The top of the tree
その日は朝から雨がふっていた。
午後になって雨はあがったものの、大気はまだ重く水を含んでいる。だが、空は幾分明るくなったようで、雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせ、薄日が幾筋もの光の線となって地上を照らし出していた。
「嫌な空気だな、オイ」
身体にまとわりつくような湿った空気に眉を寄せながら、シードが誰に云うでもなく呟いた。
シードの隣を歩くクルガンは、彼の呟きが自分に向けられたものではないコトがわかっているので何も云わない。
棟と棟の間を繋ぐ渡り廊下。
ジョウイや軍師達を交えた大がかりな軍議を終えて、シードとクルガンはそれぞれに陰鬱な思いを抱えて歩いていた。
戦況が思わしくないのである。そんなことは会議に参加する前からわかりきっていたことなのだが、それでもああして目の前に突きつけられるように云われるとやりきれない思いが胸にたちこめる。
事はジョウイや自分達の思惑通りに進んでいるのだが、そうして進んでいった先に何が待っているのかがわかっているだけに、どんどん気分が後退してゆく。頭は理解していても、気持が理解してくれないのだ。
これでいいと、ジョウイの決めたことに従うと。そう決めてはいても。
シードは苛ただしげに長めの前髪を掻き上げると、懐に手を突っ込んだ。煙草の袋を探すべく、ごそごそと上着の内ポケットの中で手を動かしている。よほどイライラしているのだろう、クルガンと一緒なのに城内でくわえ煙草をするつもりらしい。
指先に袋の感触を感じてそれを引っぱり出そうとするが、どこかで引っかかっているらしくすんなり出てこない。シードは軽く舌打ちすると、開いている方の手で上着の合わせを少し持ち上げて中をのぞき込んだ。
と、その時。
上着をのぞき込むために傾けていた頭が、何か骨張ったような固いモノにぶつかった。たいして痛くは無かったのだが、廊下のど真ん中で何かにぶつかるとは思ってもいなかったのでシードは怪訝な表情で顔を上げた。
「って、おめぇ何廊下のど真ん中で立ちどまってんだよ!危ねーだろーが!」
自分がよそ見していたのが一番悪いのだが、それは棚上げのようである。
骨張って感じられたのも当たり前で、ぶつかったのはクルガンの背中だった。シードの少し前を歩いていたはずなのだが、立ち止まって城壁の側に植えられている立木の方を見ている。
クルガンはシードの文句が聞こえていたのかいないのか、黙って自分の見ていた方向へ顎をしゃくった。
「あん?何かおもしれーモンでもあんのか?」
面白くなさそうに云って、シードはクルガンの視線の方向へと目を向けた。
そこにあったのは、何の変哲もない木。だが、その木のしたで小さな女の子が一生懸命上に向かって飛び跳ねていた。手をいっぱいに伸ばして上に飛び跳ねてはいるのだが、身長が小さいので一番下にある枝にも遠くおよばない。
朝方の雨で地面がぬかるんでるいるのだろう、女の子が跳ねるたびに泥も一緒に跳ねている。
足下が泥で汚れるのもかまわず泣きそうな表情で飛び跳ねている女の子に、シードは小首を傾げた。
「あんなコトしておもしれーのかな?」
面白いわけがない。どうやら本気で云っているらしいシードに、クルガンはため息を吐いた。次いで手に持っていたファイルで彼の後頭部をパカンと叩く。
「……馬鹿かお前は。木の上だ、枝に何か引っかかっているだろう」
「だーから、すぐ叩くなっちゅーの。なに、上?」
云われて上を見上げれば、確かに枝に何か引っかかっている。ハンカチだろうか。多少距離がある上に、この位置からでは影がかかって見えづらい。
「あー。アレが取りたいワケね」
よほど大事なモノなのだろう。いくら年端のいかない子供でも、自分の身長では絶対にとどかないことはわかっているはずだ。それでも諦めきれずに手を伸ばすほどに。
「シード、行ってやれ」
クルガンが短く云った。その言葉にシードは眉を寄せる。
「何で自分で行かねーんだよ?」
