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03 . 藤木秀吉遺稿集『武蔵屋本考』のこと (October 2003)


藤木秀吉のことを知ったのは、「日本の名随筆 別巻10」『芝居』(作品社、1991年12月)の編者あとがきが最初だったと思う。

慶応の学生になって間もなく、父の親しい実業家の家に招かれて行き、その書斎を見て目がまわりそうになった。広い部屋の三隅に天井までの書棚があり、そのほとんどが古今東西の演劇書なのだ。劇場に通いながら、小遣いで少しずつ買い集めた私の本の中に、あるはずのない貴重な明治以来の珍本がずらりと並び、中には初めて存在を知った稀覯書もある。それが縁で、大学を出るまで、家人が不在でも自由に読みに来るようにといわれた。私にとってその人は、学恩の大先輩だと思っている。
この「父の親しい実業家」というのが藤木秀吉のこと。彼のことをさらに詳しく知ったのは『見た芝居・読んだ本』(文春文庫、1988年5月)所収の「藤木秀吉さんのこと」という文章や『回想の戦中戦後』(青蛙房、1979年6月)を読んでからのこと。この藤木秀吉と戸板康二の書斎での交わりにまつわるエピソードがずっと心に残っていた。

戸板康二が暁星を卒業して慶応予科に入学したのが昭和7年、その年の夏に父が大阪へ転勤したことで、それまで東京山の手にあった戸板康二の実家は関西となり、三田へ通っていた戸板さんは祖父の家に寄宿したり下宿暮らしをしていたりで、休暇になると阪神間の住吉の家族のもとへ「帰省」、年に3度関西に滞在することとなった。お父さんが関西生活をしていたのは昭和7年から12年までの5年間、戸板さんは当時のことを「おかげで大阪のいい役者のいい芝居をたくさん見ることができた」と回想している。お父さんの関西転勤はのちの戸板さんにかなりよい影響を与えたようだ。「阪神間の戸板康二」に関してはもうちょっと突っ込んでみる必要がありそうな気がしている。

戸板康二と藤木秀吉との交流も阪神間で始まった。「藤木秀吉さんのこと」によると、予科の2年から3年に進む春休みに帰省した折、古河の重役をしている藤木秀吉が「一度遊びに来るように康二君に言って下さい」と言っていたことをお父さんから聞かされる。戸板さんは藤木秀吉とその時点ではまったく面識がなかった。どういうことなのかというと、藤木秀吉は同業のお父さんから息子が本が好きで芝居が好きだということを聞かされて、「同好の士!」と親子以上に年が離れている戸板青年ににわかに親近感を抱き、書斎に招こうと思ったようだった。そんなこんなで、戸板青年は住吉の隣の御影の藤木邸へと出かけていき、藤木氏の書斎に通されることとなった。そして、先に抜き書きした体験をすることとなる。

その後も「いつでも読みたい本を読みに来ていいですよ」と、主人不在のときに通してもらってその膨大な蔵書を読ませてもらうという特権を享受することとなった。藤木氏は御影のあと東京へ転任し、牛込の新小川町へ引越し、その後大森へと越した。大森への転居の際には、戸板さんが蔵書を並べる作業を担当したという。結局そこが藤木氏にとって終の棲家となった。藤木秀吉は昭和14年4月、急逝した。

「藤木秀吉さんのこと」によると、初めて訪問した昭和9年のとある春の日から学校を卒業するまでの間、戸板康二は藤木秀吉の書斎に自由に出入りし、何時間も本を見せてもらったという。いわば、藤木秀吉の書斎は、慶応国文科の教室と並ぶ、戸板康二にとっての学校だったわけだ。その「学校」というのは書物を読むという行為にあるのはもちろんだけど、藤木氏との交わりの中で、演劇書のこと、芝居のこと、古本全般のことなどなどいろいろな対話があったに違いない。そういう対話の場として、藤木氏の書斎は戸板青年にとって絶好の学び舎だったのだと思う。戸板康二が藤木秀吉のことを「学恩の大先輩」とするゆえんもそこにあるといっていいだろう。
藤木さんの家で、奥さんもお嬢さんも留守の時でも、あげてもらって、書斎で本を何時間も見せてもらう。菊廼舎の生菓子が出たり、ジャーマン・ベーカリーのジャム・ドーナッツが出たりする。親と離れている学生にとって、こんな手厚い厚遇は、夢を見るような心持であった。

