Under the rein
泣き声が、聞こえる。
正確に言うと、窓ガラスを激しく打つ雨音がそう聞こえるだけなのだが、マイクロトフにはその音が誰かの泣き声に聞こえてならなかった。
雨粒は尽きることなく大地を打ち、その音はやむどころが徐々に激しくなってゆく。まるで空が、泣きたくても泣けない『誰か』のために泣いているかのようだった。
どのような類であっても、想いは、祈りは、空へと昇ってゆくもの。
とくに、叶えられなかったどこにも行き場のない想いは、必ず空へとかえるという。
いつか、城下にきていた吟遊詩人がそう歌っていたのを耳にした。
その吟遊詩人は、空へかえったあとそれらの祈りや想い達がどうなるのかまでは歌っていなかったが、もしもこの世に『神』と呼ばれるものが実在するのならば、叶えられなかった想いや祈り達を雨という恵みに変えて返してくれているのかも知れない。
お伽話だと、笑う人も多いだろう。
だが、そういうお伽話でも信じなければつらい時代なのだ。
………あの子供達は、信じてくれるだろうか…?
マイクロトフはそう考えて、ひどく悲しげな眼をした。
昨夜のジョウイの声が、耳に残っていた。
『誰も、誰も助けてくれなかった!!』
力もたぬ弱き人たちを守れればと、騎士になった。
正騎士になれば、大人になれば守れると思っていた。
自分の両手を見て、マイクロトフは唇を噛む。
だが、現実はどうだ。
自分は、こんなにも非力だ。
まだ大人になりきらぬ少年達があんなにもつらい選択を繰り返しているというのに、自分は彼らを助けてやることすらできない。
この両手は何のために、誰のために、剣を振るうのか。
昨日までは当たり前のように思っていたことが、今日はこんなにもわからない。
窓ガラスにあたる雨が、よりいっそう強さを増した。「打つ」というよりももはや「叩きつける」
という表現が正しいだろう。
火の気のない部屋は暗く、そして肌寒い。
だがマイクロトフはそんなことは気にも止めずに、雨音を耳にしながら自分の両手を見つめていた。
何が正しくて、何が正しくないのか。
マチルダを出るときにも考えた事。
結局答えを出す前に、ゴルドーのやりかたに耐えられなくなってマチルダを飛び出してしまったから、そのまま自分の中でうやむやになっていた。……いや。アレン側についたということは、自分の中でハイランドよりも同盟軍の方が『正しい』と判断したのだろうか。
判断は、正しかったのだろうか。
この混迷した時代の中で、何が正しくて何が正しくないのかわかる人はほとんどいないだろう。昨夜カミューが云ったとおり、百人の人間がいれば百通りの理想がある。それと同じで、百人の人間がいれば百通りの正義があるのだから。
結局の所誰も『本当に正しいこと』なんてわからないのかも知れない。
だが、ここで自分がちゃちな『自分の正義』を振りかざして、他人の光ある未来のために、自分の光ない未来を歩もうとしている少年達を止めるのが、おそらく『正しくないこと』なのであろうことはわかる。
ならば自分には何ができて、自分の正義とはなんなのか。
考えれば考えるほどわからなくなってゆく。
わかるのはこのままだと剣を振るえないだろうということだけ。
自分が正しいことをしているかどうかわからないのに、人に向けて剣は振れない。
指先が白くなるくらい両手を握りしめて、マイクロトフは考える。
ふいに、彼の背後で何かをこする音がした。
暗かった部屋の中に、ランプ独特のぼうっとした光が灯った。
マイクロトフはその光に振り向いて、まぶしそうにぱしぱしと瞬きした。
「……カミュー?」
確かめるように名前を呼んで、マイクロトフはベッドサイドに置かれている時計を見た。
まだ夜が明けきらない時間だ。
「どうした?」
「…………それは私のセリフだな。こんな時間に何をしている?」
いつもならとっくに寝ているはずのマイクロトフだ。今夜だってカミューよりも先にベッドに入ったのだ。それがこんな時間に、明かりもつけずにじっと自分の手を見つめている。
