雨と煙草とアイツとキスと
「…………つまらん終わり方だ」
おもしろくなさそうに呟いて、クルガンは手にしていた本を閉じた。
知人におもしろいと進められたので読んではみたが、云われていたほどおもしろかったとは思えない本だった。確かに序盤から中盤にかけて引き込まれる所はあったが、いかんせん肝心要の終盤がいただけなかった。
だがいくらおもしろくなかったとはいえ、感想を求められたらそれなりに答えなければなるまい。まさか知人に向かって「こんな面白くない本は初めてだ」とも云うわけにはいかないだろう。……相手がシードならば遠慮会釈もなく云うが。
なんと答えようかと考えながら視線を壁に掛けられた時計に向けると、もういい時間だった。途中で何度か寝ようかとは思ったのだが、明日は非番だしおもしろいと思えないような本を途中でやめてしまったら、また読む気になどならないのは考えるまでもない。
しかし、考えれば考えるほど面白くない本だった。一度面白くないと思ってしまった本はどう考えても面白くないわけで。知人に訊かれたら「おもしろかった」と言葉少なに答えるしかないだろう。
そろそろ寝ようかと立ち上がって、クルガンは何気なく窓の方に目を向ける。
雨が降っていた。
本を読み始めた時はまだ降り出してはいなかったのだが、どうやら読んでいる間に降り出したようだ。結構激しく降っているようで、窓にあたる雨粒が微かに音をたてている。
明日は一日雨だろうか。そんなことを考えながら、クルガンはカーテンを閉めて就寝しようと窓に向かって歩き出した。
その時である。
ドンドンと遠慮のない大きな音をたてて、ドアが叩かれた。
こんな時間に誰だ……と一瞬思うが、こんな時間に前触れも遠慮もなくドアを叩く人間には一人しか心当たりがない。
クルガンは諦めたように溜め息を付くと内鍵を開けてドアを開いた。
「あ、やっぱりまだ起きてたか。窓から明かりが漏れてたから起きてんじゃねぇかとは思ったんだけど。タオル貸してくれよ、タオル」
たまたまカーテンを閉め忘れていた時にかぎってこれである。本に夢中になっていた自分が悪いのだが、この間の悪さはなんだというのか。
「なんでわざわざ俺の所に来るんだ?自分の部屋に帰った方が早いだろう」
聞こえよがしに深い溜め息を付いて、クルガンは濡れネズミのシードにタオルを手渡すべく隣の寝室に行った。もちろん、シードに「そこから動くな」と忘れずに釘をさして。
「んー?いや、オレ南門から帰ってきたからこっちのが近かったんだよ。それに自分の部屋に帰っても寒いじゃん」
云いながらシードは口にくわえたタバコに火をつけようと、懐から取り出したマッチを擦った。が、衣服から水か滴り落ちるくらいに濡れているのである。当然、懐に入っていたマッチも濡れていて、いくら擦ってもカシュカシュと間の抜けた音を立てるだけで火はつかない。
「ああ……もう…なんでつかねぇかなぁ」
何でも何も考えればわかりそうなものだが。マッチという物は濡れていては火がつかないというのは、充分に一般常識の範疇内である。シードは苛ただしげに手にしていたマッチをポケットにしまうと、箱から別のマッチを取り出した。だが、箱自体が濡れてビショビショなのだから新しいのを出した所で無駄だ。
「何をしているんだお前は……」
いつの間に戻ってきたのか。呆れかえったような声と共に、シードの頭にやや乱暴にタオルがかぶせられる。
「いや、火がな」
つかないんだな、これが。と続けながら、シードは半ば意地になったように二本目のマッチと戦っている。クルガンだけではなく、誰の目から見ても火がつかないのは明らかだというのに。
「そんなに濡れていては火がつかなくて当たり前だ。……タバコも濡れているぞ」
クルガンは左手でシードの頭を拭きながら、右手で彼がくわえているタバコを奪ってしまった。シードが「あっ」と声をあげるが、お構いなしにクルガンはそれを自分のシャツのポケットに入れてしまった。
「何すんだよ」
「どうせ濡れていて吸えんだろうが。後で俺が捨てておいてやる」
何か云いたそうな目でシードが自分を睨んでいるのをそのままに、クルガンは右手も添えて両の手でわしわしと乱暴に頭を拭きはじめる。その乱暴な拭き方に、シードが抗議の声を上げた。
「痛てぇってば。自分で拭くからもういいよ」
「うるさい。いいから黙って拭かれてろ」
抗議の声をまたも一括されて、シードはちっと舌打ちした。別に頭を拭いて貰おうと思ってここに来たわけではない。ただ単純に火の気のない自分の部屋には帰りたくなかっただけなのだ。帰ってすぐに暖炉に火を入れたところで部屋が暖まるまでには時間がかかる。火の気のない寒い部屋にこんな格好でいては風邪をひいてしまう。さっさと着替えてベッドにでも潜り込めばいいのだが、そういう考えは思い浮かばなかったようである。
