『想いは言葉に乗せて』


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二*ラブレターとアントニオ(後編)



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 今日も日課になっている土井先輩のデッサン。
 巡には外に出て近くで描けと言われていたけど、結局、お手軽に美術室の中からやっていた。
 サッカー部の練習は美術部と違っていつも同じ時間から始まっていた。わたしが美術室に訪れる時間は特に決まってなくて、サッカー部が柔軟体操をしているところか、終わってフィールドを整備しているところのタイミングで部室入りをしていた。ゆっくりとクロッキー帳を用意してしばらく練習風景を眺めるのが常だ。
 シュート練習が始まる頃、わたしはクロッキー帳を開き、土井先輩をデッサンする。

「よ、奏乃」

 わたしがデッサンを始める頃、巡は美術室にやってくる。そしてわたしの肩越しにひょいと描きかけのデッサンをのぞく。
 いつもならなにも言わないで準備を始めるのに、今日はなにか気になることがあったのか、声を掛けてきた。

「なあ、奏乃。土井先輩のフォーム、いつもそれか?」

 その質問に、ほぼ描き終わっていたデッサンから鉛筆を外し、少し離れてみる。

「……んー? 言われてみたら、たまーにこんなフォーム、してるなぁ。どうしたの?」
「そっか。……いや、なんでもない」

 巡は意味深なことだけ残して、わたしから遠ざかる。
 気になったけど、デッサンを完成させるのが先決だ。鉛筆をにぎり直して、仕上げに取りかかる。
 完成したデッサンを眺め、巡はなにが気になったのかを考えたけど、答えは分からなかった。

 それから、土井先輩は高校生活最後の試合に出場して、見事、優勝したという。
 わたしは試合を見に行かなかったけど、学校に行ったらそのことで持ちきりだった。

「よかったな、奏乃」

 と巡も喜んでくれている。

「うん!」

 なんだか自分のこと以上にうれしい。
 だけどそれは、土井先輩があのフィールドに立つことはもうないということを意味して……うれしさよりも淋しさの方が強い。

「土井先輩のデッサン、終わりかぁ」
「別の物を見つければいいじゃないか」
「うん、そうだね」

 なんだか気が抜けてしまった。
 わたしはそれから一週間くらい、美術部に行く気になれなかった。授業が終わったら、まっすぐに家に帰る。そして巡はなぜか律儀にわたしと一緒に帰ってくれた。
 その間、美術部のことは一言も触れない。だけどそれ以外はいつものようにわたしをからかっていた。
 それを見て、いつまでも落ち込んでいる訳にはいかないという気になれてきたのだから、不思議だ。

「巡、月曜日から美術部に出るね」

 金曜日の帰り道、わたしは前をまっすぐに見つめ、言葉にした。

「あぁ」

 そう言って、わたしの頭を優しくなでてくれた。
 たまにそうやってくれる優しさに、巡の真意はどこにあるのか分からなくなる。

「とりあえず、イケメン石膏像のデッサンでもしようぜ」

 わたしがずっとデッサンの対象を探しているのを知っていたかのような言葉に、思わず吹き出す。

「いつまでも石膏像をデッサンしていたって、上達しないじゃん」
「上達しているのかしていないのかをはかるのに、あいつほど適任者はいないだろ」
「あいつって……」
「アントニオって名前なんだぜ、二世紀頃のギリシア生まれでな」
「へー」

 あの石膏像、そんなに古いんだ、なんて感心していたら……。

「嘘に決まってるだろ。オレが今、考えた口から出任せ」
「なっ!」
「でもさ、あいつの顔、アントニオって感じだろ?」
「アントニオぉ?」

 石膏像の顔を思い出そうとするけど、なぜか線で陰影がついたぼんやりとしたものしか思い出せない。

「うーん……」
「あいつにゼウスだとかアポロンなんてギリシア神話に出てくる神さまの名前は過ぎるだろ?」

 そう言われたら、確かにそうだけど……。

「あれはモブキャラだから、アントニオでいいんだよ」
「……もぶきゃら?」
「ようするに、雑魚キャラ」
「ざっ……!」

 石膏像に対して雑魚だなんて、ひどいいいようだ。

「あいつは四天王の足下にも及ばないんだよ」
「四天王って……」
「アントニオなんて、どこの学校にもいるようなヤツじゃないか。四天王ってのはだな、校門を入ってすぐに置いてある創業者の胸像だとか」
「そんなの、うちの高校にないじゃん」
「……言われてみれば。となると、うちの高校にはモブしかいないってことかっ!」