「……ちょっと、色々とな。考え事をしていただけだ」
「何を」
問われて、マイクロトフは返答につまる。
昨日のジョウイとカミューの会話は聞いていなかったことになっているのだ。それに、今考えていた事をカミューには云うわけにはいかない。彼に云ったところで、困らせるだけなのは分かりきっているのだから。
「別にたいした事じゃない」
「………………」
「本当にたいした事じゃないんだ。気になり出したら、眠れなかっただけで」
「マイクロトフ」
カミューは静かに彼の名を呼んだ。
マイクロトフはその声音に、困ったような顔で眉をよせた。
その顔をみて、カミューは微苦笑した。
マイクロトフが何を考えていたかなんて先刻お見通しのようである。
昨日も一日中、なにをやっても上の空だった。食事をしていればコップをひっくり返すし、剣の素振りをしていれば手から剣がすっぽ抜けて壁に刺さる始末。昨日の今日であれだけろこつに考え込まれれば、わからない方がどうかしているだろう。
カミューはベッドに片足をあげると、その上に顎をのせた。視線をマイクロトフにあわせる。
しばしの沈黙。
やがてマイクロトフが観念したように、両手をあげて降参のポーズを取った。
「…………多分。お前が考えてるとおりの事だ」
どうあっても、自分はカミューにはかなわないらしい。ジョウイと彼の話を聞かなかったという嘘がばれていると思っていたが。自分は本当に彼に隠し事ができない性分のようだと、マイクロトフは思う。
…………カミューにではなくても、隠し事に向かない性格だというのはいまひとつわかっていないようである。
考えていることがばれていたとしても、自分から云うのはやはりためらわれて、マイクロトフはまた黙ってしまった。
カミューもまた、なんと云っていいものかわからずに考え込む。
なにを考えているかはわかるが、それになんといって答えていいものかがわからない。
あまり無責任なことも云えないし、かといってこのまま黙っていることもできない。
さて、どうしたものだろう。
どれだけの間、そうして黙っていたのか
窓ガラスをたたく雨音に混じって、控えめなノックが聞こえた。
最初にそれに気がついたのはカミューだった。
膝に乗せていた顎をあげ、扉の方を見る。
「どうした?」
訝しげな表情で、マイクロトフがカミューの見ている方を見た。
「……いや。……扉をたたく音が聞こえたような気がしたんだが……」
マイクロトフが時計を見た。あれから進んではいるものの、まだ人が訪問してくるような時間ではない。
何かあったのか、とも思ったがそれにしては場内が静かすぎる。
「気のせいじゃないのか?」
マイクロトフがそういったとき、もう一度扉をたたく音がした。
カミューはベッドサイドに立てかけてあったユーライアに手を伸ばしたのを制して、マイクロトフが扉の脇に移動した。
「……どなたですか?」
マイクロトフができるだけ穏やかに扉の向こう側に問いかけた。
「…………こんな時間にごめんなさい…アレンです…」
思いもしなかった来客に、カミューとマイクロトフは顔を見合わせた。
アレンが目覚めたという話は聞いていない。
目が覚めたにしても、こんな時間にいったい自分たちに何の用があるというのだ。
「……マイクロトフさん?」
いつまでたっても開かない扉に、アレンがもう一度マイクロトフの名を呼んだ。
その声に慌ててマイクロトフが扉を開いた。
廊下に立っていたのはまぎれもなく、解放軍のリーダーであった。
「こんな時間にいったいどうなされたのです?……何か、ありましたか?」
訊ねられて、少年は静かに首を振った。
そして、手にしていた青い布きれのような物をマイクロトフに差し出す。
「これ、マイクロトフさんの上着でしょう?」
受け取って見れば、確かに自分の上着だ。……昨夜、カミューがジョウイに貸したはずの。
「扉の前に置いてこようと思ってきたんだけど、明かりが漏れていたから」
起きているのかなって思って。そういって少年は小さく笑った。
マイクロトフは目の前にたつ少年を見て、眼を細めた。
