見られるものは無く、矛が「X」字状に埋めてあったという状況を復原すると、それを敬して(●●●)埋納(●●)したものと考えられ(地霊鎮め?)、またその地帯一帯は祭祀遺跡と見られる遺跡が多いという。

弥生時代の例証の一つに辿り着くことが出来ました。

 

また4月7日の有志(高木、福永)による甲府・天津司神社の「天津司の舞」の見学の折に私個人で諏訪神社まで足を伸ばし前宮、本宮、秋宮の御柱を見て回ったのですが、古田史学・北海道の高田さんに教えて頂いたように、あるはずの「X」印が現在社殿の四隅に立っている御柱に見つかりません。本宮の社務所で伺ったところ、昭和61年まで「X」印を刻んでいたのですが尊い御柱に疵をつけるのは如何なものかということで、取り止めてしまったということでした。諏訪大社でも伝承が途切れてしまったようです。

応対して頂いた社務所の方に何とか古い写真でも残っていないでしょうかとお願いすると昭和47年発行の『諏訪信仰習俗』という題名の本の中から御柱の根元近くに「X」印が大きく刻まれた写真を見つけてくださり、丁寧にコピーまで頂戴することができました。

 

諏訪大社御柱に刻まれた「X」印


 

 


本宮の上段の御札売り場のところにいた同じ年配位の方と話をしたところ、諏訪大社に勤めに出た最初の年に御柱の立替があって「X」印を刻んでいるのを見て何なのだろうと、

最初の年ですから強く印象に残り、いろんな本を読んだりしてみたのですが要領を得なかったという話を伺うことが出来ました。その方の意見によるとある種の「魔除け」ではないでしょうかということでした。また、その方が仰るには、丁度その当時「猿の惑星」と言う映画を見た時に遠い未来の猿が支配する地球にチャールトン・へストン扮する主人公一行が時空間を隔てて到着した後に、目にする最初の人(猿?)工的構築物が「X」印だったので映画もさることながら妙に印象に残ったということです。私もその話を伺って気になり、旅行から帰ってビデオで「猿の惑星」を早速、見直してみました。果たして、確かにその方から伺った通りに「X」印が写っていました。目を凝らして映像を見ると、それも、猿達の仕業なのでしょうか、今や言葉を話す猿達の「飼われ物」と化した人間が両手を斜め上方に伸ばし足を広げた状態で「X」形にして磔にされているのです。それが数本ならんでいる映像なのです。

磔の人柱はてっきり一本柱か十字形だと思い込んでいましたので驚きました。映像を見てこのカットの「元」は何なのだろうと考えてしまいました。

映画「猿の惑星」より


 


映画製作の関係者に聞いてみたいものです。「X」印の原型は以外に、この辺にあるのではと思ってしまいました。出雲系の神社に載る置き千木も元はそうなのでしょうか。

それから諏訪大社を始め茅の輪くぐりの行事をやる地方では、8の字形に回る習俗などもあるそうですし、また我々が日常何気なく封書を出す際に無意識に書く「メ」印、これらなども何か関係があるのではないかと思います。(「メ」印は福永君の意見)。

それと、このGW(ゴールデン・ウィーク)に訪問した茨城の大甕倭文(しず)神社の祖霊神を祭る参道の石塔にも常陸総社宮と同じように「X」印が(そしてさらに「十」字形が)表と裏に浮き彫りにされていました。

宮司さんに伺ったところ、何か謂れがあるのでしょうが石塔を作製した石屋さんが色々調べてやったものだということでよく分からない様でした。その他にも色々とお話を伺ったのですがそれは他の機会に報告したいと思います。

祭神は「天津甕星・香々背男」(アマツミカボシ・カガセオ)を退治した武葉槌命(タケハヅチノミコト)です。最後まで王化に従わなかった香々背男は足が悪いが、世の中のことを全て知り尽くしていると古事記に書かれた「山田のそほど」の異名をもつ案山子(かかし・かがし)男・別名崩彦(クエヒコ─古田先生の言われる荒(アラ)神のクエ・ヒコ?)なのでしょうか?

「X」印、以上報告しましたように弥生時代の対馬の瀬戸原遺跡で埋納されて拝まれ、出雲の荒神谷・加茂岩倉出土の銅剣、銅鐸に刻まれ、茨城・八郷町の西町古墳出土の円筒埴輪に刻まれ、長野諏訪大社の御柱に刻まれ、茨城の常陸総社宮、大甕神社の石塔にその姿を残していることになりました。また先日の「上野三碑」めぐりの旅の折に隣に座った方からバスの車中で伊勢神宮に贄物を供える折に、鮑(あわび)を採る

斎串(いぐし)の根元に「X」印が刻まれているという教示を頂きまし

大甕倭文神社参道の石塔


 

 


た。これも後で知見する機会がありましたら報告したいと思います。それと、同じ旅行の際に見学した藤岡市の伊勢塚などの「八」角形古墳など・・そして夢殿をはじめとする八角形の寺院建造物などとの関係も気になるところです。

まだまだ、根気良く探せば見つかるものと思われます。その道々で私達の祖先がこの「X」印に移入した思いに辿り着ければ、こんなに嬉しいことはありません。「X」印探訪の旅を支えて下さる皆様に感謝します。

 

2002年5月10日 記了

 

 

於佐伽論への応答

 

            室伏志畔

 

今度、「新・古代学」第六集の原稿を編集部に送ったところ、福永晋三から電話を受け、遅ればせにそのいくつかの論稿に当たり興味深かった。これはその中の於佐伽論に対する遅ればせな応答で、私はそれを古田武彦の「肥前吉野説」に繋ぎ、私の藤王朝論を拘わらせる中で答えたいと思う。

 『九州王朝の論理』(明石書店)に収録された「於佐伽那流 愛彌詩」の中で福永晋三は「忍坂の大室屋に」に始まる神武歌謡は、瓊瓊杵尊(邇邇芸命)の天孫降臨歌謡の取り込み造作であったとし、忍坂は於佐伽で佐賀に、大室屋は吉野ケ里の環濠集落に関係するとし、その主体を在地豪族の於保氏に求めた。

 

倭国本朝の筑後展開と藤王朝

 これはここ数年目覚ましく進んだ倭国論の筑後展開の先に現れたのである。福永晋三・伸子夫妻が「大王は神にし座せば水鳥の多集く水沼を皇都となしつ」(巻十九 四二六一)の水沼を三潴に比定したことから、それに穂を足すように古賀達也の筑後遷宮説が生まれ、これらを踏まえて古田武彦の筑後における様々な発見が相次いだが、それはいま肥前吉野の「発見」でピークに達したかに見える。その過程で福永晋三の於佐伽論も飛び出したのである。この肥前吉野の「発見」が確かなら記紀史観及び万葉観をその深部から揺らぐほかないのである。

 思えば筑後は古田武彦が邪馬壹国の奥座敷としたところであり、またその論敵・安本美典の邪馬台国論の拠点となったところで、私もまた『伊勢神宮の向こう側』(三一書房)で、倭国本朝の主神・月読命の祭祀の変遷を辿り、筑後にこう行き着いた。

 

 壱岐の月読神社→天孫降臨地の高祖神社→太宰府の天満宮→筑後の高良大社

 これは倭国本朝の中心移動を語ることと別ではない。しかし私はその倭国本朝の展開をはかるより、その傍流の神武東征を追って近畿大和ならぬ豊前に深入りし、斉明紀に記載あるその東朝の展開をはかり、白村江の敗戦後、天武は近江朝を倒し大和飛鳥に来たり、大和朝廷を開朝したとした。このとき大和朝廷は倭国東朝の近畿における再興とするほかなかった。このことが天武をして倭国の評制を踏襲させた理由である。

 しかしその天武は古田武彦の『壬申大乱』の論証が確かなら、肥前吉野から来ったのである。私はこの著の意義と異和について、「季報・唯物論研究」第79号に原稿を用意している。ただ、前著『古代史の十字路』の書評を同誌77号でしたとき、「書評としては初めてのものです」という古田武彦の言葉を受けたとき、多くの読者を抱えながら本質的な批評に出会わない寂しさを噛みしめている孤独な姿を思わないわけにはいかなかった。

