Lullaby



 昨夜半から降り始めた雪は、朝になってみるとすっかり止んでいた。
 朝のうちはまだ真っ白だった地面は、高く上がった太陽の光を浴びて少しづつ溶けだして大地を白と茶色のまだら模様に染めている。城壁の影や樹木の影にはまだ白いモノが残っているが、人通りの多い場所はもうとうに踏み固められて少し湿り気を帯びた土の色に戻ってしまっていた。
 さしてありがたいとも嬉しいとも思わない春先の雪だが、こうもあっさりと溶けて無くなってしまうとなんだか寂しいような気がしなくもない。
 そんなことを考えながら、シードはテラスに続く大きな両開きの窓を開けた。
 後ろで寝ている病人のことを考えて大きくは開かなかったが、それでも冷たい空気が一気に室内に吹き込んでくる。
「………やっぱ空気が冷てぇな……」
 部屋の中が暖かすぎるのもあるのだろうが、想像以上に冷たい空気にシードは後ろを振り返った。
 が、ベッドの中のクルガンは苦しそうに眉を寄せて荒い息を吐いているだけで何の反応もない。
 シードは軽く方をすくめると、溶け出さないように外に出してあった氷入りの洗面器に視線をやった。大きな塊氷がゴロンと入っているために結構な重たさがあるそれをシードは片手で軽々と持ち上げた。そうして、これ以上冷たい空気が部屋に流れ込まないようにそうそうに室内に戻り窓を閉める。
 そのままベッド際のイスに戻ろうとして、シードはふと足を止めた。氷入りの洗面器を片腕に抱えて、片側づつ遮光カーテンを引く。『明るいと眠れない』なんて甘ったれた言葉をクルガンの口から聞いたことはないが、病気の時ぐらいは寝やすい環境を作ってやった方がいいような気がして。
 厚手の遮光カーテンを引いた途端、暗くなってしまった室内に目が慣れるまで少し待ってシードはベッドの方に歩み寄った。
 洗面器をサイドボードに置いて、読書用の小さなランタンを手に取った。軽く振ってみるとかすかに液体が跳ねるような音がする。中に油が残っていることを確認して、シードはランタンに灯をともした。
 カーテンを引いておいてランタンをつける……というのも何だか変な気がしたが、日の光がさんさんと降り注いでいる状態よりはかなりまし……なはず…である。ランタンの光がクルガンに当たらないようにそれをサイドボードの影に置いて、シードはベッドサイドのイスに腰掛けた。
 片足をあぐらをかくようにイスにのせて、その足の上に洗面器を置く。それからシードは洗面器に刺しっぱなしだったアイスピックを手に握った。
「……ぶっ倒れるまで仕事してんじゃねぇよ…バーカ…」
 クルガンが寝込んだ…という話を聞いたのは今朝の事だ。
 2、3日前からかなり調子が悪そうだったのに気がついてはいたのだが、『休め』と云ってきくような男でも無し、放っておけばそのうち治るか倒れるだろう。そう思っていたのだが、治るよりも倒れる方が早かったようである。
 年明け前後に流行った風邪がようやく巷から消えたこの時期に風邪を引くとは難儀な男だ。
 倒れた…と聞いて一瞬「鬼の霍乱」かと思ったのだが、よく考えてみれば年末からこっち倒れても仕方がないくらい忙しく立ち回っていたのである。風邪引きがいなくなってようやく通常通りに人が動くようになって、風邪を引く余裕を得たのだろう。
 ……もちろん、余裕ができるまで待っていたわけではないだろうが。
「……………っ……」
 クルガンが、荒い息を吐いて寝返りをうった。その拍子に彼の額にのせてあった濡れタオルがずり落ちる。シードは無言でそれをもう一度クルガンの額にのせた。
 自分の額に触れたシードの指先が冷たかったのかクルガンは眉を寄せる。
 起こしてしまったかと思い小さく彼の名を呼んでみるが返事はない。どうやら目覚めてはいないようだ。
 シードはほっとしたような表情を浮かべて再び氷を割りだした。
 クルガンとは結構長いつきあいになるが、こうして彼の看病なんてことをするのは初めてだった。知り合ってから今現在まで彼がこんな風に倒れて寝込んだことなど無かったし、起きあがれないほどの大けがをしたことも無かったので。そう考えると、この状況は結構貴重な体験になるのかも知れない。
 そんなことを思いながら、シードは大きな塊から割り出した塊をさらに細かく割ってゆく。
 パチパチと暖炉ではぜる音とその上にのせられた加湿器代わりのポットが沸く音。それにカシュカシュと氷を割り砕く音がシンと静まり返った部屋の中に小さく聞こえていた。
 どのくらいかそれらの音だけが響いていたが、ふいにかすかに歌声が混じりだした。