普段はむすっとしてシードが何を云おうとかまってくれないくせに、こういう時だけ親切にされてもなんとなく居心地が悪い。
シードはよほど手持ちぶさただったのか、懐に手を入れたかと思うと濡れていい感じに湿っているタバコの箱から一本タバコを抜いて、性懲りもなくまたタバコを口にくわえた。
が、それも間髪入れずにクルガンに取り上げられる。
「無駄な事はやめろと云っているんだ」
「ほっとけよ」
「大体お前、中毒でもなんでもないだろうが。口寂しさと格好つけで吸ってるだけなんだから、これを機会にいっそのこと吸うのをやめたらどうだ?」
何気に図星をさされてシードはぐっと言葉に詰まった。上目遣いにクルガンを睨み付けるが、睨まれたクルガンはまったく意に介していないようである。
その態度がまたシードを苛つかせるのだが、わかっていてこういう態度を取っているのだからどうしようもない。
シードは「おもしろくねぇ」という単語を顔に張り付けて意地になって今度はタバコの箱ごと懐から取り出した。どうせそれも取り上げられるのだから、無駄なことをしなければいいのだが……。
これ以上云っても時間の無駄だと思ったのか、クルガンは最初それを黙って見ていた。大体シードがいくらがんばったところで火がつかないのだから吸えるはずがないのだ。
と、思っていたのだが。が、濡れてから時間が経過しているため取り出しにくくなっている箱からタバコを出そうとごそごそと動くため、頭が拭きづらいことこの上ない。
それでもしばらくは無視して頭を拭いていたのだが、ついにぷつんと切れたらしい。
「大人しく頭を拭かせろ!風邪を引くぞ!」
「だーっ。もう、うるせぇって云ってるだろ!!おめぇはオレの保護者か!」
当たらずとも遠からずと云ったところだろうか。なかなか鋭いところをつく。
「いいからよこせ。どうせ濡れてて吸えないとさっきから云ってるだろうが」
「んなもん吸ってみなきゃわかんねぇだろっ」
だから吸わなくてもわかるというのに。眉を寄せて呟いて、クルガンはシードからタバコの箱を取り上げようと頭を拭く手を止めた。タオルをシードの頭に残したまま、彼の手に握られている箱に手を伸ばすが、そこで大人しく渡してくれるはずがない。
伸ばされたクルガンの手をさっとかわして、シードはそれを懐にしまってしまうとクルガンに向かってふふんと小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。その何とも可愛くない仕草に、クルガンはムッとしてシードの懐に手を突っ込んだ。
「って、なにすんだよっ。よせって!」
さすがにそこまでするとは思っていなかったらしい。慌ててシードが身を引こうとするが、クルガンの動作のほうが一瞬速かった。
シードは往生際悪く、クルガンがタバコを手にする前に彼を引き剥がそうとして身をよじった……その動作が悪かったらしい。シードは自分の衣服から滴り落ちて床に溜まっていた水に足を取られて、ずるっと滑ってしまう。
「……………っっっ!!!」
何とかその場に踏み止まろうとするが、元々やたらと綺麗に床が磨き上げられているせいで、どうにも足場が悪い。踏みとどまろうと掴んだクルガンを道連れにシードはその場に背中から倒れ込んだ。
倒れる瞬間、クルガンがとっさに自分の腕を入れて頭だけは庇ってくれたので、打たなくてもすんだが、背中と尻はこれでもかというくらいに打ったらしく苦痛に顔を顰めている。
「大丈夫か?」
「……だいじょうぶ…」
「には見えないな。こんな足場の悪いところで暴れるからだ」
足場が悪いって部屋の中だろうがっ!と怒鳴りたかったが、打ったところが痛くてそれどころではない。
シードの眦にうっすらと浮いた涙を指でぬぐって、クルガンは渋い顔で訊いた。
「何だってそんなにタバコにこだわるんだ?本当にたいして好きではないんだろう?」
問われて、シードは困ったように眉を寄せた。
その通りである。別にどうしても今吸わなければ駄目だ…というほど好きではない。タオルを待っている間手持ちぶさただったのと、何となく口寂しかったから吸おうかなと思っただけで。
シードの表情だけで彼の考えていることを理解したのか、クルガンは嘆息した。
その態度にシードはまたムッとする。
「うるせぇよっ!」
噛みつくように云って、ふいっと横を向いてしまった。
「……シード。それが考え無しの誰かさんのおかげで一緒に床に転がっている俺に取る態度か?」
ぐっとシードが言葉に詰まった。それを云われては何も云い返せない。タバコに関することは別として、さすがに一緒に床に転がしたことについてはシードも悪いと思っているのである。……頭も庇って貰ったし。
「シード」
もう一度、短く名前を呼ばれる。
大体なんで床に転がる羽目になったのか。
シードは何も聞こえませんとばかりに横を向いたままで、そんなことを考えた。