 この天武に続く倭国東朝の起源を、私は筑後の御井の地で倭国王・磐井に対する継体の反乱後に成立した葛子政権に見ていた。乱は倭国の天皇、太子及び皇子までを弑したため、天孫降臨に始まり、筑後に移り倭の五王を輩出した栄光に満ちた倭国本朝はここに一度、頓挫したのである。それを秦氏が仲介し、新たに葛子を戴き豊前の難波で復活させたので、私はそれを倭国東朝とし藤王朝と読んだのは、『日本書紀』はこの葛子をクズコと蔑んだが、本来それはカツコあるいはフジコとしたことに関わる。そしてこの復興王朝の王墓こそ宮地嶽古墳で、そこに祀られている勝村大神(藤之高麿)と勝頼大神(藤之助麿)は、倭国の兄弟統治を示すものであると『法隆寺の向こう側』(三一書房)で述べた。

 しかしこの藤王朝は、秦氏のバックアップを受けた筑後にあった倭国本朝が豊前で復興したものであるなら、本質的には本朝の流れであるから、次第にその拠点を筑後に戻して行くのは自然なのである。私が古田武彦の肥前吉野説に注目する理由で、その吉野宮ははからずも富士町に飛び出したのである。天武が大和飛鳥に来て、いまや実力を持ってその藤王朝の源泉に立ったことを記念して藤原京は造営されたとした私の幻視は、古田武彦の論証によって大きな裏付けをもったのだろうか。そのためにも私はぜひとも肥前吉野の九州検証の旅に立たねばならぬのだ。

 その藤王朝本家からの大和朝廷による神器(神宝)の簒奪が、かぐや姫の話として『竹取物語』に残されたとし、私は竹取とは竹斯(筑紫)盗りの意であるとした。本来、かぐや姫は文武にお輿入れし、その結納品として神器はあったが、それを貰い受けるや大和朝廷は態度を一変させ、この話を勧めた五人があろうことか求婚者としてかぐや姫に群がった。この無念さがこの物語を書かせたのであると、私は『大和の向こう側』(五月書房)で述べ、「かぐや姫と藤王朝」(「新・古代学」第五集)で再論した。

 さて問題はこの筑後遷宮した倭国本朝を筑後王朝と呼ぶなら、それは高良文書によれば、仁徳五五年(三六七年)にその遷宮を伝え、その玉垂命は物部保連にお輿入れした姫娘に始まる。私はそれを南朝鮮の伽耶王の血筋にあると、出版が伸び伸びになっている『万葉集の向こう側』(五月書房近刊)で述べた。とするとき、磐井の君で頓挫した倭国本朝がその伽耶出身の渡来人である秦氏のバックアップを受け、藤王朝として再興したのは筑後王朝の梃入れに倣ったものであったことは見やすい。

 

天孫族の国是と意宇氏

 私はこの筑後王朝の成立が、桜桃沈輪を征伐したことに始まることは朧げに知ってはいたが、それがいかなる勢力であったかがよく解らなかった。今度、福永論稿のいくつかに目を通し、於佐伽論で佐賀に遠い昔から君臨したと思える於保氏退治が瓊瓊杵尊によって行われたことを捉えたことは、目から鱗の思いがあった。於佐伽は於保佐伽であり、そこは越智の大野であったのだ。というのは於保とは、私の幻視によれば、各地に存在する多、大、太、意宇、於宇、飯富、大生と様々に書かれた一族で、その淵源は出雲の一の宮である熊野大社のある意宇郡に基づき、意宇は素戔嗚尊に征服以前の八雲族の王を意味するものである。そのことは八束水臣津野命の国引き神話で杖を立て、それぞれの国を引き寄せた地がこの意宇郡であったことはこのことを傍証する。この八雲(八蜘蛛)族こそ素戔嗚尊によって征服された八俣大蛇族と同じで、それを征服して成立した出雲国は、素戔嗚尊の娘・須世理姫に大国主命を迎えた。これはかつての旧勢力との妥協なくして出雲が立ち行かなかったことを物語る。というのは大国主命は意宇国の主を意味していたからである。しかしこのことは対馬海流上の天国にあった天孫族にとっては、かつての八雲族の復興でしかないから許しがたく、布都主命によって大国主命の国譲りが生じた理由である。記紀がこの国譲りを特筆大書したのは、この意宇族に対する天孫族の優位を国是としたことに拘わる。

 八世紀初めの正史『日本書紀』の誕生、出雲大社が再建及び大祓の祝詞の中臣神道の登場の背景に、多氏(物部氏)から藤原氏への第二の国譲りがあった。それは天皇制内部のコップの嵐として処理されたため、我々には見えないのだ。天武崩御を機に大津皇子を血祭りに上げるに始まった藤原氏による多氏征伐は、持統そして文武を戴き、元明・元正を挟んで藤原氏最初の天皇である聖武を実現した。元を明らかにし元を正す天皇の登場の中で、歴史の書き換えが謀られ記紀が誕生した。この背景で大和を中心に多氏征伐が展開したが、それがあまりに生々しい眼前の事実としてあったことは記録さえはばかられた。その破壊の跡は、今も大和飛鳥に剥き出しの石舞台古墳や鬼の雪隠や鬼の爼と見ることが、正史の詐術はそれを観光名所とする哀れな歴史観を我々に持たせることとなった。

 

東アジア民族移動史と九州王朝説

 天武を天智の実弟と正史はしたが、この二人の間は朝鮮半島における百済と新羅の間ほど遠かったのだ。白村江の敗戦後、唐の占領下にあった九州に見切りをつけ、その唐からの相対的独立を模索する中で、二人はしのぎを削ったが、壬申の乱によって未来はまったく天武に帰したかに見えた。しかし、六七〇年に唐と新羅が対立する中で、百済派は唐と新たな関係を回復する中、隠忍自重し、天武崩御をまってその後継の中心であった大津皇子を除くことによって、天武体制を突き崩し、持統天皇に引き継がれた天智の血統を尊ぶ天皇制へと主舵を一杯に切ったのである。天皇制が天武に始まりながら、正史『日本書紀』が天智を新皇祖と顕彰するものとなり、歴代天皇位牌を預かる京都の泉涌寺に天武系天皇八代の位牌がないのはこのことを傍証する。

 つまり本邦の古代史は天孫族による意宇氏征服を軸として展開した。それは布都主命の大国主命の征服、瓊瓊杵尊の筑後の意保氏征伐と続き、天武崩御後の大津皇子の処刑と続き、常陸国にも波及したが、正史は大国主命からの国譲り以外を隠したのは、天武王朝の系譜隠しにあった。

 大津皇子の母は大田皇女、その姉は大来皇女であり、彼らに共通する大に注目するとき、天武と大(多)氏の申し子こそ大津皇子であったが、大田皇女を天智の皇女とすることによって、その外戚関係を闇に葬ったのは天武と同じであっる。私は先日、その大田皇女の越智岡上墓に詣でた。しかしそれは越智丘陵の上にはなく、その中腹にあり、上墓とされていたのは斉明天皇陵であった。私はこの斉明天皇陵こそが大田皇女の墓で、中腹にある墓を大来皇女の墓と幻視するほかないのである。

 ところで奈良時代の初めまで、大和でどこの神社よりも蓄積稲を誇ったのは多神社であった。それがその後どうしようもなく落ちぶれていく背景こそ、その後の国是としての多氏征伐に見合うものであった。この多神社が主宰した信仰が三輪山と太陽信仰が結びついた春日信仰で、大和飛鳥にある春日神社を結ぶとき剣と楯をもち、藤原京を胸にした縦二〇キロ、横一五キロに及ぶ飛鳥の地上絵(図)の出現について私は注意を喚起してきた。

 この越王朝や八雲王朝を開いた光栄ある多氏のその傍流が、時移り天孫族へ内通することによって成立したのが物部氏の誕生である。筑後王朝もまた物部保連に伽耶の王女を戴くことによって大化けし、実質的な多氏支配を復活させた。それに対する異議申し立てが豊前にあった継体天皇の反乱なのであり、その反乱指揮者が物部麁鹿火であったことは、それぞれに傍流の本流に対する反乱を意味していたのである。