藤木さんからぼくへ宛てた手紙や葉書が、おびただしく残っている。いま思うと、自分の息子のような年の学生に、いい本を買ったというノロケを書いたり、時には、武蔵屋本の巻末の広告の疑問点をあげて、「どう推理しますか」と問い合わせたりしたのは、本の趣味の友達として、年のちがいを忘れて、ぼくを一人前に扱ってくれたに違いなかった。
そして、「藤木秀吉さんのこと」の結びで、「学恩の大先輩」について戸板康二は、
藤木さんがいなければ、ぼくは、歌舞伎を自分の仕事の目標にする気にもならなかったのではないかと思うことがある。ぼくは師にも先輩にも友にも恵まれたと、いつも考えているが、それとは別に、父の同業の友人で、「藤木の小父さん」とはじめは呼んでいたこの人を知ったというめぐりあわせを、深く肝に銘じている。これこそ、めったにない、えにしに、ちがいなかった。
というふうに書いている。思えば、予科3年まで仏文科に進学する気でいた戸板康二、折口信夫の教室に入るよりもさらに前に藤木秀吉とのえにしがあったということになる。文人としての戸板康二に大きな影響を与えた人物の名を挙げていくと、折口信夫、久保田万太郎、内田誠……というふうになるのだろうけれども、藤木秀吉こそはその最初の人だったというわけなのだ。

藤木秀吉は、戸板さんのことを「いつか芝居の本を書くだろう」と言っていたという。戸板康二が最初の本、『俳優論』を出した昭和17年には藤木氏はすでに亡くなっているのだったが、それにしても、その後の戸板康二の活躍を見たとしたら、どんなに目を細めたことだろうと思う。それから注目したいのが、初めて藤木秀吉の書斎に通された昭和9年に、戸板康二が「演芸画報」の公募論文に当選して、「歌舞伎を滅ぼす勿れ」という文章が画報に華々しく掲載されているということ。藤木さんもたいそう喜んだに違いない。戸板さんは「演芸画報」の稿料で谷崎潤一郎の『春琴抄』の漆塗り本を神戸で買ったという。「これを買ったんですよ」「ほう、ほう」といった感じに、藤木氏とおしゃべりに興じていたに違いない。とかなんとか、いろいろ妄想しつつ、「阪神間の戸板康二」の一断片がさらにわたしのなかで強烈にイメージされてゆくのだった。



さて、戸板康二が藤木秀吉の書斎に出入りするようになって、間もなく藤木氏より、今一番のテーマは「武蔵屋本」だと聞かされる。武蔵屋というのは丸善の傍系の出版社、明治20年代に近松門左衛門の浄瑠璃の復刻を試みた出版社で、その近松の活字本を初版再版三版ともれなく蒐集しようと決意した藤木秀吉、1冊ずつ丹念に買い揃えていって、何年もかかった末にコレクションを完成させた。当初は単独で出た作品が重版の際には他の作品と組み合わせになったり、装幀がものによって一々違ったりで、蒐集意欲を掻き立てる代物だったようだ。

『午後六時十五分』(三月書房、1975年7月)所収の「演劇書のこと」で、当時のことをこう振り返っている。
古書展に行くことをそろそろしていたぼくに、藤木さんが「武蔵屋本を見たら、買っておいて下さい。重複してもかまわないから」といった。もっとも、当時、一編を一冊にした近松本は、精々二十銭くらいだった。

すでに手中におさめた武蔵屋本の巻末の広告を手がかりに、目録ができていて、その中に、まだ藤木さんの見ていない何冊かがあった。あらゆる手段を講じ、七年かかって、藤木さんの武蔵屋本コレクションは完璧なものになり、「武蔵屋本考」という論文が書き上げられた。
寅年初春再版 天智天皇 戸板青年も藤木氏の情熱に感化されて、武蔵屋本を気にするようになり、藤木氏が持っていない武蔵屋本を届けたらどんなにいい気持ちだろうと思ったという。結局7年かかったコレクション、その最後の1冊、『津国女夫池』を入手したとき、藤木秀吉はすでに東京に転任していて、住吉にいた「若き書斎の友」戸板康二に電報でコレクションの完成を知らせたとのこと。上記の「演劇書のこと」には、《世に芝居のおもしろさのあることだけ知っていたぼくが、同時に、演劇書というものが、芝居のおもしろさを助長する効能を持っている事実を、その人の書斎で教わった》という一節がある。

