【十話】ぬれおんな
時計を見ると、部屋に戻ってきて思っていたほど経っていなかった。うたたね程度の時間だったようだ。
維織は眼鏡をかけてベッドから降り、先ほど撮った写真をノートパソコンにコピーした。
デジカメの電池を確認するとまだ大丈夫だったのでそのまま机の上に置き、撮影した写真を一枚ずつ確認していく。
璃々香に言われて脇をしめてカメラを固定して撮ったにも関わらず、それでもかなりの確率でぶれている。風が強かったわけでもないのにどうしてだろう、と維織は悩む。
レンズが汚れているのかと思ってのぞいてみるが、そうでもない。なにがいけないのか分からず、首をかしげた。
インターネットに接続して、念のためにと撮影した写真を自分が所有しているスペースにアップロードしておいた。アップロードする間、ブラウザでメールをチェックをする。
大半がスパムでげんなりしていると、同じ高校だった友だちからメールが来ていた。ゴールデンウィークの後半、時間ができたからどこかのタイミングでみんなで会って近況報告しよう、というものだった。維織はそのメールに今、大学のサークルで撮影旅行に出ていてこんな写真を撮ったよというアドレスとともに返信したところで、アップロードが終わったようだったのでパソコンを閉じた。
部屋を出ると、青葉がやってきたところだった。
「そろそろお昼にいたしますので食堂へどうぞ」
と丁寧にお辞儀をされたので、維織もつられてお辞儀をして、
「ありがとうございます」
と答えた。青葉はそのまま無表情で隣の璃々香の部屋をノックして同じように伝えている。
「青葉、しんちゃんの部屋はいいわ。わたくしが伝えておくから」
青葉は無言でお辞儀をして、調理場へと去っていった。
「少しは休めたかしら」
心配そうな表情の璃々香は維織にそう聞いてきた。
「お陰さまで」
少し寝たことでそれなりにすっきりしていたのでそう答えたが、起きる間際に見た夢のことは黙っておくことにした。
維織は夢を思い出し、全身に鳥肌が立った。
松風のお面が落ちてこなかったらどうなっていたのだろう。起きられなくてあの白い手につかまれていたら。
想像したら怖くなったので、維織は否定するために頭を強く振った。
「その割には顔色が優れないけど、寝起きだからかしら?」
「たぶんそうだと思います」
そんなに顔色が悪いのかな、と思い、維織はお手洗いに行くついでに鏡を確認することにした。
お手洗いは各部屋にはついておらず、食堂の前と調理場の前、そして昨日、維織が入ったお風呂とはまた違うお風呂の前の三か所にあった。今からお昼を食べるという関係もあり、食堂前のお手洗いに維織は向かった。
扉を開けて電気を付ける。きれいに掃除されたお手洗いは、窓から柔らかな日差しが差し込んでいて、少しだけ安堵した。
用を足して手を洗いながら鏡をのぞきこむ。
「ひぃっ」
鏡には扉の開いた個室の中にずぶぬれの恨めしそうな表情をした女がうつっている。今日の朝、お風呂場で見た女と一緒だ。維織は意を決して勢いよく振り向く。しかし、個室の中にはだれもいなかった。再度、鏡を見ると、やはり自分の顔以外はうつっていない。
血の気の引いた白い顔に悄然とした表情。冷たい水を顔に掛けて、見たことを忘れることにした。
「維織、どうしたのっ」
お手洗いから出たら、璃々香と真吾の二人が食堂へ入るところだった。璃々香は維織を見て、驚きの声をあげて青葉を呼んだ。
「タオルを持ってきて」
青葉は維織を見て、いつも無表情なのに少しだけ驚いた顔を見せてあわててお手洗いの横の部屋に入り、手に複数枚のタオルを持って戻ってきた。
「維織、このままだと風邪を引くわよ」
水で顔を洗っただけなのになんでそんなに大げさなのだろう、と維織はタオルを受け取りながら疑問に思った。
「お手洗いでなにをしてきたの。全身、びしょぬれじゃない」
璃々香にそう指摘され、維織は改めて自分に視線を落とした。タオルを持つ手が濡れているのは分かる。言われて初めて気が付いたが、上半身が濡れている。さらには下半身もびしょぬれだ。
「青葉、食事の支度が済んだら申し訳ないんだけどお手洗いを点検してちょうだい」
「かしこまりました」
どうしてこんなにびしょぬれになっているのか維織には分からなかった。
「食事の用意をしてもらっている間に着替えて来て。このままだと風邪をひいてしまうわ」
璃々香に言われて大量のタオルとともに維織は自室へと戻った。
濡れて身体に張り付く衣服をどうにか脱いで、悲鳴をあげそうになった。右の二の腕にくっきりとつかまれたような指の跡が残っていたのだ。
「なに、これ」
乾いたタオルで腕をこするが、跡は消えない。赤くなって血がにじみそうになったところでこすることをやめた。
維織は服を急いで着替え、食堂に戻る。
食堂では維織が来るのを待っていてくれたようだ。青葉はすでにいなかった。
「食事にしましょう」
青葉の作ってくれた食事は相変わらず美味しかったが、朝から続く怪異にさすがに食欲もなく、維織は早々に箸を置いた。
「お口に合いませんでしたか」