 ところでその物部本宗家が姓を越智氏とする研究がある。それはこの多氏は、遠い昔の春秋戦国に中国で覇を争った呉越が、その後、国破れて呉越同舟して本邦に押し寄せ、呉族は九州に入り、越族は越の国や八雲の国を形成した。その越は呉音ではヲチと読むことは、日本古代史が一国内で説明できない東アジア民族移動史の上にあったことを語るもので、筑後王朝の玉垂命が伽耶の王族の血統であったことと合わせ、記憶さるべきである。

 もはや九州王朝説を朝鮮半島に渡らせ、黒潮ロードを溯り長江文明に開くことなしには、九州王朝説を一国論の内で育む限り腐るしかないかに見える。

 

 私の新たな九州検証の旅は、この論をさらに推し進めるだろうか、それとも新たな転回をもたらすのであろうか。

(H14.3.11)

 

 

万葉発掘

                   大和田 始

 

米田良三の『列島合体から倭国を論ず』をようやく読んだ。米田の本の中でも最も ポレミック(論争を呼ぶ・編集部注)な一冊だろう。四千年前の列島合体の真偽はともかくとして、『源氏物語 』の舞台を博多に幻視し、難波の位置を推定しているのがお手柄だ。米田は論証に『 万葉集』の歌を引用していた。さらに「『巻第六』は不思議な巻である。」として、倭国の博多の真実の難波宮を 歌った歌(山部赤人の933と934)を、大阪の虚偽の難波を歌ったかのように見せかけ ている、といった意味のことを述べていた。引用されていた歌を原文にあたっていたところ、その前後に米田の言うような不思議な歌群に出くわしたのである。

 

傷惜寧樂京荒墟作歌三首

  [作者不審]

 巻 6―1044

 紅尓  深染西  情可母  寧樂乃京師尓  年之歴去倍吉

 巻 6―1045 

世間乎  常無物跡  今曽知  平城京師之  移徙見者

 巻 6―1046

 石綱乃  又變若反  青丹吉  奈良乃都乎  又将見鴨

 

(山口大学の万葉 e-text による。

以下同じ)

 

(編集部注 読み下し 以下同じ)

1044          くれなゐに ふかくしみにし こころかも ならのみやこに としのへぬべき

1045          よのなかを つねなきものと いまぞしる ならのみやこの うつらふみれば

1046          いはづなの またをちかへり あをによし ならのみやこを またみなむかも

 

この三首をみると、寧樂と平城と奈良が同じ山跡の奈良を指しているように見える。また京師と都が同じ意味であるように見える。そして3番目の歌は別段、傷惜しているようには思えない。さらに作者不審である。1044と1045の2首は倭国の歌、1046は 山跡の歌ではないかと直感した。この三首に続いて、

  悲寧樂故郷作歌一首[并短歌] があった。長歌は長いので途中省略する。

 巻6―1047

 八隅知之  吾大王乃  高敷為  日本國者  皇祖乃 神之御代自 …天下  所知座跡  八百萬  千年矣兼而  定家牟  平城京師者 炎乃  春尓之成者  春日山  御笠之野邊尓 …名良乃京矣  新世乃 事尓之有者  皇之 …

       反歌二首

 巻6―1048

 立易  古京跡  成者  道之志婆草  長生尓異<煎>

 巻6―1049 名付西  奈良乃京之  荒行者  出立毎尓  嘆思益

 

1047          やすみしし わがおほきみのたかしかす やまとのくには すめろぎの かみのみよより… あめのした しらしいませと やほよろづ ちとせをかねて さだめけむ ならのみやこは かきろひの はるにしなれば かすがやま みかさののべに… ならのみやこを あらたまの ことにしあれば おほきみの…

1048          たちかほり ふるきみやこと なりぬれば みちのしばくさ ながくおひにけり

1049          なつきにし ならのみやこの あれゆけば いでたつごとに なげきしまさる

 

ここでも平城京師を奈良乃京といいかえている。1046や1049の歌は倭国の歌を山跡 の歌に置換するために置かれているのではなかろうか。

  『万葉集』は『日本書紀』や『古事記』と同じ頃に成立したとされている。『日本書紀』が様々の書を引用し「史実」を捏造しているにもかかわらず、引用文について は書き換えをせず原文を尊重しているらしいのと同様に、『万葉集』も『原万葉集』 のテクストを剽切しながら、漢字の表記にはおおむね手を加えていないのではないか、と考えてみた。

改変せずに乗っ取るために、山跡式の類似の用字の歌を併記するという手法を採用したのだ。『源氏物語』が九州の製品だという米田説に刺激されて、手元にあった『松浦宮物語』を開いて見た。澁澤龍彦の『高丘親王航海記』が思い出される。

時は藤原の宮の御時。

少将は遣唐副使に任じられる。父の大将は難波の浦まで送ろうといい、母は前年に松浦に宮を作らせたのでそこで待つという。父も母も船で同行し、太宰府に3月 20日に到着。父は宣旨が重いとして帰る。4月10日をすぎて、船の支度が整い、 太宰府(?)を出港。七日で明州に着く。藤原の宮が京都にあったとして、難波まで送ろうと言っていた高官が、太宰府まで ついていくという筋立てには首をひねる。京に住む天皇家の娘が松浦まで行って息子を待ち受けるというのも、非現実的だ。これが都が太宰府で、博多湾の難波まで見送りに行き、松浦の宮で待つというなら、理解もしやすいのではなかろうか。船上で遣唐大使の阿倍のせきまろは「春日なる三蓋の山の月影のわが舟乗りに送り来らしも」と歌う。阿部仲麻呂の例の歌を思わせる。そのように作られているのだが。ここで『万葉集』に三蓋山を探ってみた。『万葉集』では御笠山と三笠山の表記はあるが、三蓋山はなかった。そして、

巻2―0232 

御笠山  野邊徃道者  己伎太雲  繁荒有可  久尓有勿國
      右歌笠朝臣金村歌集出

      或本歌曰

 巻2―0234

三笠山  野邊従遊久道  己伎<太>久母  荒尓計類鴨  久尓有名國

 

232                 みかさやま のべゆくみちは こきだくも しじにあれたるか ひさにあらなくに

233                 みかさやま のべゆゆくみち こきだくも あれにけるかも ひさにあらなくに

 

  ここでもまた用字の違う歌を併置するという手法が用いられている。前例に従えば、

 御笠山が九州用語で、三笠山が山跡用語なのだが、調べてみると、御笠山を含む7首の歌のうち5首には王や皇の語が含まれ(232は例外になる)、三笠山の歌には王などの語は含まれていなかった。御笠山は神聖用語で、三笠山は俗用語かもしれない。

しかしここでは一応、三笠山は山跡用語としておこう。三笠と春日を詠みこんだ歌は、巻7―1295 春日在  三笠乃山二  月船出  遊士之  飲酒坏尓  陰尓所見管(かすがなる みかさのやまに つきのふねいづ みやびをの のむさかづきに かげにみえつつ)を含め、3首あり、山跡の春日と三笠山の関係は固定化されたと見てよいだろう。『古今集』におさめられた仲麻呂の歌および『松浦宮物語』の歌は、奈良の山の名称の「三蓋山」に変換されたのだろうか。中小路駿逸の「『万葉集』に倭国の人の作った歌はない」というテーゼは、古田武彦の「詞書は信用できず」というテーゼにより超克され、『万葉集』には倭国の歌があふれることになった。『原万葉集』の漢字は訂正されていないのではないかという 私のテーゼが正鵠を射ているならば、更に多くの倭国の万葉歌が発掘されるだろう。(文中敬称略)万葉原文の電子テキストを発見してこんな文章が出来ました。どんなものでしょう。難波を博多湾岸に想定していますが。

 

 

持統天皇吉野行幸の謎

 

                        世田谷区 十川 昌久

 

