【断章:そら】01


<<トップへ戻る

0 目次   <<前話*     #次話>>     


 まったく、なんなのあの男は!
 時雨堂から半ば放りだされるように黄色い光に包まれて外に吐き出されたわたしは、ため息をひとつつく。
 そうして、もう二度と再び来ることはない、と思っていたあの嫌な男・津久井の家の前に立っている。
 ちょっと! なんで正面玄関にわたしを投げ出すの、あの男は!
 気が効かない男は嫌いよ。
 どうやって屋敷に侵入しようかと悩み……ふとなにかおかしなことに気がつく。
 二階建ての西洋風の建物は人が立ち入るのを拒否しているかのようにどの部屋にもカーテンがかかり、後ろの扉もしっかりと鍵もかけられて閉められている。そうして、人の気配も皆無。
 もしかしてこの屋敷、空家なの?
 玄関の真正面にいきなり出現させられる羽目になってしまったけど、人がいないのなら入れる……って。
 扉に手をかけ、ノブをひねるが……当たり前だけど、開かない。

「なに考えているのよ、あの男はっ!」

 鍵がかかっているに決まっているじゃない! これをどうやって入れというわけ?
 本当に……使えない男だわ、あいつは。
 わたしはどこからか入れないかと思い、津久井の家の周りをぐるりと回ってみた。
 すると……なにかの罠のようになぜか勝手口がうっすらと開いている。ここで帰る、という選択肢はわたしの中にはなかったのでそっと開けて身体を滑り込ませる。
 窓から入る光で中は思ったより明るい。どうやらここは、屋敷内の調理室のようだ。調理器具などが目に入ってくる。真ん中に大きな調理台がある。そこをぐるりと回ってさらに屋敷の中に入ることができると思われる扉の元へと歩みを進める。
 ノブを回すと、あっさりと扉が開いた。扉をくぐると、そこは一転して真っ暗闇だった。
 目が慣れるまで扉を背にしてじっとする。何度か瞬きをすると、目が暗闇に慣れてきた。
 どうやらここは、廊下らしい。
 ぼんやりと浮かび上がる廊下は左右に部屋が存在しているらしい。等間隔に扉が存在している。
 外から見て分かっていたことだが、やはりこの屋敷はそれなりに大きいらしい。
 ここから津久井本人の部屋を探さなくてはならないのかと思うと、やはりしぐれに対して怒りの感情しか浮かんでこない。
 時雨堂に戻ったら、しばいてやる。
 わたしは心にそう誓い、廊下の真ん中を歩く。暗闇で恐る恐る歩いているからか、妙に廊下が長く感じる。
 歩いていると、少し先に光が見える。足を速めて光のある場所へと向かう。とそこは……。
 見覚えのある風景に息を飲む。そう……ここで、新井と出会ったのだ。
 津久井に無理矢理連れてこられたこの屋敷。正面玄関からひどい恰好のまま中に連れ込まれ……。そう、ここに立っていたのだ。
 わたしは新井と初めて会った日のことを思い出し、新井が立っていたと思われる場所に立つ。そうして玄関を見ると、ここからだとよく見える。
 あいつにはあの時のわたしはどう見えていたのだろう。そうして後ろを振り返ると。

「え……」

 見間違いかと思った。
 あの時は周りを見る余裕なんてなかったけど、今は違う。振り返った先にはまっすぐな階段があり、それは二階へと続いているようだった。その先に、あんなに探し続けていた彼がいた。

「なんで……」

 そこにいるとは思っていなかった。上ずった声しか出すことしかできなかった。

「羽深に言われてここに来たんだろう」

 あれほど聞きたいと思っていた声に身体が疼く。しかし、その声は今まで聞いたことがないほど昏くてぞっとする。久しぶりに見る茶色の瞳は以前よりも闇が深くなっているような気がする。

「俺のことは探すな。おまえは邪魔なんだ」

 ようやく会えたのに。もちろん、会いたかった、なんて甘いセリフを言ってくれるなんて思ってもいなかったけど。
 邪魔、と言われてやはりそうだったのか、という思いが胸に去来して、涙が溢れそうになる。

「もう……わたしは要らないの」

 口を開くとすがるような言葉しか出てこなくて嫌になる。
 一歩、二歩……と新井に向かって歩みを進める。

「おまえなど要らない。こんな感情……俺には要らない」

 新井は胸元を押さえ、苦しそうな表情を見せる。

「おまえなんて買わなければよかった」

 新井の口から出た言葉にわたしの中で我慢していたなにかがはじけ飛んだ。

「津久井なんてあんな最低な男にわたしが抱かれてもいいというの!?」

 あんなにわたしのことを愛してくれたのに。絶えずわたしを求めたじゃない。

「くっ……。あいつはあの後すぐに心臓発作で死んだんだよ」

 むしゃくしゃしたから俺が殺したんだがな。そんなつぶやきにぞわりと鳥肌が立つ。
 俺が殺した。
 新井はそう言った。
 どうやってとかなんで、という言葉が思い浮かぶが、得体のしれない恐怖に身体が震える。

「俺が怖いか」

 新井は嗜虐的な光を秘め、すがめてわたしを見る。
 今まで新井に対して憎い、という気持ちと悲しいという同情の気持ちは持ったが、怖い、と思ったのはこの時が初めてだった。

「遅いんだよ」

 階段の一番上にいた新井は靴音を立てて降りてくる。わたしは恐怖で動くことができないでいる。
 あれほど会いたいと思っていた愛しい人に対して、どうしてこれほどの恐怖の心を持ってしまっているのだろうか。
 新井はわたしの正面に立ち、あごをつかんできた。

「羽深には身体は開いてないのか?」

 揶揄するような視線のまま、新井はわたしの瞳をのぞきこんでくる。

「あの男、朴念仁だな」

 新井にいきなり噛みつくように唇を奪われた。すぐに唇を離され、あごをつかんでいた手を乱暴に振られた。あまりにも勢いがよすぎて、床の上に身体が投げ出される。
 ずいぶんと長い間掃除がされていなかったようで、カーペットの上の白い埃が舞い散る。埃をもろに吸いこんでしまい、咳き込む。

「もう俺のことは探すな。俺の前に現れるな」

 咳き込みながら視線を上げると、新井の背中が見えた。
 先ほどまでまとっていた恐ろしい空気はなりを潜め、今にも泣きそうな背中に思わず抱きつきたくなる。

「次に会った時は、おまえを殺す」

 新井は顔をこちらに向けてくれない。

「餞別にこれをやるよ」

 新井は後ろを向いたまま、わたしになにかを投げつけてきた。黒い札がひらひらと宙を舞っている。それが羽深の言っていた
「回収できずにいる札」
だということが分かり、目を見張る。不吉な色のはずなのに、思わず見惚れてしまった。

「羽深に伝えてくれ。おまえにやるからもう探すな」

 おまえにやる、とはなにをなのか分からなかった。だってこの黒い札、もともとはあの羽深の持ち物なんでしょう?
 黒い札はひらひらと舞い、ばらばらとカーペットの上に落ちた。その中の一枚が鼻先にある。
 それに手を伸ばし、触れた途端……ふっとそこで意識が途切れた。