遠くから自分に還ること

内山田 康

I

私が大学生時代に読んだ本の中で唯一繰り返し読みつづけたのは、森有正の『バビロンの流れのほとりにて』(1957年)だ。私が大学に入学した1976年、森有正はパリから戻って講義をする予定だった。学生たちは期待していたが、しばらくして彼が病気のために講義は中止するという掲示が出された。森有正は10月18日に居留先で病死した。11月4日に葬儀が行なわれ、辻邦夫の顔を見かけた。『バビロン』から引用する。

考えてみると、僕はもう三十年も前から旅に出ていたようだ。僕が十三の時、父が死んで東京の西郊にある墓地に葬られた。二月の曇った寒い日だった。墓石に「M家の墓」と刻んであって、その下にある石の室に骨壺を入れるようになっている。その頃はまだ現在のように木が茂っていなかった。僕は、一週間ほどして、もう一度一人でそこに行った。人影もなく、鳥の鳴く声も聞こえてこなかった。僕は墓の土を見ながら、僕もいつかはかならずここに入るのだということを感じた。そしてその日まで、ここに入るために決定的にここに帰ってくる日まで、ここから歩いて行こうと思った。その日からもう三十年、僕は歩いてきた。それをふりかえると、フランス文学をやったことも、今こうして遠く異郷に来てしまったことも、その長い道のりの部分として、あそこから出て、あそこに還ってゆく道のりの途上の出来ごととして、同じ色の中に融けこんでしまうようだ。

私は1984年の秋に日本を出て内戦下のモザンビークとエチオピアで3年間働いた後、イギリスの3つの大学院で8年間学んだ。戦火のモザンビークでも、エチオピア高原のテントの中でも、ロンドンのフラットでも『バビロン』を持っていた。遠くへ来ても還ってゆくために。

II

昨年私は6人の文化人類学を専攻する学生たちの卒論指導をした。6人のうち5人までが5年生だった。Nは人類学がやりたくて大学に来たが、人類学をやりたい気持ちと人類学の実際には乖離があった。3年のころから悩み始めた。友人に人類学は向かないと言われて吹っ切れたという。彼は教育学の修士コースに進学した。将来は人類学で学んだことを生かして社会科を教えたいという。Wは大学に入学して親元を離れて自由になったことが楽しかった。大学2年の終わりに結婚をして子どもが生れた。彼は卒論のテーマを何度も変えた後、留年した。2度目の卒論はじっくり調査してこれまでなかったほど良く考えた。もう一人のNは3年の時休学して海外を旅行した。4年の時、考古学から人類学に専攻を変えた。卒論の調査は海外旅行で訪れた場所のひとつで行なった。卒論は出色の出来で自信がついた。Tは3年の時休学して海外を旅行した。彼も考古学から人類学に移ってきた。考古学のトレーニングを生かしたモノの人類学で卒論を書いた。力作だった。Mは3年の時に語学留学した。留学前はくらい顔をしていたが、帰国後は顔つきが変わっていた。レポートにも卒論にも達成感を感じた。Uは一人だけ4年で卒業したが、専攻では随分迷った。いろいろ始めては止めることを繰り返したが、卒論ではねばった。フィールドワークは自分には不向きだと思い、文学でやりたいテーマをやろうと大学院に進んだ。

III

6人が卒論を書いていた昨年の10月26日、イラクで起っていることを自分の目で見ようとした香田証生さんという24歳のバックパッカーが誘拐され、31日に死体が発見された。ニュースで何度も流れたビデオで香田さんは言った。「小泉さん、彼らは日本政府に日本自衛隊の撤退を求めています。さもなくば僕の首をはねると言っています。すいませんでした。あと、また日本に戻りたいです。」私は香田さんには還ってもらいたかった。自分に出来ることを探して遠回りをしていた学生たちと香田さんの遠回りが同じ性質のものだと思われた。遠くから自分に還ること。

(2005年4月17日)