『想いは言葉に乗せて』


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三*思いもよらない挑戦(後編)



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 巡のよく分からない挑戦に巻き込まれてしまったわたしは、夏休み明けが締め切りの高校生絵画コンクールと文化祭用の絵の二枚を描くことになってしまった。文化祭用の絵さえも決まってないのに、絵画コンクールなんてそれは無理な相談だろう。

「文化祭は最終手段として、今までのデッサンを出せばいいだろう」

 正気だとは思えない言葉に、巡の顔をじっと見つめてしまう。

「ん? なんだ? 頭が良すぎるオレに惚れた?」
「んなわけないでしょ! なにを考えてるのよ。あのデッサン、出せるわけがないじゃない!」

 巡はわたしに人差し指を向け、ノンノンと言いながら左右に振る。

「分かってないのはおまえだ。あのデッサン、一枚だけなら意味がない。だけど、土井先輩が引退するまでほぼ毎日、書き続けてきただろう? クロッキー帳まるまる一冊が作品になる!」

 とは言うけれど、他の人たちはみんな、水彩画だったり油絵だったりを文化祭に向けて、描いている。わたしだけそれでいいのだろうか。

「とにかくおまえは絵画コンクールだけを考えろ。それが出来たら、文化祭に取りかかればいい」

 なんだか本末転倒なような気もするし巡に乗せられているなあと思うけど、楽しいと感じているのは事実だ。だから、今はそれでいいような気がしてきた。
 問題は、なにを描くか、だ。
 わたしは何冊にも渡っているクロッキー帳を最初から見ていた。
 一枚目はアントニオ。その後ろもしばらく、アントニオが描かれている。ある日を境に、土井先輩だけになってくる。その日から夏休み前までずっと、土井先輩だけを描いてきた。
 そう考えると、わたしがコンクール用に描く題材は自ずと決まってくるような気がしてきた。

「巡、決めたよ」
「お、優柔不断の奏乃にしては、決まるのが早かったな」
「もうっ」

 巡の腹立たしい言葉は無視して、どういう絵にするのかを決めることにした。
 目を閉じて、脳内におさめている土井先輩の姿を思い出す。
 シュート練習をしているところ、フィールド全体を使ってドリブルの練習をしているところ。
 一枚の絵にした時、どれもインパクトに欠ける。
 だったら、と五月にやっていた練習試合の時のことを思い出す。
 フィールドの一角に出来た、人だかり。それを切り裂くように現れた、赤いゼッケンをつけた土井先輩。
 なんとなく頭の中に構図が浮かんだので、あの試合があった頃のデッサンを改めて見返す。
 練習試合当日のデッサンは、いつものようにシュート練習をしている一コマを切り取ったもの。次の日のデッサンも、やはり同じようなものを描いている。
 あのカットした時の場面を次の日に思い出しながらでも描いていなかったのが、悔やまれる。

「新しいクロッキー帳、買いに行ってくる」

 隣で宿題をしている巡に声を掛けると、ノートを閉じて、立ち上がった。

「あ、オレも行く。ノートがなくなりそうなんだよな」

 わたしと巡は並んで、購買へと出かける。
 夏休みにもかかわらず、購買は午前中だけ開けてくれている。わたしたちのように朝から部活をしている生徒のためだという。

「あ、ついでにパンも買っていこ」

 巡はすぐに目当てのノートを見つけたようで、手に持っている。わたしは購買の隅っこに行き、ここで買うのは何冊目になるのか分からないクロッキー帳を手に取った。
 お財布の中を見て、ぎりぎりのお金しかないことを知り、ほっとするようながっかりするような複雑な気分になった。
 高校に入学してから、お小遣いのほとんどをクラブ活動に費やしている。どうしても足りないときはお母さんにこっそりとお願いをして出してもらっているんだけど、それがもしかしたら、お父さんにばれてしまったのかもしれない。

「どうした、奏乃?」

 購買の端に寄って暗い表情でお財布をじっと見ているわたしに対して、巡は声を掛けてきてくれた。

「これを買うのに、お金が足りるかなって確認してたの」
「クロッキー帳、そこそこの値段、するもんなぁ」

 すっかり淋しくなったお財布からなけなしのお金を取り出し、クロッキー帳を買った。新しいクロッキー帳を大切に抱きかかえ、美術室へと戻る。
 買ったばかりのクロッキー帳の表紙に名前を書き、開いて一枚目に脳内で考えている構図を落とし込んでみる。
 やっぱり、考えているものと実際に描いてみたものではなんだかイメージが違う。
 わたしは立ち上がり、窓辺に寄る。
 フィールドではサッカー部の人たちが炎天下の中、シュート練習をしている。
 イメージを湧かせるために、シュート練習をしている人たちを丸と線を使って、動きを拾っていく。
 こうやって土井先輩以外の人を描いてみると、土井先輩のフォームがどれだけ美しかったのかを改めて知ることができた。
 夢中になって動きを追っていると、時間を忘れてしまう。サッカー部の人たちは休憩に入ったのか、フィールドからだれもいなくなってしまった。そこでわたしはようやく、息を吐いた。それまで、呼吸をすることを忘れたかのように動きを追うことに集中していたような気がする。