たった三日間顔を見なかっただけなのに、なんだか小さくなってしまった気がした。気のせいなのはわかっていたが、こんな細くて小さな肩にひどく重たい荷物を背負わせていることを思うとひどくいたたまれない。
マイクロトフの視線の意味に気がついたのか、少年は少し困ったように笑った。
「そんな顔、しないでください」
云われて、マイクロトフは慌てて少年から視線を外す。
思っていたことが、顔に出ていたのだろうか。
「声をかけようか迷ったんです。でも、どうしてもお礼が云いたかったから」
「礼?……あなたに礼を云われるようなことはしていませんが?」
いつの間にかマイクロトフの横に立っていたカミューが微笑みながら云う。そして、少年を中に招くような仕草をしたが少年はそれに首を横に振った。
「夢を………見させてもらいました。とても素敵な夢を」
少年が泣きたいような、困ったような笑みを浮かべて2人を見上げた。
その言葉に、カミューが痛そうな顔をした。マイクロトフも顔を強ばらせる。言葉の意味がわからないほど、2人とも間が抜けてはいなかった。どちらかと云えば鈍い方のマイクロトフさえ、わかった言葉の裏側。
なにも云うことができない2人に、少年はなおも言葉を重ねる。
「現実だと思うとこれから先がつらいから…あれは、夢でいいんです。ありがとう、マイクロトフさん、カミューさん」
ひとときの夢だと思えば、嬉しかった想いだけを胸に抱く事ができる。
「マイクロトフさん達が夢を見せてくれたから。僕は前に進めそうです」
迷っていた。ジョウイがなにを考えているのかわからなくなって、自分が何をしているのかがわからなくなって。でも、ジョウイに会って思い出した。
自分が何をしようとしていて、何を思っていたかを。
少年は静かに頭を下げる。マイクロトフとカミューに深く礼をして、その場を去ろうと踵を返した時。マイクロトフが口を開いた。
「教えて……くれないか?」
少年は振り向かずにその場に立ち止まった。
返事は無いが立ち止まったのを了解の合図と解釈して、マイクロトフが続ける。
「君の思う正義とはなんだ?……君は何のために武器を持って戦うんだ?」
他の誰かが聞いたら、何を今更と思うような問いかけ。でも、言葉の重さをカミューも少年もわかっている。
本当なら少年に聞いてはいけないのかもしれない。ジョウイに会って、先に進むことをようやく決意した少年に。自分が聞くことによって、少年は再び自分の進路に疑問を持つかもしれないから。だが、聞かずにはいられなかった。自分の迷いをこのままにすることは、どうしてもできなかった。
少年は少し黙って、それからはっきりと聞こえるように云った。
「僕の正義は、ジョウイの思う正義と同じ……かな。僕は僕の正しいと思うもののために武器を持って戦います」
「…………」
「怒っちゃいましたか?……こんなこと人が聞いたら怒りますよね。でも、僕が思っているのはこういうことだから。……誰にも云うつもりはなかったんだけど…なんでかなぁ?あなた達に嘘は吐きたくなかったんです」
「ジョウイ殿が…思う正義とは?」
これもまた今更な質問。それでも次にそうくるのがわかっていたのか、少年は間髪入れずに答えた。
「誰も泣くことがない、平和な大地。……大切な人の手を離さなくてもすむ、平和な世界」
それを実現させるためなら、どんな苦労もどんな犠牲も厭わないと、彼は云った。
彼を思う気持ちだけではなく、その『正義』を『正しい』と感じたから少年はジョウイに最後までつきあう覚悟を決めたのだ。
少年の肩が微かに震えていた。同盟軍の誰にも見せることができない不安と、悲しみが少年の背中に見え隠れしている。
「……すまなかった…」
そんな少年の背に向かって、ぽつりとマイクロトフが呟いた。
「いやだなぁ。なんで謝るんですか?マイクロトフさん、何もしてないじゃないですか」
いったん口を閉ざし、少年はつとめて明るい声で云った。
「僕、戻ります。あっ、僕が起きていたこと、内緒にしておいてくださいね?」