 貴女が祈る夢を見た
 明け方に見た夢は現実を見せるという

 決して大きな声ではなく、唄うというよりは囁くと云ったほうがいいような声。ただひたすら氷を割る単調な作業に飽きたのか、シードは歌詞を口ずさむ。

 私は西の空に向かって叫ぶ
 叫びは歌へと姿を変え空へと放たれる
 旋律は風に乗り大地をこえ海を渡る
 歌は叫びに戻り彼女の元へと届くだろう

 幼い頃、誰かが自分に唄ってくれたどこかの地方の古い歌。誰が唄ってくれたのかとか、どこの地方の歌なのかとか。そんなことはもう判らなかったし今更知りたいとも思わなかったが、今も昔も一番好きな歌だった。特に楽曲に興味があるわけでもないし、唄うことが好きなわけでもなかったが不思議とこの歌だけはいつも頭の中にあって、こうして手持ちぶさたになったときについ口ずさんでしまう。

 叫びは歌に歌は叫びに
 歌は叫びに叫びは歌に

「…………歌…を…」
 シードの歌声に、クルガンの掠れた声が重なった。こんな囁くような声で起きるとは思わなかった。シードは唄うのをやめて、足の上の洗面器を足下に下ろした。そして、僅かに身を乗り出してクルガンをのぞき込む。
「クルガン…どした?うるさかったか…?」
 その問いにクルガンは緩く首を振る。そうして苦しそうに眉を寄せながら身体を起こした。だが、熱で力が入らないのかすぐにベッドの上に崩れ落ちてしまう。
「…俺の…歌を探さなければ…」
「は?おめぇの…歌…?何いってんだ、おめぇ…」
 クルガンは自分の額からずり落ちてしまったもう温くなったタオルを握りしめて、荒く息を吐く。そうしてもう一度身体を起こそうとしたが、シードに押しとどめられてしまった。
「離…せ……。置き忘れてきた…歌を…」
「クルガン?夢でも見たのか?」
「違う…。俺は探さなくては…ならん…対になる、歌を」
 ますます訳のわからないことを云われて、シードは眉を寄せた。普段のクルガンならば絶対にしないし、云わないような事をされて困ったような表情になっている。これは一体どうしたものか。
「あー、あのな。捜し物なら後にしろ、な?オレも手伝ってやっから」
 とりあえず当たり障りのないようなコトを云ってみるが、クルガンの耳には届いていないようだ。
「対になる歌…俺は…どこに置いてきた…?…」
 譫言のようにもう一度呟いて、クルガンは再び瞼を閉じてしまった。ほどなくしてやや苦しそうな寝息をたてはじめたのを確認して、シードはほぅっと息を吐いた。
 安心したような表情でどかりとイスに座り込む。
 いったい今のはなんだったのだろうか?こんな訳のわからないクルガンは初めてである。シードは鬱陶しげに自分の前髪を掻き上げて、目の前で眠っているクルガンを見た。
 おそらく熱にうかされて夢でも見ていたのだろう。普段風邪を引かない人間ほど、引いてしまったらひどいとよく云うではないか。
 そう自分を納得させながら、シードは足下の洗面器を取り上げた。先程砕いた氷を水を張った洗面器に移して、額にのせるタオルを絞りなおす。それをきちんと彼の額にのせて、シードはまた氷を割り始めた。ひどく暖かい室温で大分溶けてきてはいるが、大きな塊氷はまだまだくだいて細かくしてやらないと使いモノになりそうにない。
 こんなに手間がかかるのなら最初からもう少し砕けた塊を持って来るんだった…。そんなことを考えながらシードが氷を砕いていると、控えめにドアがノックされた。聞き落としてしまいそうなほどに小さな音だったので気のせいかと思ったのだが、もう一度ノックされてシードは洗面器を持ったままドアに向かった。