彼の名誉のために一応云っておくと、シードは別に行きたくないわけではない。最初に見つけたくせに何故自分で行かないのかと、ただ単純に疑問に思っただけである。
シードの問いかけに、クルガンは器用に片眉だけあげて答えた。
「……俺が行くと怖がるからだ」
確かにクルガンは小さい子供に好かれるタイプではない。ほとんど変わらない表情もそうなのだが、彼の持つ独特の雰囲気も近寄りがたい原因の一つだろう。大人でも進んでクルガンとおつき合いする人間はあまりいないのだから、子供ならばなおさらだ。
それに加えて、実はジョウイに彼女を紹介されたときに逃げられているのだ。クルガン以外の人間に対してもそうだったのだが、クルガンの時は泣きそうにもなっていたらしい。
それを思い出したのか、シードは笑って脇に挟んでいたファイルを彼に渡した。
「んじゃ、お手伝いしてきますかね」
云いながら渡り廊下の手摺りに手をかけて飛び越えると、大股に木に向かって駆けて行った。女の子はハンカチのコトしか目に入いっていないのか、かなり近くまで寄ってもシードには気がつかないようである。
木の近くまできて改めて上を見上げてみると、ハンカチは微妙な位置に引っかかっていた。木を上って取るほど高い位置ではないのだが、手を伸ばしてとどくかどうかはかなり微妙だ。
シードは木の上を見ながら、指先で顎の下を掻いた。コレは一体どうしたものか。
少し考えて、シードはその場にしゃがみ込んだ。そうして、女の子の名を呼ぶ。
「えーと。ピリカちゃん?」
いきなり声をかけられて、ピリカは目に見えるほどにビクッと身体を震わせた。それから、恐る恐るといった様子で自分の背後にいる声の主に身体を向ける。
ぬかった地面に足を取られて転んだのか、自分の方を向いたピリカの洋服は泥だらけだ。泥のついた手で顔を擦ったのか、頬にも乾いた泥がこびりついている。見かねてシードは頬についた泥を拭ってやろうと、ピリカの顔に手を伸ばした。その手に、ピリカはまたしても身を竦ませる。
ピリカが怯えているのがわかるので、シードはできるだけ穏やかにゆっくりと言葉を紡いだ。
「あのハンカチ、取りてーんだよな?」
シードの言葉に、ピリカは枝に引っかかったハンカチを見る。ハンカチとシードの顔とを何往復か視線を巡らせて、それからようやく小さく頷いた。
その仕草が思いのほか可愛らしくて、シードはニカッと笑うとピリカの髪をわしわしとかき回した。
「おしっ!おにーちゃんが取ってやるからな」
シードは立ち上がると、今一度目の前の木を仰いだ。こうして間近で見てみても、やはり微妙にとどきそうにない。だがやるだけやってみるにこしたことはない。シードは手を高く挙げると先程のピリカのように上に垂直にジャンプした。
指先が枝先の葉にかすって、音をたてて葉が揺れる。しかし、やはりと云うべきか指先がかするだけでハンカチにはとどかない。そのハンカチが枝の先の方にかかっているならばともかく、枝と枝の間…なんでこんなところに引っかかったのだろう?と思うような場所にあるため取りづらいことこの上ないのだ。
木を仰いでシードは低くうなった。もうこうなったら、木を登るしか方法が無いようである。
「………しゃーねぇ。登るか」
呟いて、シードは上着の袖をまくり上げた。両袖をまくり、さて登ろうかと木に手をかけて。
ふと何か思いついたらしく、ピリカの方を見た。視線を下げると、シードを心配そうに見ていたピリカと目が合う。シードはピリカに向かって笑いかけると、彼女の目の高さに合うように再びしゃがみ込んだ。
そうして、ピリカに問いかける。
「なぁ。ピリカちゃん、高いトコ怖いか?」
「……たかい……トコ…?…」
シードがいきなり何を云いだしたのかわからなくて、ピリカは目を瞬かせた。そんな彼女に、シードは繰り返しきく。
「そう。怖いか?」
少し考えて、ピリカは小さく首を横に振った。
「いよっし!ほんじゃ…」
云うが早いが、シードはピリカの背後に回ると両手をピリカの両脇の下に入れて、そのままぐっと持ち上げた。心持ち首を下げて、自分の両肩にピリカの足をかける。ようするに、肩車というやつだ。転んだせいでピリカの足元といい洋服といい泥だらけなのだが、そこらへんは全然気にならないらしい。