『日本書紀』持統紀に持統天皇の吉野行幸の記事がある。吉野離宮に行幸したとの事であるが、とても現在の常識では理解しがたい。離宮と言えば、私の認識では別荘のようなものなので、心身のリフレッシュを図るため、季節を選ぶと考えるが、どうものべつ幕なしで行幸しているのです。次の表を見て下さい、これは持統天皇の吉野行幸記事をまとめたものです。表1は持統在位年毎の行幸回数。表2は各月毎の行幸回数と要した日程です。この表―1から気づくことは、天武の喪が明けた、持統紀3年目から行幸が始まり、8年間で延べ31回である。表―2からは、1年を通じ、季節に関係なく行幸していることである。日程が不明な行幸もあるので一概にはいえないが、最低3日間から最高20日間とバラツキがある。3日間が1回、4日間が2回、5日間が2回と非常に短期間の行幸もある。現在なら車で飛ばせばあっという間の距離であるが、当時は飛鳥から徒歩か、輿に乗るか、馬で行くかである。途中に忌峠という難所もある。また、大勢のお供を連れての行幸であろう。そうすると最低でもほぼ1日の日程であろう。すると3日間というのはいかにもあわただしい。しかも、12月である。積雪はなかったのだろうか。とても全ての行幸が行楽や心身リフレッシュのために行ったとは考えられない。

夫・天武天皇を偲んで行ったとの説がある。持統は孫の文武天皇に譲位して5年間生存・君臨していたが、1回しか吉野に行っていない。大宝元年(701)6月29日から7月10日までの12日間のみである。天皇在位8年間で31回、譲位後5年間で1回である。とても天武を偲んで行ったとは考えられない。

持統は在位中44回行幸している。内31回が吉野である。実に7割が吉野行幸なのである。初めての本格的な都と言われる、藤原京造営の視察でさえ3回である。吉野の31回は異常としか言いようがない。では何故在位中に31回も吉野行幸を行ったのだろうか。

大東亜戦争敗戦後の占領下、昭和天皇はマッカーサー元帥を11回訪問している。11回目はマッカーサー元帥が解任帰国となる前日、昭和26年4月15日である。同日、都議会は臨時議会を招集し、感謝決議文を決議した。国会も感謝決議をし、名誉国民の称号を用意した。秩父宮両殿下などを発起人にしてマッカーサー神社を建立しようとの動きもあった。神社建立はその後のマッカーサー元帥の日本人12歳発言でポシャることになるが、16日には羽田までの沿道に都民20数万人が見送った。私にはこの事実と持統31回の行幸がダブルのである。

 

表1        表2

持統年

回数

 

行幸月

回数

回 目 と 日 数

 

1年

1月

1回目(4日間)、8回目(8日間)、20回目(?)

2年

2月

3回目(?)、23回目(8日間)、28回目(11日間)

3年

3月

15回目(8日間)、24回目(4日間)

4年

4月

9回目(7日間)、21回目(8日間)、29回目(?)、31回目(8日間)

5年

5月

4回目(?)、12回目(5日間)、16回目(7日間)

6年

6月

25回目(9日間)、30回目(9日間)

7年

7月

10回目(10日間)、13回目(20日間)、17回目(8日間)

8年

8月

2回目(?)、5回目(?)、18回目(5日間)、26回目(7日間)

9年

9月

22回目(?)
10年

10月

6回目(?)、11回目(8日間)、14回目(8日間)
11年

11月

19回目(6日間)

合計

31

12月

7回目(3日間)、27回目(9日間)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、吉野は行政上特別の地でもあった。吉野監(よしののげん)である。『続日本紀』には、吉野監について次の三つの記事がある。

 

1・天平5年(733)、吉野監・讃岐・淡路などの国は去年不作であった。(吉野監の文言の初出)

2・天平8年(736)、詔して、芳野監とその近辺の国々の人民に物を与えた。

3・天平9年(737)、畿内四カ国、芳野・和泉の二監及び七道の諸国に命じて僧尼は沐浴し、身を浄め一ヶ月の内に2〜3回最勝王経を読誦させた。

 吉野は国に準じた行政組織である。しかし、何時この「監」という組織が出来て、何時廃止されたか記録はない。和泉監は霊亀2年(716)、河内の大鳥・和泉・日根の三郡を割いて和泉監をおく。天平12年(740)、和泉監を廃止し、河内国に併合。と設置と廃止の記事がある。そして、その後国に昇格しているが、吉野は大和国の一部である。何故、吉野については記録がないのであろうか。大和国は大倭国から大和国に表記が変わったが、途中、天平13年(741)から天平19年(747)の間、大養徳(やまと)国と改名されていたのである。なぜ大養徳国を「やまと」と読ませたのであろうか。何故「徳を養う」のであろうか。天平時代は聖武天皇の時代である。持統を除く他の天皇の吉野行幸を『日本書紀』『続日本紀』から拾い出して見ると次の通りである。

 

656年 斉明朝・吉野宮を造営

659年 斉明朝・吉野で大宴会開催

671年 天智朝・大海人皇子、出家して吉野に入る

672年 天武朝・壬申の乱

686年 天武朝・吉野の会盟

701年 文武朝・吉野離宮行幸

702年 文武朝・吉野離宮行幸

723年 元正朝・吉野離宮行幸

724年 聖武朝・吉野離宮行幸

736年 聖武朝・吉野離宮行幸

 吉野から始まった壬申の乱や686年の吉野の会盟といい、吉野は特別な地である。そして聖武天皇で吉野行幸は終わっているのである。『続日本紀』は天平11年(739)、三関・陸奥・長門などと大宰府管内以外の諸国軍団を廃止。と記している

 

 

「天津司(てんつじ)の舞」を見学して

 

杉並区 高木 博

 

毎年4月第1日曜日に実施される山梨県甲府市小瀬町の重要無形民俗文化財「天津司の舞」を保存会の冊子から紹介させていただきます。

往古より諏訪神社並びに天津司社に伝承されている天津司の舞は我が国最古の人形芝居就中偶人劇の始組的存在と称され、古典的伝統神事芸能として高く評価されている。

 

社記より抜粋

「勧請鎮座の儀は年ひさしきことにて相知り申さず候え共、古来よりの申伝えには此の地未だ開けず草沼にありしころに天津神十二躰天降りまして舞遊をなし給いしところ俄かに二神は天上に昇り一神は西油川村の古井戸に没し給う、後の世に残る九躰の天津神を神像に作製小瀬村諏訪神社の社殿に勧請鎮座せるものなりしが此の地武田信光の所領となり社殿を下鍛冶屋村鈴の宮神社に遷宮してその跡地に居館を造営して館と定める、その後諏訪神社の末社として九神像を祭神とする天津司社を現在地に建立した。」

4月7日の日曜日会員有志と共に天津司の舞を見学に行く。3年前からの希望をようやく達成出来た。朝方東京は曇り空、天津司の舞は雨天の場合、祭典が中止と聞いていたので天候だけが心配でしたが甲府盆地に入った頃は快晴に安堵しました。    

甲府南インターを下りて山梨県立博物館の常設展示と隣接の銚子塚古墳を見学して12:00時過ぎに小瀬町の天津司神社に到着、御幸の出発の神事を見学する九躰の御神像が赤い覆面姿にて順番に氏子の手によって御幸の行列が準備される。

 

一の御編木様、二の御編木様、一の御太鼓様、二の御太鼓様、一の御鼓様、一の御笛様の以上六躰は笠を戴冠して深緑色に染め上げた麻の上下を着ている。御鹿島様は引立烏帽子を冠り両手に小刀を持っている。御姫様は黄色の上衣に冠を被り右手に扇子を持つ、鬼様は白い経帷子を着て杓子を持つ、お成り道を行幸し渡御の楽を奏しながら諏訪神社へ向かう。

諏訪神社に着くと境内の白幕にて囲われた御船に入る。御神像は東側に集まり、「サッ、サッ、サッ」と拍手を打ち舞が始まる。

一の御編木様から天津司社出立時から顔を覆っていた覆面を外し、御船の中で天幕の上に御神像の上体を見せてからくりしながら静かに3固廻る、次に「お狂い」といって激しい動作を伴いながら3回廻る、次に静かに3回廻って次の御神像に交代して同様に舞う。