藤木氏と戸板青年との書斎の友としての交わりの中心にあったともいえる武蔵屋本、戸板康二を読むようになった直後に、冒頭に挙げた「日本の名随筆」の『芝居』の編者あとがきの文章に出会って、そのエピソードにさっそく心ときめかして、その後、戸板康二をどんどん読むようになっていくうちに徐々に、藤木秀吉のことや武蔵屋本のことがわたしのなかで明らかになっていって、さらに藤木秀吉と武蔵屋本のことを心に強く刻むようになっていった。古本屋でふと武蔵屋本の一冊を見つけたとき、「あっ」と記念に一冊だけ買ったりもしていた。それが右上の画像。

『武蔵屋本考その他』(昭和15年4月発行) 藤木秀吉は昭和14年4月に肺炎で急逝し、その初七日にさっそく、古河にいた藤木氏の友人、茂野吉之介が戸板康二に遺稿集の編集を委託した。それが、一周忌に配付された『武蔵屋本考』という書物で、『回想の戦中戦後』では、《一周忌に間に合わせるために、藤木さんの遺稿集を作ることになり、ぼくが編集した。「武蔵屋本考」という本で、いまでも、神田でたまに見かける。もちろん非売品である。》というふうに、さらっと紹介されている。

戸板康二を読むようになって徐々に存在を知るようになった『武蔵屋本考』という書物、戸板康二の文章を通してのみ知っていたに過ぎなかった『武蔵屋本考』を、今年の7月にとうとう手に入れた。前月の6月には、内田誠著『遊魚集』(小山書店、昭和16年3月20日刊)を買っている。『遊魚集』は明治製菓宣伝部勤務時代の戸板康二が編集を担当した、直属の上司である内田誠の随筆集。

藤木秀吉の一周忌に合わせて刊行された『武蔵屋本考』は『遊魚集』のおおよそ一年前の昭和15年4月28日の発行、藤木秀吉が急逝したのは戸板さんが明治製菓に入社した直後のことで、遺稿集の刊行その一年後。藤木秀吉と交代するように、若き戸板さんは久保田万太郎や内田誠といった人物から薫陶を受けることとなり、学生時代、すなわち休暇を阪神間で過ごした時代から月日がたち、「スヰート」の編集に携わったり「いとう句会」に参加したりで、錚々たる文人との交流を持ち、山の手の子・戸板康二の教養が形成されてゆくことになる。そして、昭和19年、久保田万太郎に誘われ日本演劇社に入社、演劇人としての活動が始まってゆく。一連の戸板康二の歩みの根幹をたどってゆくと、藤木秀吉の存在の大きさが際立ってくる気がするのだ。



「藤木秀吉さんのこと」では《これは、ぼくにとって、ほんのわずかな恩返し》というふうに書いていて、『回想の戦中戦後』では「ぼくが編集した」とさらっと振り返っている、藤木秀吉の遺稿集『武蔵屋本考』だけれども、実際に目にすると、500ページ近くのなかなか立派な書物で、ページを繰ってみると、ことのほか昭和15年当時の、折口信夫の教室を出たばかりで久保田万太郎に出会ってまなしの頃の青年戸板康二の姿を鮮やかに感じることができた。冒頭に、故人の友人で戸板康二に編集を委託した人物、茂野吉之助らによる序文、「藤木君の遺稿を出版するに当たりて」という文章がある。
藤木君の趣味は書籍殊に古本、芝居、俳句である。晩年の武蔵屋本研究(本文「武蔵屋本考」参照)は古本と芝居との両趣味が交錯燃焼したものであって、若しも君の寿長かりせば此の種の研究は続いて行われたものと思うが、恐らく君と多年の交友の間にも、藤木君に斯かる趣味があり、其の造詣の浅からざりしを知る者は多くはあるまい。

君と最も親交ありし我等すら、君が趣味研究に関する三十余冊のノートに書き遺して居たことを知ったのは、君の没後のことに属する。昨年の5月3日初七日の夜に君の書斎で戸板康二君からそれ等のノートを見せられて初めて知ったのである。我等は其の数冊を繙いて、先ず君の古本に対する愛執の尋常一様ならざるを知った。更に武蔵屋本の研究に至っては、其の内容価値の如何は我等門外漢には判らぬが、入微穿細の態度は驚嘆の他はなかった。