「だいじょーぶか?立ち上がるぞ」
上目遣いにピリカの様子をうかがいながら、シードは彼女の身体を少し左右にずらして肩の上で安定させる。ピリカがきゅっとシードの頭に手を回したのを合図に、彼女の泥だらけの足首をしっかり掴んでシードは立ち上がった。
それからちょうどハンカチの真下にくるように移動して、シードはピリカを促した。
「とどきそーか?」
ピリカは左手をシードの頭の上に置いて、心持ち身を乗り出して右手をハンカチに伸ばす。彼女の手が枝先の葉に触れるたびに、先程まで振っていた雨の名残の水滴がぱらぱらとシードの頭上にこぼれ落ちた。もちろんシードにかかっているということは、ピリカにもかかっているということなのだが、彼女にはそんなことを気にしている余裕はないようである。
ギリギリいっぱいまで手を伸ばし、シードの肩から少しばかり身体を浮かせて身を乗り出して。ピリカの小さな手が、枝と枝の隙間をくぐり抜けてハンカチに触れた。
「…………とどいたっ…」
手に触れたハンカチの感触が嬉しかったのか、ピリカが可愛らしく声をあげた。
「引っ張って取るなよ?無理矢理引いたらやぶけちまうからな?」
その言葉に一瞬手を止めて。今度は手を伸ばしたときよりも慎重にゆっくりゆっくり、ハンカチを握った手を手前に引いた。微かに葉擦れの音をたてて、真っ白なハンカチが枝の間を抜けた。
自分の手に戻ってきたハンカチをピリカは両手で硬く握りしめて、小さな小さな声で呟いた。
「……………ナナミお姉ちゃん……」
ナナミお姉ちゃん。どこかで聴いたことのあるその名前を思いだそうとして、シードは眉を寄せた。思い出して、シードはなるほど…と苦笑する。同盟軍のリーダーの姉、ジョウイの幼なじみの少女の名だ。
見えない何かにに流されるようにして敵と味方へと立場別れた彼女達とジョウイ。ジョウイについてこの城に来ることを選んだからといって、父と母を亡くしてからややしばらく一緒にいた彼女達のコトを忘れられるわけがない。
このハンカチは、彼女にもらった物なのだろう。ハンカチを必死になって木から取ろうとしていた理由がわかって、シードはピリカにわからないようにため息を吐いた。
「……………」
シードは何か云おうとして、やめる。そして言葉のかわりに、自分の両肩の上の小さな身体を片手で優しく揺すった。薄い衣服越しにシードの手の温もりを感じて、ピリカは泣き笑いのような表情を浮かべた。
「城ん中入ろーぜ。身体冷えちまってる」
どのくらいああしてとどかない木に向かって手を伸ばしていたのか、肩に担ぎ上げた時からピリカの身体はすっかり冷たくなっていた。いくら雨は上がっているとはいっても、ピリカが着ている薄手のワンピース一枚では寒いに決まっている。
ピリカを肩にのせたまま渡り廊下の方に向かって足を踏み出した、その時。ピリカがシードの髪の毛を引いた。
「あ?どーした?まだ何かあんのか?」
歩きかけた足を止めて、シードがピリカに問いかける。
ピリカはふるふると頭を横に振って、
「……ありがとう……おじちゃん」
鈴の鳴るような声でシードに礼を云った………のは良かったのだが。
「………おじ…ちゃん…?」
おじちゃん。
おじちゃん、である。
シードは口の端に引きつったような笑みを浮かべて、ピリカの言葉を訂正した。
「『ありがとう、シードおにいちゃん』。シードおにいちゃん、だろ?な?」
『おにいちゃん』の部分に過剰なアクセントをつけて、噛んで含めるように云う。が、それに対してピリカは変な顔をして首を横に傾けた。
「…………シードおじちゃん…?」
「だから『お兄ちゃん』」
「シードおじちゃん」
「シード『お兄ちゃん』」
おじちゃんでもお兄ちゃんでもどちらでもよさそうなものだが、どうしてもそこら辺は拘っておきたいところのようである。繰り返される会話にピリカは困ったようにシードの髪の毛をかき回す。
「……ジョウイお兄ちゃん…」
