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* 以下は、「戸板康二ダイジェスト」開設時(2002年8月6日)の挨拶文のようなもの。

戸板康二のプロフィールについては、以下の矢野誠一さんによる文章が、間然するところなく伝えている。1986年発行の『現代日本人物事典』に執筆されたもので、没年月日だけつけ加えたのが、以下の文章。

戸 板 康 二 と い た や す じ

1915・12・14〜1993・01・23 作家・エッセイスト・演劇評論家。東京芝の生れ。昭和13年慶應義塾大学国文学科卒。昭和35年、『團十郎切腹事件』で第42回直木賞受賞。
年少の頃より親しんでいた歌舞伎の研究と批評活動がその仕事になったきっかけは、慶大在学中に学友池田弥三郎のすすめで、折口信夫の日本芸能史の講義をきいたことにある。卒業後、一時教職についたり、明治製菓宣伝部に勤務するなどしたが、昭和19年、久保田万太郎のすすめで日本演劇社に入社、のちに「日本演劇」の編集長をつとめる。25年に同社を退いて、フリーの演劇評論家としていたこの人に、推理小説を書くことをすすめたのは江戸川乱歩だが、そのすすめにしたがって書いた『團十郎切腹事件』が直木賞を受賞して、小説家としても一家をなすに至る。こう見てくると、戸板康二というひとの、たぐいまれなる才能が多彩に発揮されるきっかけには、いつも格好な、それも一流の人物との出会いがあったように思う。そうした出会いをごく自然に生じさせるような徳と人柄が、天性このひとには備わっているのだ。演劇評論においては、簡明平易な文体で、従来の閉鎖的な芝居通による能書から解放し、古典芸能のみならず、新劇、宝塚にも造型がふかい。演劇評論、推理小説に加えて、ベストセラーとなった『ちょっといい話』など、その著書は150冊に及ぼうとしているが、東京山の手育ちならではの、都会的エスプリに充ちた達意の文章が身上である。(文:矢野誠一)

【出典:旺文社『現代日本人物事典』1986年発行】



わたしがはじめて戸板康二の書物を読んだのは『歌舞伎ダイジェスト』と『歌舞伎への招待』、この2冊を機に昭和20年代の歌舞伎本を次々に読みあさり、とりわけその文章にスーッと憧れるようにして戸板康二の書物に入っていった。1999年夏のことである。まずは、テクストの快楽だった。

その後、文春文庫の人物誌、旺文社文庫のエッセイ集を読み、ますます戸板康二に夢中になった。戸板康二の肩書きを挙げようとすると、歌舞伎批評、演劇評論家、随筆家、推理小説……などなど幅広いけれども、一言で言ってしまえば、希代の文人、名文章家、これに尽きる。その著作を読めば、いつだって本読みの歓び。その本読みの歓びにとにかく夢中だった。

戸板康二の特徴は、170冊にも及ぶ膨大な著書の数。古本屋に行く度に棚に戸板康二の文字を見つけて、わりかし買いやすい値段でもあるのでひょいと購入、帰りにはお気に入りの喫茶店で、おいしいコーヒーを飲みながら、一気に読みふけってしまうのが常だった。そして、滋味あふれるのは戸板康二の本すべてに当てはまること、好きな音楽を聴きながらとかお茶を飲みながら、部屋のソファでも何度も読みふけり、読むたびごとに新しい気持ちになる。そんな感じに、散歩、古本屋、珈琲といった植草甚一気分でもって、わたしの部屋の本棚に戸板康二の本がどんどん増えていって、戸板コーナーを形成するに至った。戸板コーナーはどんどん増殖していった。

さらに、戸板康二の文章を通して、本読みの歓びの大増殖、という事態を迎えることにもなった。戸板康二の文章がきっかけで、新たに興味津々になった書き手のなんと多いこと(九九九会の面々がその筆頭)。それから、戸板康二を機に、新たに興味津々になった事項のなんと多いこと(そもそも歌舞伎がそうだ)。そんなこんなで、戸板康二の文章を読んで抱いた新たな興味が別の書物へとつながっていったり、戸板康二の関連人物の本を新たに読むことで、別の興味が生じたりする、その興味が連結して出来上がる有機体を「戸板康二道」と称し、一人で勝手に悦に入った。そのまま、戸板康二道まっしぐらとなり、現在にいたっている。戸板康二を中心に、戸板康二を索引にして、生活の設計をしている、とまで言えそうなくらいに。

そんなこんなで、戸板康二の本を読むようになって早3年、「戸板康二ダイジェスト」がオープンの2002年8月なのです。

(August, 2002)


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