我等は直ちに君の霊前に会して、遺稿出版のことを決し、編纂の事務を挙げて戸板君に一任することとした。戸板君は故人の若き書斎の友であり、故人の難解な原稿を苦もなく読み得る点に於て編纂の最適任者なのである。
藤木秀吉の「若き書斎の友」、24歳の戸板康二。戸板さんの文章でのみ知っていた藤木秀吉との交流のことを、第三者の文章で読むことができたという興奮を、『武蔵屋本考』の冒頭でさっそく味わうことができた。そして、戸板さんが編集した『武蔵屋本考 その他』は、「武蔵屋本」のみならず、芝居、古本、俳句を愛した藤木秀吉の趣味生活全般をカヴァーしていて、その趣味世界はわたしにとってもとても愛着のある世界だったりもする。青年戸板康二の姿を感じることができること、藤木氏との書斎での交わりに思いを馳せること、昭和10年代の東京で「行人」の号で毎日俳句をひねって、丸の内のビル街の埃、神保町の夕暮れといった東京の昭和十年代を感じたりもして、なんともいえない重層的読後感だった。

戸板康二を知ったばかりのころ、「日本の名随筆」の『芝居』を手にとって、若き戸板康二の書斎生活を知って、戸板康二にどんどん夢中になっていって、徐々に「藤木秀吉」という名前や『武蔵屋本考』の存在、戸板康二の阪神間時代のことが明らかになっていった。それは、言いかえると、「戸板康二道」的観点で、古本、芝居、俳句などに夢中になっていた年月でもあったわけで、そのえにしを思うと、わたしにとっても藤木秀吉という存在はとても大きいのだった。その遺稿集、『武蔵屋本考』は戸板康二の編集という魅惑のみならず、藤木秀吉の存在は心にきっちりと刻み付けておくという点でも嬉しい買い物だった。



藤木氏は上記の友人、茂野吉之助とともに、『ちょっといい話』(文春文庫、1982年8月)にも登場している。(参照:「ちょっといい話」人物索引本読みの快楽
 茂野吉之助(きちのすけ)さんは、古河系の実業家だったが、冬篝(とうこう)の号で、青木月斗(げっと)の俳誌「同人」の投句だった。
 毒舌家で、歯切れのいい人だった。
 友人の藤木秀吉(ひできち)さんの家が、六甲にあって、裏山で松茸がとれる。
 茂野さんを招いて、茸狩をすることになったが、すこし賑やかにしたほうがいいので、八百屋で買った松茸をところどころに立てておいた。
 ところが、藤木さんのお嬢さんが、それを手伝って、ついうっかり一本だけ、逆に置いてしまった。
 つまり、笠が下になり、軸が上を向いているわけで、そんな生え方をするキノコは、世界中にない。
 茂野さんは、めざとくそれを見つけて、藤木さんにいった。
 「お手植の松茸だな」
いいなア……。ところで、「藤木秀吉」は NDL の OPAC だと「ヒデヨシ」になっているけれども、『ちょっといい話』ではわざわざ「ひできち」とルビが振ってある。どちらが正しいのだろうか。

藤木秀吉についてのいくつかの事柄。(2004年3月改訂)
戸板康二による、藤木秀吉の登場する文章。(2004年5月改訂)

(21, Oct. 2003)



最後に、藤木秀吉遺稿集『武蔵屋本考』の書誌データを載せておきたい。グレーで囲まれてある部分がそれぞれの章の前書き。


武蔵屋本考 その他 藤木秀吉君遺稿

昭和15年4月28日発行

著者:藤木秀吉
編纂兼発行者:戸板康二

494ページ

【本文】

武蔵屋本考[p.1]

  • 武蔵屋本考(昭和12年11月21日稿)
  • 丸屋善七失踪届(「読書感興」昭和11年4月号所載)
  • 武蔵屋本のことども(「学鐙」昭和13年11月号所載)

明治廿二年東京神田の書肆武蔵屋が浄瑠璃本出版の大成を企て、明治廿九年に迄及んで挫折した。これが明治に於ける浄瑠璃本翻刻の先駆をなすものである。故人の古本蒐集癖は個々此の武蔵屋本に逢着し、捜索7年の久しきに亘って終に完本の喜びを得たが、其の間武蔵屋本に纏綿せる一切の事情を究明して、細緻極りなき研究を完成し、武蔵屋本考の一篇を脱稿した。此の研究は如何に故人が古本を愛着したかを最も如実に表明するものであり、装幀や印刷の微差をも苟くせずに検討した一章の如きは寧ろ驚嘆に値するものがある。故人としては恐らく此の一篇に推敲を加えた上発表する積りであったろうが、それを果さずして逝いた事が今更ながらも惜まれる。