いつの間にか戻ってきていた青葉に後ろから言われ、維織は椅子から転げ落ちた。
「突然お声をおかけして、失礼しました」
青葉は椅子から落ちた維織を支えて立ちあがらせ、椅子へと座らせてくれた。
「お手洗いを点検いたしましたが、水漏れなどは見当たりませんでした。洗面台の周りも濡れていませんでした」
淡々と事務的に事実のみ述べる青葉に、璃々香は眉間にしわを寄せた。
「そう。維織、どこであんなにびしょぬれになったの?」
維織も訳が分からない状態だ。自分はただ、顔を洗っただけなのに、お手洗いから出たら全身がびしょぬれになっていた。
「服を着たままお風呂に入ったみたいに濡れていて、驚いたわよ」
「維織ちゃんは水も滴るいい女になってなくて残念だったなぁ」
真吾のあざけるような言い方に反論しようとしたが、真吾の首筋のあたりをあの白い手がまさぐるようにしているのを見てしまい、なにも言えなくなってしまった。
押し黙ってしまった維織を見て、真吾はさらになにか言っているが、あの白い手は真吾のあごをなで、人差し指で唇をなぞっている。その艶めかしい行為に、維織は恥ずかしくて赤くなっていくのを自覚した。
「どうしたんだ、ちび助。なに恥ずかしそうに赤くなってるんだ? あ、もしかして……我慢できなくておもらしでも」
さすがにその言葉に維織は切れた。
「天野先輩と一緒にしないでください!」
「なっ。俺がいつ、おもらししたんだよ!」
こうなってしまったら、売り言葉に買い言葉。維織と真吾の二人は小学生レベルの悪口の言い合いとなり、璃々香は呆れて止めることをしなかった。
「えーっと……天野先輩のえんがちょ!」
「維織、それって意味が分からない!」
「えんがちょはえんがちょ、ですよっ!」
「はい、二人とも、それくらいにしましょう」
璃々香は頃合いを見て二人を止めた。
「それはそうと、どうやら夕方くらいから天気が崩れてくるみたいなのよ。嵐にはならないとは思うけど、海が荒れる予報が出ているから、気を付けてね」
「海が荒れるって……。あの、クルーザーは」
明日まで我慢すればこの島から脱出できる、と思っていたのに、どうやら空はあやしい気配のようだ。
「予報では明日は晴れるというから大丈夫だとは思うけど、あの、維織には悪いけど、もしかしたらもう一日、滞在を伸ばさないといけないかもしれないわ」
その言葉に維織は絶望感一杯になった。
「青葉、一日伸びるくらいなら、食料は大丈夫よね」
「はい。二・三日分は余分に確保してありますので、ご安心を。ただ、少しお食事は質素になりますが」
「いいわ。少し量も多いようだから、減らしてちょうだい」
「かしこまりました」
起きてすぐに付けたテレビでやっていた今日の天気予報は、一日中晴れだったはずだ。それがここに来て急に崩れるとは、あの白い手の仕業だろうか。
維織はそこまで考え、白い手が天候を操るほどのなにかを持っているとは思えなくて、自分のあまりにも後ろ向きな考えを一蹴した。
「天気が崩れる前にもう一度、外を撮影しましょうか。昨日、撮った写真もぶれていたみたいだし」
璃々香の提案に維織はうなずき、三人揃って食堂を出た。
般若池に行く前に部屋に寄り、デジカメを持ちだす。璃々香を先頭にして次に真吾、後ろを維織の一列で外に出て、池へと向かった。
般若池の周辺は他の場所より松の木が少なくて、海風がかなりきつい。昨日はそれほど思わなかったが、やはり天気が下り坂のせいか、頬を打ち、髪をかき乱していく風はかなり強い。太陽も雲に隠れて薄暗く感じる。
「維織、脇をしめて」
璃々香に指摘され、維織はデジカメを両手でしっかりと持ち、脇をしめてシャッターを押す。
般若池の上のウキクサは相変わらずみっしりと隙間なく浮いていて、気持ちが悪い。
東から西に向かって歩きながら維織と真吾は写真を撮った。
「天野先輩、あとで今まで撮った写真のデータ、いただけますか」
「どうするんだ?」
「インターネットに写真をあげておこうと思いまして」
「ああ、それならあとからアドレスを知らせるよ」
どうやら真吾もアップロード済みのようだった。
昨日は般若池の東側ばかり撮っていたので西側にくるのは初めてだった。
「こちらにいったら井戸に通じているの」
細長い池の端に着いて、璃々香はそう説明する。
「井戸をもう一度見て、能面館に戻って通過してから宿泊棟に戻りましょうか」
異論はなかったのでそのルートで戻ることにした。
般若池からまいまいず井戸へと行くと、朝に見た風景とはまた違った様子で、維織は写真をかなりの枚数、撮った。
「小さい島だけど、こうやって写真を撮って回ると意外に撮る場所があるわよね」
立派なクロマツが多いこともあり、意外に撮りごたえのある場所であった。井戸の周りも撮り、能面館への道すがらも何枚か撮った。能面館の廊下も撮っているのを見て、璃々香はさすがに苦笑している。
「もう一度、部屋の中も撮る?」
と言われたが、ここにくるまでもかなりの枚数を撮っていたので一度、部屋に戻ることにした。
維織はこの島のすべてを写真の中に切り取って残しておきたい、と焦燥感に似たなにかを抱きながらシャッターを切った。