御鹿島様も同様に舞い、お狂いの時に小刀を参拝者に5本投げる。これを手にした者はその年、幸福が得られるという。御姫様、鬼様は御鹿島様以外の御神像と同様に舞う。

最後に「サッサッサッ」と拍手を打ち御船囲い出御してお成り道を笛と太鼓を奏しながら天津司社へ帰る、御神像をおくずしして、天津司社に安置して完了する。

祭神は

「おひるめのかみ、つきゆみのかみ、ふつぬしのかみ、ねさきのかみ、きはたのかみ、いわさきのかみ、いわづつのおかみ、いぬおのかみ、いわづつめのかみ。」

 

昭利51年の早稲田大学教授・本田安次氏、民俗芸能研究家・山路興造氏を中心とした観光資源保護財団の調査によると、天津司の舞は古く中世初期からの人形まわしである。

この天津司の舞を操ったのは小瀬17軒の者である。諏訪神社境内の人形の舞台を御船と呼ぶ。

 

 

大国主考

その複数名称の意味するもの

 

                 杉並区 飯岡由紀雄

 

古田先生のお話を伺っていた時だった。「大国主に協力して出雲の国造りを助けたとされる少彦名(スクナヒコナ)は三種の神器を出した須久岡本の出身だったのではないでしょうか。」

須久岡本と言う遺跡名称地を初めて知った時から「もしや…」と思っていたことが,古田先生から語られた時に「やはり、そうかもしれない」との感を一層強くした。

それではその少彦名が協力したと言う大国主は、これも先生が地元に残る伝承「私共の祖先は大国主が逃げてきた時に匿いました。が、同時に大国主の女癖の悪いことにも、ほとほと手を焼いたそうでございます。」と湯迫温泉に奥様と泊まった時に聞きましたという話を講演会や旅行の際のバスの車中で伺うが、あの石見銀山の麓の「大国」に因むものであるに違いない。

大国(オオ(ホ)クニ、於保氏の国?)の主、、あるいはオオ(ホ)ナムチ(於保氏の貴人?)と言う名を冠せられて、スサノオ(須佐の男?)を初代と見れば出雲の第2黄金期を華麗な女性遍歴を綴りながら現出せしめた「主・ヌシ」と呼ばれる前の大国主の名前がもう一つの別名・葦原色許(醜)男(アシハ(ワ)ラノシコヲ)だったのではないかというのが今回のテーマである。

この名前の意味するところが書かれている本などによればわざと「忌み名」をつけることによって凶事を避けるという習慣から出たものであろうという説明が一般的である。

スクナヒコ、スサノヲの名前が地名をベースにしている可能性が「大」であるとするなら、世界の各民族もそうであるように(英語のof、フランス語のde、ドイツ語のvonなどは出身地・所属地をあらわす。土地の所有者であるので貴族である場合が多い。)この葦原色許(醜)男(アシハ(ワ)ラノシコヲ)という名前も地名を元にして付けられているという原点に立ち帰って考える必要があるのではないでしょうか。

葦原(アシハ(ワ)ラ)は天孫降臨時に天降(下)りの対象地を指しているものと思われる。

他の主要な登場人物がその名前自体が地名に因むのに比べて、名前の前に地域を限定するような地名を持つのが特徴的だと思います。「アメ(マ)ノ何々」という名前と同形式だと思いますが、あとは今のところ神武天皇の神(カム)ヤマト(=チクシ)イワレヒコを思い浮かべるくらいです。

「原」は現在も地名に残るように「ある一定の地域」を表して、国、郡あるいは里、郷などに相当しますから天降(下)りの対象地として「葦」(アシ)の地名を北九州・出雲の日本海沿岸に探せば良い訳です。海沿いに北九州には芦屋、出雲には芦尾があります。因みに壱岐にも芦辺があります。色許(醜)(シコ)は天孫降臨の原点となったところ、古田先生の言う天国―壱岐、対馬に探せば良い訳です。

果たせるかな、それはありました。それも長官(日子番)・天忍穂耳(アメノオシオ(ホ)ミミ)、ニニギ親子が住んでいたのではないかと先生が比定なされた地、比田勝の傍に島ですが「志古」という地名があるのです。

「フル、フレ」という呼び名が多いので「古」の確認の為に上県町役場に電話をいれて読み方を確かめてみました。まさしく、そのまま「シコ」と呼ぶそうです。この地名、まだどういう関係があるのかわかりませんが、先般古田先生と訪れた熊野にもあります(神武の来た道)。また、その旅行の際に古田先生は那智(ナチ)という地名はオオ(ホ)ナムチに由来しているのではないかと考えているとバスの車中で話して下さいました。

その役場の方が言うには、現在は無人島で海岸部には地元の人が立ち入るようですが、山間部は原生林のようになっていて蛇、鹿などが生息しているとのことです(聖地か?)。

また、「土地の人達は「ヒコシマ」と呼んでいるようですよ」との話を伺うことが出来ました。

天孫降臨に先立つ「国譲り」は不思議な話です。イナサの浜で直談判に応じたオオクニヌシは子供達が相続を放棄することを納得してくれるなら天孫に譲りましょうと大した抵抗もせずに心血を注いで造った国の統治権を渡してしまうからです。

八重の称号を持つ出雲の第一相続者かと思われる事代主(コトシロヌシ、記紀によると神屋盾比賣(カムヤタテヒメ)命の子供、正妻であるスサノオの娘スセリ姫との間に子供はできなかった。)は御大(ミホ・美保?)の海で覚悟の入水自殺、妾腹の子のタケミナカタが激しく抵抗したものの破れて諏訪の地に蟄居することになります。降臨後各地で激しい抵抗があったようですが、記紀では熊襲・隼人の征服話として記されているようです。

このオオクニヌシが大した抵抗もしなかったということは色々な想像を掻き立ててくれます。それはオオクニヌシとアマテル・ファミリーの「血」が非常に近かったのではないかということです。対馬・上県のこの「志古」が大国主の別名「シコ」ヲと何らかの関係があるなら、この地で本家・分家のような関係があったのではないでしょうか。本土である芦原(九州?)と呼ばれた地に移住し、国造りに成功する力を持っていたオオクニヌシ(の本家?)、そこでオオクニヌシはアシハラノシコヲ(芦原に住み付いた天国(アマコク・クニ)の「志古・シコ」出身の男)と呼ばれたのではないでしょうか。

大国主も天国から降臨していることになります。新羅の第4代脱解王や「瓢箪」を腰に巻きつけて海を渡ったという「瓠公」の話を思い出します。そして進んだ金属精錬、農業技術の支配権を手にした彼は国の経営に成功し、スサノオの系譜に貴人の婿養子として迎えられ、各地の有力者との間に婚姻関係を築くことで血縁関係の絆を深め領国を拡大、大物主(オオ(ホ)モノヌシ)を初め、記紀に記され、伝えられた様に出雲がその第2黄金期に向かう中で、輝くような称号(ヤチホコノカミ、ウツシクニタマ、オオクニタマ、など等)を獲得していったのではないでしょうか。

その本家筋であったオオクニヌシに分家筋であるアマテルの息子オシオ(ホ)ミミが壱岐の高木の神の娘(タクハタチヂ姫)との婚姻関係を結ぶことで、新たに力を増し、本家に対して叛旗を掲げさせていったもの、それが「国譲り」なのではないでしょうか。オオクニが分家、アマテルが本家筋かとも考えたのですが、出雲に集った有力者の中で第一位の家臣(最後に行って最初に帰ることができる)であるという先生の提言を考えるとやはりオオクニが本家筋、アマテルが分家筋にあたると考えたほうが妥当かと思います。

「国譲り」とそれに先立つアメノホヒ神とアメノワカヒコ神の二度に渡る説得交渉(紀ではホヒの息子武三熊之大人と三度)は、「話し合いで説得できれば、無駄な血は流したくない」ということで、アマテル家とオオ(ホ)クニ家の「血」が非常に近いのではないかということを感じてしまいます。ただイザナミを黄泉(ヨミ)の国に追い求めたイザナギがそこから逃げ帰る時にイザナギを追いかけた黄泉醜女(ヨモツ「シコ」メ)(紀では八人。八乙女? 別称・泉津日狭女 ヨモツヒサメ)に対する「「シコ」オ」とも考えられますので、先に述べたように凶事には凶事をもって対抗するというシャーマンの教義を感じさせる習俗の始まりとそれに従事する者を何故「シコ・ヲ/メ」と呼んだのか興味が尽きないところです。