……もう少し、夢を見ていたいから。
呟きは、音にならなかった。
少年の背中が闇に溶ける。
それが完全に見えなくなるのを見届けて、マイクロトフは扉を閉じた。
マイクロトフは押し黙ったまま、ベッドに腰掛けた。その向かいに座ろうとカミューがイスを引いたが、その手を止められる。
マイクロトフをみると、無言で自分の隣を指し示した。
カミューは聞こえよがしにため息を一つついて、彼の隣に腰掛けた。
2人分の体重を受けて、ベッドが鈍い音をたてて軋む。
どのくらいそうしていただろう。
時間が経過しようとも、一向に口を開こうとしないマイクロトフに困り果てたような視線を投げて、カミューは再びため息をついた。
正確な時間をはかっていたわけではないが、あれから結構な時間がたったことは間違いない。いったいいつまで黙っているつもりなのか。
いいかげんカミューが口を開こうとした、その時。
「カミュー」
いきなり名前を呼ばれた。
「お前の信じる『正しい事』ってなんだ?」
そんなこと考えるまでもない。カミューは一瞬の間もおかずに答えた。
「お前だな」
「…………………………俺?」
「そう、お前だ。……ずっと昔から私が信じているのはお前だけだな。つまり、お前が『正しい』と感じたことが私にとっても『正しい』ことだ」
云ったあと、云うべきじゃなかったかなと思う。だが、どうせ昨日のジョウイとの会話をすべて聞かれているのだ。今更何を云ったところで大差はないだろう。
もしもこれから先、マイクロトフが自分の気持ちを重たいと思うのならばその時点で、気持ちを押さえ込むなり、彼から離れるなりすればいい。……もっとも、そんなことが簡単にできるのならばこんなに苦労はしないのだが。
マイクロトフはまた口を閉ざし、自分の足下に視線を落とした。
しばらくして、ぽつりと彼が云った。
「……そんなものなのかも知れないな」
少年のいった言葉の意味。その全部はわからない。けれど、カミューの言葉を聞いてそんなものなのかと思う。
「マイクロトフ?」
マイクロトフは顔を上げてカミューをみると、ゆっくりと微笑んだ。
「……じゃあ、俺はお前を信じよう。お前が『正しい』と思う『正義』が俺の『正義』だ」
それは……ちょっと…まずいのではないのだろうか。
カミューはマイクロトフの信じるものを信じていて、マイクロトフはカミューの信じているものを信じるという。これでは意味が通じない。
ふざけているのかとカミューは、眉をよせてマイクロトフを見る。
だが、彼はいたって真面目な様子である。
「…………正直、何が正しくて何が正しくないのか俺にはまだわからん。自分に何ができるのかも。だが、アレン殿を放ってはおけない」
少年の考えていることが、ジョウイの考えていることが、正しいのかどうか必死に考えて見たが、はやりわからなかった。
わからないままでは剣が振るえないという気持ちはかわらない。しかし、このまま少年を放っておくことは絶対にできない。
だから、自分が絶対に信じられるものを信じることにしたのだ。
カミューが少年を助けて剣を振るうというのならば、自分もそれに続こう。
そのうちに、答えはきっとでるだろうから。
「……それでいいのか?マイクロトフ」
浅く吐息を吐いて、カミューはマイクロトフに聞く。
「ああ」
短く云って、マイクロトフはダンスニーを取り上げた。
時計を見ると、彼がいつも朝の鍛錬にいく時間である。
一昼夜悩んだわりに、なんだかいいかげんな答えな気がしないでもないが、本人がいいというのだからいいのだろう。だいたい、カミューに云わせるとマイクロトフは考え込みすぎるのだ。普段あまり細かいことを気にしないかわりなのか、一度何かにとらわれると呆れるほどしつこく悩む。マチルダを出たときが、そうであったように。
軽く肩をすくめて、マイクロトフにつきあおうとカミューがユーライアを手に取った。
部屋を出ようとして、ランプの火を消す。
ふいに、マイクロトフは窓の方を見た。
あれほど激しかった雨が、いつのまにかやんでいた。