 こんな時に訊ねてくる人間は限られているのでシードは確認もせずにドアを薄く開いた。想像通りに、ドアの隙間から見えるのはクルガンの副官である。
「クルガン様のお体の調子はいかがですか?」
 小声で問いかけられてシードは軽く肩をすくめて見せた。
「悪くもなってねぇし、良くもなってねぇな」
「そうですか……」
「いいんじゃねぇの?ずっと動きっぱなしだったことだし、たまに寝込んで睡眠ガーッと取るのもよ」
「……………」
「ま、そういうこったから。クルガンの執務は適当になんとかしといてくれな」
 適当になんとかしとけ、と云われてどうしろというのか。副官はいささか困った表情をうかべたが、それでも黙って頷いた。それからシードが抱えた洗面器を見やって、もう一度シードの顔に視線を戻す。
「あの、この場は私が代わりますからシード様はご自分の執務に戻られた方がよろしいのでは?」
 その言葉にシードは微かに笑って首を横に振った。
「いっつも逆の立場だから、たまには…な」
 病気をすることこそ無いが、あっちを怪我したこっちを怪我したとクルガンには散々世話をかけているのだ。恩返しというわけではないが、こういう時ぐらい看病をしてやってもバチはあたらないだろう。
「…………わかりました。では、よろしくお願いいたします」
 シードの気持ちがなんとなく分かったのか、副官はそれ以上続けることなく彼に頭を下げた。そして、踵を返す。
 自分に背を向けた副官にそのままドアを閉めようとしたが、ふと思い出してシードは彼を呼び止めた。
「なぁ」
 副官は足を止めて、後方へと身体ごと振り返った。
「なんでしょうか」
「……クルガンが歌を探してる、なんて話聞いたことあるか?」
 副官は一瞬考えて、答えを返す。
「いえ。そのような話は耳にした覚えはございませんが…」
「だよな。オレも聞いたことねぇもん。やっぱ夢でも見てたんだな、アイツ」
 人に訊いておいて何だか勝手に納得しているようである。
「……シード様?」
 質問の意味がわからず怪訝そうに自分の表情を探る副官に、シードは笑って空いていた方の手をひらひら振った。
「変なこと訊いて悪かった。なんでもねぇんだ、今の質問は忘れてくれ」
 シードにこう云われてしまってはそれ以上突っ込んで訊くこともできない。副官は首を傾げつつももう一度一礼し、来た道を引き返していった。
 その姿を見送って、シードは後ろ手にドアを閉めた。
 大きく広げていたわけではないがドアを開けっ放しで話していたせいか、部屋の温度が若干下がってしまったようだ。ひどく寒いわけではないが、なんとなく肌寒さを感じてシードは少しばかり暖炉の火を強くした。ついでに大分少なくなってしまったポットの中に水差しから水を足しておく。
 それからベッドサイドのイスに戻って、また単調な作業を始める。『看病をする』とはいったものの、自分と違って寝乱れることもなくただひたすら辛そうに寝ているだけなので、特にすることがないのだ。やってあげられることといえば、せいぜい額のタオルを濡らしてかえてやるくらいである。
 カシュカシュと音をたてて氷を砕きながら、シードはひどく優しげな目でクルガンを見た。
「…おめぇが何を探してんのかしらねぇから、とりあえずこれで勘弁しとけ」
 クルガンが目覚めたらどんな夢を見ていたのか訊いてみよう。
 ………多分覚えていないだろうが。
 そんなことを思いながら、シードは再び静かな声音で歌い始めた。
 


 

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