やはり地名から出たのでしょうか。

相撲の「シコ」とも関係しているようです。(地霊鎮め、奉納)

天孫降臨胎動の始源の地・比田勝の近くに「志古・シコ」の地名を見たことで考えてしまいました。

今度の日本の神々の源郷・対馬壱岐旅行が楽しみです。

 

 

松ぼっくりがあったトサ その三

 

立川市 福永晋三

 

 鏡と女王

木瓜紋から始まり、三角縁神獣鏡の笠松紋様に辿り着いた結果、卑弥呼は漢式鏡圏の女王、息長足姫(神功皇后)は三角縁神獣鏡圏から出た女王という推測が得られた。卑弥呼は三世紀の筑紫の女王、神功皇后は干支二運(一二〇年)後、四世紀後半に卑弥呼以来の王朝を倒して、筑紫に新たな王朝を築いた女王という拙論と、重なりを見せ始めた。

卑弥呼の鏡は、考古学上論議の的となっているが、架空説に閉じ込められた神功皇后のほうには、出土した現実の青銅鏡すなわち当時の白銅鏡(ますみのかがみ・まそかがみ)との関連は一切述べてこられなかった。前回、提起した話題は、その見直しを求めてのものである。神功には、豊国の鏡山と鏡ヶ池(池は福岡県香春町の柳井秀清氏所有地内)の伝承があり、香春には現在も鏡製作に携わる一族がおいでだ。佐賀県鏡山の鏡神社の伝承も残されている。四世紀の鏡にまつわる女王としての側面が考えられる。神功が日神の神格を継承する地位にあるなら、鏡祭祀と無関係のわけがない。

三角縁神獣鏡にはまだ考察の余地があろう。

(万葉集に著名の額田王は鏡王の娘とされる。その近くに鏡王女や鏡女王の名もあらわれる。筆者は、巻一・二を(日出処)天子万葉集と考える立場から、鏡王女や鏡女王を天智期などではなく、先の古い時代の女王なども対象にして考えるべきだとし、その方向で探査中である。)

 

笠松の神紋

木瓜紋や笠松紋を追求して、「松の一族」たる物部氏の存在を再発見したようだ。『先代旧事本紀』によれば、その本貫地は、遠賀川流域である。そこに筑紫(天の)物部氏がいた。弥生期に大規模の東遷(あるいは東侵)を神武より早く行なったことは、日本書紀からも認められる。筑紫の地が空っぽになったわけではなく、四世紀に神功と配下の物部氏が西侵(日本書紀を読む限りそう書いてある)してきたとき、これらと与したようだ。この三角縁神獣鏡圏の物部氏と筑紫に残った物部氏の再同盟関係が、神功のクーデターの成因と筆者は見る(熟田津の歌の解釈もこの物部氏の追求と並行した)。

この神功の創始から倭の五王に続く、水沼の皇都に拠った王朝にもクーデターの時が訪れた。通説の日本史にいう筑紫国造磐井の乱(風土記は筑紫君磐井)である。古田武彦氏は、その実体を近畿の継体天皇の乱とし、筑紫君葛子が糟屋の屯倉を献上したが、九州王朝は継続したと考えられた。だが、原文に従う限り、大きな矛盾がある。

 

遂に磐井を斬りて、果たして彊?(さかひ)を定む

 

その堺として、糟屋の屯倉(平成十二年、福岡県古賀市教委が鹿部田渕遺跡の大型建物群の跡を確認している。七月一〇日の読売新聞夕刊に載った)を献上したのなら、六世紀にすでに大和王朝が博多湾岸付近まで領有したことになり、九州王朝は弱小の王家と成り果てている。

この筆者の不審は、二〇〇〇(平成十二)年八月の飯岡由紀雄氏との神功皇后を探る旅で、あるヒントに邂逅して、少し解けた。それは、宗像大社の近く、津屋崎の宮地嶽神社を訪ねたときだった。奥の巨大横穴式石室古墳を見ての帰りだった。古墳の上には「大塚稲荷」社が建っていた。そして、飯岡氏が、本殿の裏門にあった神紋を一目見て、「三角縁神獣鏡の笠松文様と同じじゃないか!」と発声された。アッと息を呑んだ。先の糟屋屯倉の記事が脳裏を過ぎった。

 

「古墳の被葬者は、物部麁鹿火だ!」

 

筑紫君磐井を斬り、彊?を定めたのは、他ならぬ大将軍物部麁鹿火だったのだ。近畿天皇の家臣ではなく、磐井の家臣、否、共同統治者に近い存在だったと考えられる。だからこそ、「官軍俄かに発動」できたのであろう。律令制を樹立し、天子の位を独占しようとした磐井に対して起こしたクーデター、これがこの動乱の本質ではないか。磐井を斬ったあと、麁鹿火は宗像の辺りから逃げはしなかった。そこに葛子が糟屋の屯倉を献上して、物部氏が新天子となった。

宮地嶽神社の国宝を再点検しよう。

金銅透彫冠残欠、金銅鏡板付轡、金銅壷鐙、鞍金具残欠、蓋付銅鋺、 銅盤残欠。大将軍にして天子の遺物と考えられなくもない品々だ。

 九州王朝内の権力闘争。そう考えたら、大和王朝は、未だ九州を領有せざる分王家どまりとなる。近畿の継体天皇は、逆に物部麁鹿火が東の大和に派遣した将軍ではないのか。そうすると、物部麁鹿火こそが、真の「倭国(邪馬台国)の継体天皇」

宮地嶽神社神紋 撮影飯岡由紀雄氏


 

 


ではないのか。

磐井の乱の実体は「物部麁鹿火の乱」と考えられる。

筑紫君側はしばらく雌伏する。天子の位の奪還を賭けた戦いが、聖徳太子と蘇我氏の蜂起ではなかったか。物部守屋を滅ぼして、奪還に成功する。こうして即位したのが、日出処天子ではなかろうか。この間に、「法興」を始めとする二系統の九州年号が残されているのも、『隋書』?国伝に兄弟統治の残存が記されているのも、あるいはこれらの複雑な事情が絡んでいるのではと考えた。

夏の盛りに、筆者は冷汗三斗の思いでいたのだ。

 以上が、松紋が(こうやの宮の)桐紋を凌駕した事変と、筆者は見ているのである。今後も追究を続けたいテーマである。

 

 

   三角へのこだわり

 三角縁神獣鏡にはもうひとつ特徴的な紋様がある。三角縁の内側の三列の三角連続紋様だ。ずいぶん前から気になっていたが、これも最近の物部氏の追究から少し見えてきた。

 二〇〇一年七月八日、多元の会の富永氏の企画された「東北の装飾横穴を訪ねて」に参加して、次のいわき市中田横穴の玄室の壁の紋様を見たとき、ある強い確信が生まれた。

 上一列が逆三角形、下二列が正三角形の三角連続紋である。この紋様に囲まれるようにして、被葬者は眠っていた。また、同じいわき市から出た「天冠埴輪(埴輪男子胡座像)」には顔・冠・上半身に、朱で染められた三角連続紋があり、中田横穴と

はなぜか共通するとされ、ともに目的不明とされている。

 だが、筑豊の数々の横穴墓、筑後の石人古墳、両地域の装飾古墳を巡りつづけて、同様の三角連続紋を見つめてきた筆者には、「海人族として

いわき市中田横穴奥壁


 

 


の物部氏」が「鰐(鮫)の歯」を描いて「魔除け」として用いたと考えられたのである。そこに至るまでの経過を紹介しよう。

 

   岡の県主祖熊鰐

 神功皇后を追究する過程で、仲哀に帰順した「岡の県主の祖熊鰐」なる人物を遠賀川流域、「をかの地」に探した。この「鰐」がサメであることは、因幡の白兎説話や、八尋鰐と化して子を産んだとされる豊玉姫説話からも明らかであろう。筆者は、すでに鞍手町から「八尋」「新北」の地を見出し、万葉集の「熟田津」がこの地であり、神功皇后が船出した「和珥津」と同じだと看破した。

