本当に……なんでこの人は僕の手を煩わせるのでしょうか。
しかも津久井さん、よりによって一番危険なこの札を素のまま放置しておくなんて、信じられません。あれほど注意したというのに。もう二度とあの人には売らないことにしましょう。
……ああ、思い出しました。あの人は……この札を見て、あまりのショックに心臓まひで亡くなったのを。
こんなもの、なんてことないじゃないですか。
夢の中でしたが、確かに彼女は彼の子を身ごもりました。だけど、二人は産まれてほしいと思っていなかったのですから──身ごもったまま。
彼はあまりのショックにこの世から去り……夢の世界さえ放棄して。だけど、この札にはそれまでの彼の『記憶』が刻み込まれていますから。
「そらさん、起きてください」
僕はそらさんに直接触れたくなくて、津久井さんの館の中を探って見つかったほうきの柄の部分でつついてみた。
すっかりとおるくんの夢の世界に引き込まれてしまったのか、そらさんは眉間にしわをかなり寄せ、苦しそうな表情で眠っている。苦しいのなら目を覚ませばいいのに。
ふと見ると、その手には真っ黒に染まった札を握りしめていた。こんなものをいつまでも握りしめているからこちらに帰ってこられないのだ。
乱暴に札を抜きとる。
もう一度ほうきの柄でそらさんをつつくと……。
うん……と身じろぎした。少し開いた隙間に柄を差し込み、力を入れてうつ伏せからあおむけにする。履いていたスカートのすそがめくれ、妙に白くて艶めかしい太ももにどきりとする。ほうきの柄を使って裾を直し、もう一度身体をつつく。
「うーん……」
再度、身じろぎして、そらさんはようやく目を覚ました。
「あれ……。ここは?」
「津久井さんの家の玄関、ですよ」
顔をしかめ、頭を押さえている。
「そういえば……」
そらさんは身体を起こし、先ほど起こすためにほうきでつついたあたりをさすっている。
さすがに痛かったかな、と申し訳なく思うが、黙っておく。
「あの人が……いた」
あの人? 新井がいたのか?
「探すなって。次に会ったら……殺すって」
ショックを隠しきれない表情でつぶやくそらさんになんと声を掛ければいいのか悩み……結局、口をつぐむ、という選択しか取れなかった。
「おまえにやるからもう探すな、とも言っていた」
なにを言っているのか分からなくて、首を振った。
札のことではない。それではなんのことを──?
悩み……思いあたらなかった。
「あ……」
そらさんは僕が手にしている黒い札を見て、声を上げる。
「それ。あの人が」
「これですよ。僕が回収してくるようにお願いしていた札は。人間が素手でこの札に触ると夢の世界に引きずられると──ああ、説明、していませんでしたね、そういえば」
僕が素手でつかんでいるのを見て、そらさんの表情は少し変わった。なにを考えているのか、は読めますがね。
「あんたは……人間じゃないとでも」
「さあ? 僕は人間ですよ。辞めた覚えも、人間ではなくなった覚えもないですよ」
くすり、と笑うとそらさんは眉をしかめて僕を見た。
「!」
ぞくり、と背筋に妙な寒気が走る。
『────っ!』
『彼女』の悲鳴が頭に響く。
「まずい!」
僕は床にばらまかれた札を拾うと時雨堂へと急ぐ。そらさんを連れて行く気はなかったのですが、そこまで力の調整ができず、彼女をまきこんで。
「ここは──?」
そらさんのぼんやりとした声を背中に聞きながら、僕は時雨堂に着くなり、奥の部屋へと走る。時雨堂内に嫌な空気が充満している。闇が紛れ込んでいる、というレベルではなく、闇にのまれてしまったこの空間。
いつもは淡い黄色い光に包まれている店内が、漆黒よりも暗い闇夜にのみ込まれている。
あいつがここにきた。
ここは『彼女』が望んだ人間しか入りこむことのできない空間。それを破り、こんなに濃い闇を残していくなんて。
『彼女』がいつもいる場所は、なにもない。
べったりと気持ちの悪い『闇』がそこに確かに『彼女』がいた、という証だけ残していた。あまりの気持ち悪さに反吐が出そうだ。
「なによ、これ……」
手探りでそらさんは『彼女』の居場所にやってきて、そこを見て息を飲む。