「お疲れ」

 声とともに、わたしの頭に手が降ってきた。手のひらでわたしの髪をぐちゃぐちゃに翻弄していくのは、巡だ。前髪が落ちてくるのを止めていた木で出来たクリップが落ちて、顔に前髪が降り注いでくる。

「もうっ、やめてよ」

 わたしはその手を振り払い、落ちたクリップを拾って前髪を耳にかける。

「髪、伸びてきたな」
「え……、あ、うん」

 少し前から髪の毛を伸ばそうと思ってあまり切っていないことに巡は気がついてくれたのだろうか。

「知り合ってからずっとおかっぱ頭だけどさ」
「おかっぱじゃないよ、ボブカットって言うんだよ!」
「分かった、おかっぱね」
「おかっぱじゃないって!」

 何度訂正してもおかっぱ頭と繰り返すから、反論を諦めた。

「伸ばさないの?」

 伸ばしてるところなんだけどと言おうとしたら、巡にだれかが話しかけてきた。だからわたしは口を閉じ、クロッキー帳に視線を落とす。
 巡は少し難しそうな表情をして、わたしの側から離れていく。
 ふと時計を見るともう少しでお昼になる。いいタイミングだと思い、椅子から立ち上がって伸びをした。かなり長い間、脇目もふらずに描き続けていたらしい。身体が固まっていた。
 夏休みにもかかわらず、毎日、お母さんはお弁当を作ってくれる。それがありがたくもあるけど、心苦しく思うこともある。だけど、家にいてもいなくても結局はお昼ご飯は必要なわけで。そういうことを含めて、お父さんは朝、あんなことを言ったのだろうか。
 教室の隅っこで食べていると、巡が戻ってきた。浮かない表情をしているところを見ると、なにか良くないことでも言われたのだろう。

「抜け駆けかよ!」

 わたしがお弁当をほおばっているのを見て、巡は抗議の声を上げてきた。

「だって、いつ帰ってくるのか分からなかったから」
「すぐに戻るって言ったの、聞いてなかったのか?」
「そんなこと、言ったの? 聞こえなかったよ」

 巡はなにも答えず、わたしの横に座ってお弁当を広げている。わたしのお弁当箱の倍はあるほどの大きさだ。がつがつという音が聞こえそうなほどの勢いで食べ始めた。

「うわっ、かーさん、かまぼこ入れないでってお願いしていたのに、入れてあるとは嫌がらせかよ!」

 ふと巡のお弁当箱を見ると、妙にかわいらしい花形のかまぼこが入っている。

「交換、してあげよっか?」
「や、いいよ。食べられないわけではないし」
「そのかまぼこ、食べたい。卵焼きと交換、してあげるっ」
「……いいのか?」
「うん、いいよ」

 わたしはお弁当箱を巡に差し出し、わたしは巡のお弁当箱からかわいらしい花形のかまぼこを抜き出した。

「へー、こんなかわいいかまぼこがあるんだ」
「ねーさんのお弁当用だろ。余ったからオレのにも入れるとは、ほんと」

 巡はため息をつきつつ、わたしのお弁当から卵焼きを一つつまんで、口に放り込んだ。

「お、うまっ!」
「でしょ? お母さん、料理が上手なんだよぉ」
「料理が上手でいいな。うちなんて、人数が多いから作るのが大変とか言って、半分くらいは冷凍食品だしさ」

 とはいうけれど、巡のお弁当はいつ見ても色鮮やかで美味しそうだ。

「わたし、一人っ子だから、兄弟が多くてうらやましいな」
「兄弟がいるのはいいけど、うちは五人だから、うるさいぞ」

 五人兄弟と言われ、思わず巡の顔をじっと見る。兄弟が多いのは知っていたけど、そんなにいたなんて初めて知った。

「ご、五人っ?」
「そ。一番上が姉。名前は環(たまき)で二十五歳、次が兄の周(しゅう)で二十一歳、次女の円(まどか)が二十歳、オレ、その下に弟の輪(りん)は十五歳」