さらに決定的だったのは、遠賀川河口の山鹿貝塚から出た人骨がつけていた耳飾であった。縄文時代から、遠賀の地には鰐をトーテムとする部族が住んでいたようだ。弥生の岡の県主祖熊鰐まで続いた一族と考えて大過なかろう。その一族とは、豊玉姫が海神の娘であるから、「わたつみ」の人々であるし、また、(筑紫)天の物部氏の地であるから、物部氏でもある。したがって、岡の県主祖熊鰐は、熟田津=和珥津に拠った王者と考えられる。また、その先祖には、饒速日、さらには海神が考えられるのである。

このように、「熟田津」の歌を考え始めたころから、鰐の一族を想定し続けていた。

先の中田横穴で、遠賀の鰐の歯との関連を確信したあと、同年八月、鳥取県白兎海岸にシュモクザメ(『日本史のなかの動物事典』〈東京堂出版〉によれば、島根県八束郡の古い漁師が「鼻に目のある手掛けの鰐」と呼んだらしい)が現れてニュースになった。

 


 

 


 


 

 数日後に、福岡県芦屋の沖(遠賀川河口)に同種のサメが現れた。数千年の時を経ても、人を襲うことのある鰐が古代の説話どおりのその海に出現した。海人族(天族)が畏れ、自らのトーテムと崇め、その恐ろしい歯を却って強大な魔除けとしたとする筆者の考えを、天が証明してくれたような気がした

 

 


 

 


鱗文の誤解

 木瓜紋を追究するかたわら、ある三角紋が目に入った。鱗紋である。

 


 


 北条鱗には、『太平記』に伝説がある。北条時政が子孫繁栄を祈ったとき、美しい女房が現れ、たちまち大蛇となって海中に入った。大きな鱗を三つ落としていったので、旗の紋に押したというのである。

 似た伝承がある。豊後国発祥の三輪氏族の尾形氏の三つ鱗にまつわる。源平合戦に活躍した尾形三郎惟義の腋の下に三枚の鱗形のあざがあった。「蛇の子の末を継ぐべき験にやありけん。後に身に蛇の尾の形と鱗とのありければ、、尾形の三郎という」と『源平盛衰記』にある。

 百科事典の「鱗紋」の説明にも、「二等辺三角形を上下左右につなぎながら展開していった紋様。二等辺三角形を左右の方向、つまり帯状に並列したものを鋸歯紋、ないし山形紋とよんで鱗紋と区別することもある。この紋様の歴史は古く、埴輪や古墳の壁面に朱や青の彩色を加えて表されていることが多い。(中略)とくに能装束では、金銀の摺箔で表された鱗箔が、蛇体を表す女役の衣装の模様として有名である。」〈吉村元雄〉と記されている。

蛇の鱗説が強い。だが、実際に蛇の鱗を見ると、菱形の連続である。それは、むしろ松ぼっくりの横から見た形と酷似していて、疑問が多い。魚の鱗は丸い部分がある。

 ちょうど、木瓜紋が長い誤解の中にあったように、鱗紋にも何時の時代からか誤解があったのではないか。


 


 

 そう考えながら、九州と東北の各地の装飾古墳の三角連続紋を見て廻るうちに、これは、他の図柄と併せて考えても、幾何学紋様ではなく、自然界の具体的な何かを表しているのではないかと考えつづけた。特に鋸歯紋について考えつづけ、中田横穴で「鰐歯紋」ではないかと思いが及んだのである。

  

 鰐口再考


 


 米映画「ジョーズ」の一齣である。見事に天然の恐ろしい二等辺三角形が並ぶ。この一齣が、三角連続紋の意味するものを如実に表していよう。ここに、中田横穴の玄室の三面に三角連続紋が、被葬者を囲むように描いてあるわけが見えている。

 鰐口である。魔除けの鰐の口の中に被葬者は眠っていた。三角縁神獣鏡の画像の中に、注文主が描かれているなら、彼も三角連続紋に囲まれていることになる。そもそも、三角縁自体が、「鰐歯の立体化」とも考えられるのである。

一方、神殿や仏殿の前につるしてある銅製の具も鰐口と呼ぶ。これも邪を払う具であることは想像に難くない。倭国の海人族の血を我々は濃密に受け継いでいるようだ。

 


 

 


   おわりに

 三角文は、古代中国においても発達し、中国では蛙形紋となし蛙の手・足の形から展開したと考えている。しかし日本の古墳壁画の三角紋をもって、直接古代中国の影響とすることも危険であって、既に日本化した、あるいは日本的な図文と解釈してよいであろう。(『壁画古墳の系譜』斎藤忠著)

 筆者の見るかぎり、三角紋は倭国独自の紋様と考えてよいようだ。

 木瓜紋の追究と神功皇后の追究とが、本人もパニックに陥るほどのさまざまの連想につながった。しかも、それはまだ止まる事を知らない。

今回は追究しなかったが、横穴墓の編年については、豊国の辺りのものが初現とされている。それが東北まで広がり、東北で終息する。その歴史的背景も考察中である。

豊国に関しては、「わたつみの豊旗雲」の万葉歌とも併せて、海神の本拠、真の天孫族の本貫地として捉え直そうと考えている。

三角縁神獣鏡圏は丹波の国。お伊勢さんがあちこちにあり、祭神は豊受大神。その一角には、息長氏族の和邇氏もいる。

豊秋津島ヤマトの国とは、いったい何を意味するのか。難問は尽きないが、ひとまず、松ぼっくり考を閉じさせていただく。

 

 

【友好団体の会報から】

 

「多元 No.49」

神武実在(記紀の構造)                  古田武彦

内倉武久講演会報告

「常陸の国」史跡探訪                   下山昌孝

古田学説の剽窃を黙過しないために        安藤哲郎

謡曲のなかの九州王朝(6)

 博多の祭りーどんたく                 新庄智恵子

「筑紫の日向」のこと                  深津栄美

「神武の来た道」雑感                  浅野雄二

神籠石のこと                      難波 収

続報「二倍年暦の実例になるか?」     肥沼 孝治

 

古田史学会報No.49

法隆寺移築論の史料批判

―観世音寺移築説の限界                 古賀達也

「伊豫温泉碑」を探そう                 洞田 一典

お灯まつり初上り                    菅野 拓

あしがちる難波                     平野雅曠

連載小説「彩神(カリスマ)第9話

螺鈿の女(3)                     深津栄美

随想月三題                       古賀達也

「神武が来た道」について        伊東義彰

古代東北王朝の領域                   木村賢司

神武の行った道                     西村秀己

 

九州古代史の会 NewsNo.102

「筑紫の神々」と「青銅鏡二題」

―一月例会報告

石塚山古墳と葬送儀礼

     ―二月例会報告

磐井の乱から考える K         兼川 晋

「神武東征譚」豊前説                   大芝英雄

白村江以後の倭国(5)                  小松洋二

大芝説を現地に追う                    庄司圭次

 

 

【教室便り】

 

神功紀を読む会

                               立川市 福永晋三

 羽白熊鷲征討譚まで来ました。この段は、神功皇后の筑後平定譚として、著名の箇所です。この段を、古田武彦氏が『盗まれた神話』の中で、「筑前を原点とした、筑後討伐譚であり、いいかえれば、筑紫一円平定説話である」とされました。その上で、景行紀の九州一円平定説話の前にあるべき説話とされたのです。

 先後関係はまだ先の段階で考えますが、「筑紫一円平定説話」とするには少し無理がありそうです。

 


 

 