 ……あまりにも馬鹿すぎて、相手をするのも疲れた。
 ちょうど、わたしの住んでいるマンションが見えてきた。

「じゃ、巡。月曜日にね」
「ああ、月曜日。宿題、きちんとしろよ! 寝る前に歯を磨けよ!」
「あのね……子どもじゃないんだから」
「おまえ、知らないのか? 伝説のドリフターズ」
「なにそれ?」
「ドリフターズってのはだな」
「もーいい! 分かったから」
「いーや! 分かってない!」

 巡はやっぱり、いつもの調子でわたしは心底、呆れていた。
 よくもまあ、次から次へとでたらめがこれだけ出てくるもんだと違う意味で感心していた。

「じゃあね」

 わたしはいつものようにエントランスで手を振り、巡と別れる。

「じゃあな」

 巡もうっすらと笑みを浮かべ、わたしがマンションに入るのを見届けてから、歩き始める。
 穏やかな日々。

 月曜日、美術室に行くと巡は先に来ていてアントニオと言っていた石膏像になにかしている。

「巡?」

 わたしが声をかけたら巡は驚いたのか、少し飛び上がっていた。

「なに、してたの?」

 いぶかしく思い、巡に近寄る。

「しっ。こいつに名前を彫ってたんだ」

 というように、巡の手には彫刻刀が握られている。

「こらっ。そこの二人! なにをしてるの?」

 その声に、わたしたち二人は飛び上がる。

「えっ、いや……そのぉ」

 美術室の入口に顧問でもあり美術の先生でもある篠原友里(しのはら ゆり)が立っていた。

「皆本くんと下瀬さん」
「……はい」

 巡がここの高校に入学するきっかけとなったと語っていた篠原先生は若いけど実力のある人らしく、色々と忙しい人で滅多にクラブ活動には顔を出さない。それでも、週に一度は顔を出してくれている。今日がその日だったのをすっかり忘れていた。
 篠原先生は石膏像の前に立っているわたしたちのところにやってきて、巡が持っている彫刻刀にすぐ気がつき、石膏像に視線を向ける。石膏像の端に小さく巡はなにかを掘っていたらしい。

「アントニオ……。なにこれ、この石膏像に名前をつけてくれたの?」

 篠原先生は無表情で巡を見ている。なにを思っているのか読めない。

「あー、その。こいつが『オレ、アントニオ。よろしくな』って言っていたから」

 先生相手でも巡は相変わらず訳の分からないことを言っている。あきれかえって、わたしはなにも言えない。
 わたしたちの間に沈黙が落ちる。
 伺うように篠原先生の顔を見ると、赤くなっている。
 怒られる──と思った瞬間。

「ぶはははっ。皆本くん、なかなかいいセンスをしてるじゃない」

 篠原先生は真っ赤な顔でお腹を抱えて笑っている。

「おっ、オレが考えたんじゃなくてこいつがっ」
「はははっ、分かった、分かった。この子はアントニオって名前なのね」
「そーです、アントニオ。二世紀にギリシアで生まれた」
「あはは、了解。アントニオね」

 篠原先生は目に涙まで浮かべて笑っている。
 てっきり、怒られると思っていたのに笑って認めるなんて、面白い先生だ。

「まー、今回は見逃すけど、学校の備品に傷をつけちゃったら器物破損で最悪な場合は退学にさせられちゃうから、もうやらないのよ」
「はーい」

 巡は手を上げて、素直に返事をしている。
 篠原先生はくすくすと笑いながら、準備室へと歩いて行く。

「もー、巡ったら」
「いや……後世にアントニオの名前を伝えようと思って」

 巡は
「アントニオ」
と掘った文字を見直し、削って出てきた粉をはたいてから彫刻刀を片付け始めた。

「今日はアントニオのデッサンをしようぜ」

 巡はわたしのクロッキー帳も出してきてくれた。
 デッサンの対象が次に見つかるまで、しばらくアントニオを描こう。わたしはそう思い、素直にクロッキー帳を受け取った。


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