芝居絵私考[p.201]
  • 芝居絵私考(「我観」大正13年4月号所載)

此の一篇は大正十三年雑誌我観の依頼に応じて執筆したもので、生れて初めて二百円に近い原稿料を受取って、故人は円らな眼を更に円くしたという由緒つきの遺稿である。故人の芝居絵研究は性来の芝居好きから出発したもので、舞台の型に憧れた余り、それを一層誇大した画面の見得に強く心を惹かれて、芝居絵を蒐集し研究したものであるから此の一篇は芝居絵其物の研究よりは寧ろ故人の好劇心の強い表れとして読んで戴き度い。


肉弾三勇士[p.237]
  • 三勇士蒐集の思出
  • 中場一等兵の奮戦
  • 急造破壊筒
  • 作江の最期
  • 鉄條鋏の携帯者
  • 作江の靴

昭和七年二月二十二日廟巷鎮にて壮烈無比の戦死を遂げた、肉弾三勇士の事蹟は、其の所属部隊が、故人の生地柳河に近き久留米工兵大隊なることが、さらでだに愛国の至情に溢るる故人の熱腸を刺激し、故人をして精巧なる事蹟検討を企てしめ、同時に常時坊間に現れた三勇士記念品の蒐集に奔らしめた。次の数篇は故人のノートから摘録したもので、いずれも故人の燃ゆるが如き赤誠と、徹底せる穿鑿心と、倦まざる蒐集癖とを三位合体せる遺稿と称すべきである。猶蒐集せる記念品は故人によって三勇士の原隊の構内にある記念館に寄附された。終りに此頃に就て元久留米工兵大隊長安部少将の査閲を煩わした事を附記したい。 


書斎漫筆[p.277]
  • 盛綱陣屋の正本
  • 古本の消毒
  • 錦絵の額
  • 書籍の愛慾
  • 内容見本
  • 松助物出版
  • 本棚を造るの記
  • 番号本の一面
  • 「歌舞伎」の合本
  • 古文旧書考
  • 神保町を歩きつつ
  • 東京堂月報
  • 兎屋本の黙阿弥物(「書物展望」昭和10年2月号所載)
  • 古本日記抄

故人の昭和十二年の日記に、神保町と題して、「この町を今日も歩いて天高し」という句がある。故人の私生活は書斎と古本街神保町の往復であったとも云い得る。従って古本に関する雑筆のみで充されたノートは数冊に達しているが、其中の幾篇かを次に編録して。故人の書籍に対する限りなき愛着を伝えることにした。最後の古本日記の如きは、古本愛執病患者とも称すべき故人の情懐を叙せる興趣ある一篇であるが、遺憾ながら其一部を抄録するに止めた。


雑纂[p.339]
  • 俳諧花釣枝(「俳句雑誌同人」大正12年6月号所載)
  • 俳諧江戸紫(「俳句雑誌同人」大正13年1月号所載)
  • 小劇四篇(「俳句雑誌同人」大正14年3月号所載)
  • 子規の短冊
  • 印度行抄(未定稿)
  • 花日記
  • あの頃この頃(「潮」第14・1・17・19号所載)
  • 屋台囃子の歴史

句日記[p.451]

故人の俳句は中学時代に発芽し、西瓜と号して独自の句道を歩み続け、大正十一年に号を行人と改め、其の風骨に似合わしからざる軽妙洒脱の調を以て句生涯を貫いた。従って遺吟の讃すべきものも頗る多いが、ここには代表作を選択する常型を排して、昭和十三年十四年の句日記を採録する事とした。小型の常用日記に書きつけられた一日一句は昭和四年以降一回の脱漏もなく没年迄続いている。固より触日触耳即興の作であるから、これを発表する事は泉下の行人の憤りに値うことと心得てはいるが、我等は句の巧拙を論ぜずにこの日記によって、故人の真摯なる句生涯を讃仰すべきだと考える。

  • 昭和十三年
  • 昭和十四年

行人の句日記は三月十七日を以て了って居る。それから最後の病床に就くまでの約二十日間石炭連合会への出勤は断続的ながら病苦を押して続けられた。而して四月六日臥床したが、十五日の作句「枕辺を退き去りし春日哉」が讖をなしたか、回生の春光は再び行人の枕辺を訪れず、同月廿八日に逝いたのである。




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