神功は橿日宮から層増岐野に至って、羽白熊鷲を滅ぼしました。そこで、「我が心則ち安し」と言ったので、安(安野)と名付けたと書かれています。地名改称説話です。そうすると、荷持田村=層増岐野=安と考えざるを得ません。現地を訪れたら、羽白熊鷲の終焉地は、甘木市荷原(にないばる)の美奈宜神社(旧称栗尾大明神)とその周辺(鬼ヶ城)の山間地であるようです。しっかりと、記紀にはない詳細な伝承が残されていました。重要なのは、終焉地に追い詰められる前は、どの平野部に拠っていたかということです。甘木市内に四世紀頃に途絶えたとされる「平塚川添遺跡」が出現しています。筆者は、こここそ羽白熊鷲の拠点と考えていますし、同時に層増岐野であるとも考えています。ここから南東の方角に、佐田川をはさんで、もう一つの美奈宜神社(旧称林田神社)があります。字名が「蜷城(ひなしろ)」。昔、神功皇后が数十万の蜷(にな)貝を集めさせ、城を築き、賊をおびき寄せて蜷城を壊し、圧殺したという奇妙な伝承が残っています。筆者は当初、この事変を「層増岐野の決戦」と命名しようと思っていましたが、これらの調査結果から、むしろ「層増岐野の姦計」と命名すべきかと悩んでいます。征討のきっかけは、どうやら騙し討ちのようなのです。

次に、山門県の田油津媛を誅した話が直結していますが、これは「新・九州王朝の論理」の拙論で述べたように、時間的空間的に隔たりのある記事のようです。この間に「隠された真の筑後征討譚」がありました。大善寺玉垂宮に伝わる『吉山旧記』に、宮の真の主神と思われる「鬼」が滅ぼされ、高良山城(高良大社の神籠石山城と思われる)が焼き討ちにあったことを臭わせる記事がありました。『久留米市史』には、高良山を下山して、田油津媛征討に向かう神功皇后のまたも奇妙な説話があります。「背比べ石」の伝承です。下山する途中に大石が立っていたが、皇后が「田油津媛を退治できるなら、私のほうが背が高い」と宣言します。すると大石はすぶすぶと縮んだというのです。高良山に今もあります。伝承の真偽は分りませんが、高良山城を落とした後に田油津媛征討に出かけたというのは、おそらく歴史事実なのではないでしょうか。

右の二点から考えますと、羽白熊鷲征討は、大川(筑後川)の北、小筑紫征討説話であり、田油津媛征討は隠された高良山城落城説話と共に、大川の南、筑後(実は火の国と筆者は考えています)征討説話であると思われるのです。なお、古田武彦氏の『古代史六〇の証言』の中に、「筑後川は自然の巨大環濠」という考え方が示されています。

以上から、羽白熊鷲征討説話は、「小筑紫一線平定説話」と言わざるを得ないのです。

五・六月の会も、羽白熊鷲の検証をやっているかも知れません。会員のご参加を募ります。次回は6月15日、会場は杉並産業商工会館、時間は13:00からです。

 

 

 

「天武紀」便りは原稿が未着でしたので、お休みです。(編集部)

次回の勉強会開催は通常通りです。

 

【お知らせ】

九州王朝の舞ではないかと思われるルソン足を特徴とする『筑紫舞』見学ツアーが企画・参加者募集をしています。

日程:7月20(土)〜22日(月)

旅程:

20日―集合午前7時30分

    羽田空港国内線出発ロビー

    JAS303便

08:30 羽田発

    10:10 福岡着

    午後 「舞」見学大濠公園

空港〜大濠公園の交通費は各自負担

    福岡泊

21日―福岡市〜大宰府(竈門神社下宮)〜北野天満宮〜田主丸〜高良大社奥宮・上津土塁跡〜千栗神社(久留米泊)

22日―高良大社下宮〜風浪宮〜こうやの宮(七支刀を持つ神像)〜女山神籠石〜小郡官衙跡・筑紫の飛鳥・上岩田廃寺跡〜福岡空港

    JAS320

    19:30 福岡発

    21:00 羽田着

定員15名 増員可(最大25名)

費用―五万五千円 飛行機代・バス代・ホテル代・朝食2食・舞鑑賞券・旅行傷害保険を含む。

昼食・夕食は自由食です。

参加希望者はトラベル・ロード(高木)まで葉書又はFAXで申し込んでください。

 

 

【会長コーナー】

            藤沢 徹

 

 多くの会員の皆様から暖かいご援助を賜り、累積赤字解消のメドがつきました。感謝感激です。有難うございました。

 講演会や旅行などのイベントを別にすると、年会費収入のほとんどが会報発行とホームページ維持の経費に使われています。通信費・事務費など会の財政運営は綱渡りの情況ですが、会費を値上げしないで何とか頑張ってコンテンツの強化、会の活性化に励みたいと思っています。

 会費納入が済んでおられない方には、払込取扱票を同封しました。ご協力のほどお願いします。なお、行き違いの節はご寛恕ください。

 東京古田会が編集を担当した新・古代学第六集は入稿も終り鋭意出版作業中です。近いうちにご紹介できることになります。

 弊会の編集担当は二度目でしたが、原稿採用基準を明示したこともあり、粒よりの論文が集まりました。

 古田歴史学の立場に準拠していても、歴史事実の認識方法や分析の切り口がかくも多元的とはと驚くほどでした。是非ご期待ください。

また、御知り合いの方で古代史に興味のある方への古田会(●●●)入会(●●)を勧めて下さいますよう会員各位にこの場を借りてお願い致します

 

 

【事務局だより】

            高木 博

 

うれしい知らせです、過去に吉田武彦氏により「古代史60の証言」等

にて提示案内なされた福岡県山門郡瀬高町太神にある『こうやの宮』の社殿が建て替えられることになりました。

前回久留米シンポの後お伺いした時は、何時崩壊してもおかしくなかっ

た状態でしたが今年7月20日から22日予定の『筑紫舞を見に行く旅』

にて見学を打診したところ保存責任者の江崎様が皆様が来ていただく前迄に急いで建て替えを済ませましょうとの御返答、当然見学も御承諾いただきました。

前回のお伺いの時に瀬高町文化財担当者田中氏や宮の管理者の因幡様に

も改修保存をお願いしたのを思い出しました。因幡様はその後御逝去なされ、管理も個人から移管されたようですが貴重な文化財が保存されたことは喜ばしいことです。

 

 

【編集後記】

          飯岡 由紀雄

 

今号もやっと編集作業の終わりに来ました。画像と表の処理には苦労しました。1行16字、4段構成で版を作っていますので、その枠を越えてしまう原稿をどう処理すればよいのかPCと格闘の日々でした。

でも古田先生を始め、投稿会員の皆様の貴重な文章・意見を他の会員の皆様に紹介したいとの思いがなんとかこの難局を乗り越えさせてくれたようです。古田先生の多くの会員の皆様にぜひご覧頂きたいとの思いが伝わってくるような手作りの図表、拡大しましたが石に刻まれた縦線、見えますでしょうか。古田先生の史観に触発されて独自の展開を見せている室伏氏、古田会ニュースに登場です。十川氏の検証も古田先生が九州・吉野説で新たな論を展開していますので、どんな論を検証した事実から見せて頂けるのか楽しみです。

 

6月5日から対馬旅行が予定されていますので、またどんな発見があるのやら編集作業を終えて胸がわくわくする日々です。何かありましたらまた、会報で紹介させて頂きたいと思います。古田会ニュース愛読、ご支援の程お願い致します

 

 

東京古田会賛助会員の紹介

わたしたちの会社は東京古田会の活動を応援しています。

 

保険の相談は

インシュランスオフィス湘南

(安田火災海上・ひまわり生命保険代理店)連絡はTel0466-26-4866 Fax0466-52-3110  担当 小沢

 

旅行の相談は

(株)トラベル・ロード

Tel042-599-2051   担当 高木

 

住まいの手入れは

(有)スバル総建

Tel03-3392-8596 Fax03-3392-8596

                     担当 矢代

 

貴金属・宝飾品の相談は

(株)ジュエル第一

Tel03-3834-4611 Fax03-3834-4645

 

印刷の相談・ご用命は

(有)プリント・イン

Tel03-3393-6588 Fax03-3393-6587

担当 中島

 

賛助会員登録希望は事務局のほうまでお問い合わせください。会報に広告が載ります。

 

記者クラブ発表後古田先生と歓談

 

粟島神社で宮司さんと-熊野旅行にて

会員および入会を希望する皆様へ、

東京古田会は会員を募集しています。会員の皆様のお知り合いで日本古代史に興味のある方がいらっしゃいましたら古田会への入会をお勧めください。入会を希望する方は入会手続きについて事務局のほうまでお問い合わせください。