確認するように口に出された名前に、シードは「……そうくるかい」と眉を寄せた。確かに、ピリカから見てジョウイがお兄ちゃんならシードは立派なおじちゃんである。
それでも。それでも、花の26歳。まだもう少し『お兄ちゃん』でいたいお年頃だ。
その場でちょっと考えて、妥協案を見つけたらしくシードはちょっと頭を上向きにして云った。
「おし!『シードちゃん』!これでどーだ!?」
……………どうしても『おじちゃん』とは呼ばれたくないらしい。シードの涙ぐましい譲歩に同情したのかどうか、ピリカは「……シードちゃん」と口の中で試すように呟く。それから、にっこりと笑った。
「ありがとう、シードちゃん」
「いよっし!それじゃ行くか!」
シードの頭に手をのせ顔をのぞき込むようにして自分に笑いかけるピリカに、ニカッと笑って今度こそ廊下に向かって歩き出した。 歩きながら渡り廊下に目をやるとクルガンが両手を胸の辺りで組んだ格好で、こちらの方を見ていた。結構時間がかかってしまったのでもういないかと思っていたのだが、どうやら待っていてくれたらしい。
笑顔でなにやら言葉をかわしながら近づいてくる二人の姿を見て、クルガンは眉間にしわを寄せた。
「何て格好をしているんだ、お前達は」
呆れたように云われて、シードは自分の上着に視線を落とした。
泥だらけのピリカを肩車したせいで、シードの上着もまた泥だらけになってしまっていた。もちろん、手もしかり。頭もピリカの手についていた泥で汚れているし、まるで知らない人が見たら子供と二人泥遊びでもしたかの風貌である。
「あー、何か転んだみてーよ?雨のせいで木の根本、ぬかってたんだなコレが」
「……さっさと戻って、風呂に入れ」
「云われなくてもそーするつーの」
が、ピリカを肩にのせたままでは手摺りをこえるのは難しい。クルガンにピリカを受け取って貰おうとして、シードはピリカが怯えていることに気がついた。ピリカの表情は見えないが、必要以上の力を込めて自分の頭にしがみついているのがその証拠だ。ついでに云うと、ピリカが自分に怯えているコトに気がついているクルガンは苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。
「そーいう顔すっから怖がられるんだって。……あーそのな、大丈夫だから。このおっさんな、ちょーっと顔こえーし、すぐ説教するし、男のくせにやたらと細けーこというし……」
「いい加減にしろ、シード」
まだ続けようとしたシードの言葉をクルガンの低い声が遮った。ちなみに云うまでもないが、シードの台詞の前半はクルガンに、後半部分はピリカに向けられたものである。
クルガンは何も云わず、ピリカに向かって両手を差し出した。子供を相手にするときくらい笑ってやればいいのに、とシードは思ったが口には出さない。
「シードちゃん……」
ピリカが不安そうにシードを呼ぶ。「大丈夫だ」と口にするかわりに、シードはぽんぽんとピリカの腰の辺りを叩いた。
シードのつむじを見て、クルガンの顔を見て。もう一度シードのつむじを見て、ようやく思い切ったようにピリカはクルガンに向かって手を伸ばした。
伸ばされた手の下に自分の両手を差し入れシードの肩からピリカを抱き上げると、自分の足元にそっと下ろしてやった。
廊下に足をつけて、ピリカはクルガンの上着の裾をくいっと引いた。
「……ありがとう。おじちゃん」
どこかで聞いたような台詞に、手摺りを乗り越えていたシードはぷっと吹き出す。
おじちゃん、と云われてクルガンは複雑な表情でシードを見た。ピリカから見て自分が「おじちゃん」なのは仕方がないコトなのだが。……どうして。
「……どうしてお前が『シードちゃん』で俺が『おじちゃん』なんだ」
もっともな問いにシードは口の端を引き上げてニヤリと笑って、
「そりゃー、おめぇ。俺の方が若いからに決まってんだろーが」
云うとピリカを小脇に抱えて、風呂のある棟へ向かって走り出した。
残されたクルガンは二人分のファイルを手に彼らの後を追いながら、結構真剣に考える。
………自分とシードの間にある三つの歳の差について。