あれだ。最初の一本に火がつかなかったのが悪いのだ。最初の一本にあっさりと火がついていればクルガンと云い合いをすることもなく、ひいては床に転がる事もなかったはずである。………なんとも勝手な言い分だが、シードは自分の考えに納得したのかうんうんと首を縦に振っている。
だが一人で納得されても困るのである。クルガンは辛抱強く何度か繰り返し名前を呼んだが、シードは完全無視の構えでクルガンの方を向こうとしない。
「シード、いいかげんにしろ」
短く云って、クルガンはシードの顎に指をかけると強引に上向かせた。
シードの顔を自分の方に固定したままで、上からじっと見つめた。
目は口ほどに物を云う。その言葉はこの男の為にあるのではないかと思ってしまうほど、クルガンの目は雄弁に怒りを語っていた。
本気で怒っているわけではないのだろうが、このままシードが黙っていたらいつ彼の怒りが本気に切り替わるかわかったものではない。おりしもこの体勢である。シードにとっては大変都合の悪いことに、このまま『いけないこと』になだれ込むにはとてもいい体勢だ。本気で怒っている時の彼のしつこさを身をもって体験済みのシードは、そのことをよーく知っていた。
「シード」
どうやって切り抜けようかとシードが考える間もなくクルガンがこれが最後だと云わんばかりの目をしてシードを呼んだ。
あぁもう、まただ。と、シードは思った。
いつもそうだ。いつも自分はクルガンのこの目に負けるのだ。体力や体格で劣っているとは思わない。だが、自分が決してクルガンに勝てないのは彼のこの目のせいなのだ。
自分の負けを認めて、シードはやけになって大声で云った。
「さっき……おめぇの云ったとおりだよ!」
「云ったとおり?」
「…………………口寂しかったんだよ!納得したらどけよっ!」
自分で引っ張っておいてどけよとはよく云ったものである。だがクルガンはそれに関しては気にならなかったらしい。
「よくできました」
そう呟いてニヤリと笑うと、そのまま顔を下に落としていく。シードの唇に自分の唇を重ねて、クルガンは貪るようにキスをした。
「んっ………!!」
突然の激しいキスに、シードはついていけない。苦しげに両手で彼のシャツを引っ張るがクルガンはまったく気にせずにキスを続けた。
「クルガ…ッ…」
抗議の声をあげようとするが、それも強引な唇によってかき消される。
どのくらいそうしてキスしていただろうか。時間にすればとても短い間でしかないのだが、シードにとってはひどく長い間だったように感じられた。
シードは口唇を犯す男の舌から逃れて、大きく息を吸い込んだ。そのタイミングを見計らったようにクルガンはシードの濡れた上着に手をかけて、現れた素肌に唇を落とした。シードがびくんと仰け反る。その過剰な反応に、クルガンがクツクツと笑った。
「何しやがるっ!」
訊かなくてもわかっているが、とりあえずシードはそう叫ぶように云ってクルガンの頭を両の手で自分の首筋から引き剥がした。
「わからないか?」
わかるけどわかりたくない。そう云いそうになったが、云ってもクルガンを喜ばせるだけだとわかっているのでシードは黙ってクルガンを睨み付ける。だが睨み付ける目元が赤く染まって情欲に潤んでいては迫力もなにもあったものではない。
「わからないなら教えてやろう。お前が口寂しいというから、口をふさいでやったまでだ。なんだ、俺では不満だったか?」
確かに濡れて火のつかないタバコよりかはましかも知れないが。
「じゃあもう用は済んだだろっ。どけよっ」
「いやいや。タバコも濡れて箱ごと駄目になったことだし、もう少し遊んでやろう」
器用に片頬だけ上げて笑うクルガンに向かって、シードは必死に首を振る。どうやらあの時点ですでに本気で怒っていたようだ。口調はいつも通りだが自分を押さえつける彼の力と目が真剣だ。
「えっ、遠慮しとく!オレが悪かった!変な意地をはったオレが悪かったから!」
「遠慮などお前らしくもない。……お前のおかげで俺も濡れた服を脱がなきゃならなくなったことだし、遊んでやる」
「遊んでいらねぇって」
「まぁそう云うな。遊んでやる、お前が『口寂しい』なんて云えないくらいにな」
もうこうなっては駄目である。シードが何を云ったところでクルガンはやめはしないだろう。こうなってしまったら、もうこれ以上何を云っても無駄だということをシードはよく知っていた。今更ながらに自分の考え無しの行動が恨めしい。
でもまぁ、やりたくないわけではないし。自分の部屋で寒さに震えながら独り寝するよりはましか……と極めて前向きに考えるとシードは諦めたようにクルガンの頭を押さえていた手から力を抜いた。
それに少し気をよくして、クルガンがシードの耳元で何事か囁いた。
シードの目元が真っ赤に染まる。
「ばぁーか」
笑いながらそう云って、シードはクルガンの首に手を回した。
END
って、ここで終わったら怒りますよねぇ…。
続き、読みたいですか?(笑)