 一気に言われて、わたしは激しく混乱する。

「女二人に男三人。うるさいこと、この上ないんだぜ」

 想像がつかなくて、首をかしげる。

「だから、学校に来てると楽なんだよな」

 巡は照れくさそうに喉の奥でくくっと笑い、残りのお弁当を口に運んだ。
 巡との付き合いは去年一年間をのぞいて三年目。知らないことの方が多い。

「さてっと。飯を食ったら、構図を考えようぜ」

 わたしが決めかねているのを知っている巡はそう言ってくれたけど、これはわたしがしなければならないことだ。

「もうちょっと一人で考えてみる。どうしても思いつかなかったら相談するから」

 わたしのその言葉に巡はじとっとした視線を向けてきた。

「本当か? おまえってほんと、思い詰めるから、心配なんだよなぁ」

 むっとして巡をにらみつけると、わざとらしく肩をすくめられた。

「じゃあ、今日、帰るまでに決められなかったら相談しろよ」
「……分かった」

 渋々承知して、わたしは残りを食べて片付けて、外に視線を向ける。
 グラウンドにはまだ、人は戻ってきていない。
 ぱらぱらとクロッキー帳を見つめる。ずいぶんと荒削りなほぼ棒人間なスケッチを見つめ、どうしようかと悩む。
 棒人間を描き写しながら下描きをしてみるが、なんだか迫力に欠ける。なにが足りないのだろうか。
 あの日を思い出す。
 練習試合を見ていた場所。そうだ、いつもより高い所から見ていたのだ。
 美術室は一階の一番端っこにあり、体育館が真横にある。ここからだとフィールドが見えない訳ではないが、中心部から遠い。
 一方、練習試合を見た巡の教室は三階だが、フィールドのど真ん中がよく見える。
 なるほど、違和感の正体はこれか。
 自分の中の記憶風景と練習風景をスケッチした棒人間たちが重ならないのは仕方がない。見ていた場所が違えば、角度が違うのだから。
 そこまでは分かったのだが、それでは、このギャップを埋めるにはどうすればいいのだろうか。また、巡の教室から下を見て、練習風景をデッサンすればいいのだろうか。
 なんだかそれは現実感がない。
 夏休み中は一階しか立ち入りが許可されていない。二階以上の教室は先生の許可がないと立ち入ることが出来ない。とはいっても、縄が張ってあったりするわけではないから入ろうと思えば、入ることはできる。
 見つかったとき、怒られるのは分かっていたし、それだけならまだしも、最悪な場合はクラブ活動停止なんて言われて、美術部のみんなに迷惑がかかる。
 それでは、現実的な解決策は──と考え、今まで描きためてきた土井先輩のデッサンを取り出す。この中のよく描けているものと練習風景を組み合わせて一枚の絵に仕上げるしかないだろう。
 練習試合を思い出しながら、上からではなく横から見ていたらあの場面はどうなっていただろうかと想像しながら、組み合わせていく。何枚も自分が納得が行くまで組み合わせる。
 そうしている間に午後の練習が始まったようだ。ゆらりと陽炎が見える。外はどれだけ暑くなっているのだろうか。
 フィールドに立っている人たちはひっきりなしに額の汗をぬぐっている。そのなにげない仕草もスケッチする。
 自分の視界に入ったフィールドに立っている人を次々と棒人間にしていく。
 サッカー部は何度か休憩を挟みながら、夕方まで練習をしていた。
 わたしはフィールドに人がいる間はただひたすらクロッキー帳に描き写し、休憩に入っている間は下絵に落とし込む。
 なかなか気に入った構図が仕上がらない。
 日が傾いてくるのが視界の端に見えてきて、焦りが生まれてきた。
 巡はわたしから離れて宿題をしたり、話をしたりしている。文化祭に出す絵に取りかかっている様子はない。間に合うのだろうか。
 なんて人のことを心配している時間はわたしにはない。
 納得できる構図はどうなればいいのだろうか。
 土井先輩を際立たせるためには周りの人たちをどう配置すればいいのか。
 今まで考えたものを見返してみる。

「どうだ?」

 巡が声を掛けてきたことで周りの人たちは帰り支度を始めていることを知った。

「あー、うん……」

 わたしの返事を聞いて、状況が芳しくないことを知った巡はクロッキー帳を取り上げ、ぱらぱらと見ている。

「しっかし、おまえはほっといたらいつまでもスケッチし続けるなぁ」

 買ったばかりの真新しかったクロッキー帳も気がついたらずいぶんと消費していた。

「この構図はいいんじゃないのか?」

 最後のあたりに何となくまとまってきたものを見て、巡はわたしの目の前に突きつける。

「基本をこれにして、こことここの人をこっちと交換して……」

 そうやってアドバイスを受け、わたしは新しいページに描き込んでいく。

「うん、いいじゃないか」
「……そう?」

 少し離れてみる。
 わたしの記憶の中にあるあの場面が、さらにドラマチックに演出されたような気がする。

「お、いいじゃん。明日から下絵に入って行こうぜ」

 巡のその言葉に、わたしは大きくうなずいた。



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