そらさんは『彼女』に気に入られていた。
時雨堂に客が来る時は、『彼女』とともにここで待っていた。そらさんと『彼女』がなにか話をしていたことも知っている。
なにを話していたのですか、と以前に聞いた時、返ってきた言葉は
「女同士の話だから、内緒」
と言われた。『彼女』に聞いても同じ答えしか返ってこなかった。それだけ、そらさんと『彼女』は心を通わせていた。その『彼女』があんなに嫌っていた闇にその場を奪われ……消えていた。
「あんた……! あの子をどこにやったのよ!」
そらさんが僕の胸倉をつかんで目をつり上げて睨みつけてくる。
「それは僕も知りたいです。あなたを迎えに行ったばかりに……!」
僕の責める言葉にそらさんは目を見開き、つかんでいた胸元の手を緩める。
「わた……しの、せい、なの……?」
力なく、うなだれる。そらさんのせいではない。それは分かっている。油断していた自分が一番悪い。だけど……『彼女』にこんな目に合わせてしまった一因にそらさんがあるのは確かで、僕は思わず責める言葉を吐いてしまった。
「あなたのせいです。あなたが僕との取引をきちんとまっとうしてくれていたら」
そらさんを責めるのはお門違いだと言うのは分かっていた。でも、一度口にしてしまったら、止められなかった。
「夢の世界に引きずられていなかったら! 札を回収するなんて、簡単なこともできないあなたがいけないんです」
責めたいわけではないのに。言葉は止められなかった。
「もうここには来ないでください! 『彼女』を……返してください!」
「な……によ。『彼女』がいなくなったのは……わたしのせいだっていうの?」
「そうです。さっきからそう言っているではないですか。おかしいと思っていたんですよ。どうやってあの警戒心の塊のような『彼女』に取り入ったのですか? 新井をここに引き入れるため、でしょう?」
「な……!」
そらさんは絶句して、僕を見ている。
きれいな濁りのない空色の瞳に見つめられ、きりきりと心が痛くなる。
そらさんは悪くない。分かっているのに彼女を責める言葉しか出てこない自分の口が憎くなる。
「出ていけ!」
違う。これはただのヤツ当たりだ。悪いのはここに無理矢理入り込んで『彼女』を盗んでいった新井だ。でも、その新井に心を寄せているそらさんを思わず責めてしまう。
「かっ、彼女を探さないと……」
「あなたの協力なんて要りません。もう二度と再び、僕の前に姿を現すなっ! 次に会ったときは、あなたを永遠に醒めない悪夢の世界に連れて行ってあげる」
そんなことが言いたかったわけではないのに──!
心とは裏腹に、僕の唇は口角を上げ、そらさんに笑みを向けている。
そらさんは本当に『彼女』のことを案じてくれている。『彼女』をさらっていったのが新井と知り、どちらの行方も捜したいと心から願っている。新井から次に会った時は殺す、と言われたのにも関わらず。
『彼女』のことをこんなにも思ってくれているのに──。
「帰れ!」
心とは裏腹に口ではそういい……気がついたら、そらさんを家へと戻していた。
だれもいなくなった、闇に包まれた時雨堂。
「はっ……ははは」
眼鏡をつかみ、握りしめる。そのまま乱暴にはずして、力任せに眼鏡を壁にたたきつける。
「ははっ……」
僕はすべてを失ってしまった。
力なくその場に座り込む。
『彼女』がいなければ、札を作れない。
『彼女』がいなければ、理想の世界に行きたいと思っている人たちに札を渡すことができない。
一瞬にして、僕はすべてを失った。
そらさんはきっと、二度と再び僕の前に現れない。
彼女は新井と僕を繋ぐ架け橋だったというのに。
『彼女』は二度と再び、僕の元に戻らない。
僕は闇に埋もれた時雨堂に身体を横たえる。
これは、僕が人の『夢』をもてあそんだ罰、なんだろうか。
ああ、この闇が僕を苦しめてくれればいいのに。
『彼女』があんなに怖がっていたこの闇は、まったく怖くなくて、むしろ──哀しい。
「ははは」
この闇に身体が溶けてしまえば楽なのに。闇は冷たく僕の身体を吐きだした。
闇さえも僕の存在を拒否するというのか。