【四話】能面館・一の部屋
真吾は能面館の中に入ってすぐに電気を付けてくれたようで、維織が中に入ると様子がすぐに分かった。
この建物も隣の宿泊棟と同じ作りで、正方形に十字の廊下が通った作り。上空から屋根を取りはらってみた様子を維織は想像して、それが
「松花堂弁当」
のように思えて思わず笑ってしまった。
「なに笑ってるんだ?」
一人で笑いをこらえている維織を見て、真吾はそう声をかけてくる。
「ここと隣の建物、松花堂弁当みたいで」
そう言われ、真吾も松花堂弁当と建物の作りを比べて笑う。
「維織、うまいこというな」
「いえ、それほどでも」
真吾に褒められ、維織は照れる。
「こちらの建物は宿泊棟と違って四部屋のみ。大きさは向こうと変わらないから、一部屋がびっくりするぐらい大きいんだ」
真吾は説明をしながら、すぐ近くの右側の部屋の観音開きの扉の片側を開け、電気を付けて中に入る。維織も後ろから続き、中に入るなり、思わず。
「うぎゃあ」
百年の恋も冷めそうな悲鳴をあげてしまった。
維織が驚いても仕方がないだろう。広い部屋の中は、壁一面に上から下まで隙間なく能面が飾られていた。それが扉の部分をのぞいて四面ともみっしりと、だ。天井と床には能面が飾られていないのはまだ救いか?
「驚くだろう、これ」
真吾はいたずらが成功した悪ガキのような表情で維織を見る。
「これらの能面を作り続けた男の名前は植松繁史(うえまつ しげふみ)。狂ったように死ぬまでこれだけの量の能面をここで打ち続けたらしい」
広い部屋の壁に彫っている途中の物から完成した物まで様々な作品が掛けられている。彼が生涯をかけて打ち続けた作品すべてがここにおさめられているのだろう、と思われるほど。
「植松はなにを思ってこんなに能面を作ったんだろうな」
維織は怖くなり、へっぴり腰のまま後ろへと下がる。
「ほら、維織。ここで好きなだけ写真を撮れ」
「え……いえ。え、遠慮いたし、ます」
一つの面でも怖いのに、ここまで能面があると怖すぎる。思わず、維織は恐れ戦く。
「遠慮するな」
真吾は恐ろしいほどの笑顔で迫ってくるので維織はまたもや可愛げのない悲鳴を上げ、逃げる。真吾に追われ、維織は部屋の真ん中に来ていた。部屋の中心部に立つと、壁にかけられた能面すべての視線を感じるような気がする。
「せせせせせせ、せっ」
あまりの数の多さに維織は気が動顛している。
「天野先輩! 私、戻ります」
維織は涙声なのを自覚しつつ、真吾に懇願する。
「戻るといわれても……」
真吾は泣きそうな維織の言葉に頭をかいた。
「いや……まあ、これはちょっとした冗談だよ。別の部屋にいって、そちらで撮影しようか」
真吾はさすがにやりすぎたと思っているようで、維織にすまない、といいながら部屋を出るようにうながす。
維織は涙が浮かんだ瞳をこすり、外に出ようとしたところ、後ろでかすかな音がした。
「なっ、なに!?」
音に驚き、維織はすばやく後ろを振り返るが、特になにもない。
嫌だなぁ、と思いながら元に戻り、歩こうとしてふと真吾を見ると、青ざめて維織の後ろを見ている。
「天野先輩?」
「い、い、いいいいい、いおり」
真吾は震えながらゆっくりと指を維織の後ろへ向ける。
「や、やだな、先輩。おどかさないで……」
維織は再度、ゆっくりと振り向くが……先ほどと変わりない。
「先輩! ふざけないでくださいよ!」
維織は先ほどまで怖がっていたのを忘れ、真吾に対して怒りをあらわにした。しかし、真吾は変わらず、がくがくと震えている。それは維織を驚かしてやろうという態度とはまた違い、これが演技だとしたら大したものだ、と思いながら維織は首だけではなく、身体ごと回転する。
維織が振りむいた瞬間。それに合わせるかのように壁にかかっていた能面すべてが一瞬、宙に浮かぶ。維織はその有り得ない光景に目を見開く。糸が切れたかのように能面たちは一気に地面へと落ちた。けたたましい音が部屋の中を襲う。
「なななな、なにっ!」
「逃げるぞ、維織!」
真吾は二・三度転げながら出口へと向かう。維織もあわててその後を追いかける。
扉の前にも能面が落ちていたが、真吾はかき分け、ドアを開けると飛び出した。
「待ってください!」
数メートル先のドアは無常にも音を立ててしまる。維織は一人広い部屋に地面に大量に落ちた能面たちと残され、パニックに陥る。
「ややや、やだ、帰る、先輩、おいていくなんてひどい!」
維織は必死になって追いかけ、ドアノブに手をかけるが。
「開かない!」
右に左にと回すのだが、びくともしない。
「天野先輩、開けて!」
能面が先ほどのようにまた宙に浮かんで一気に維織を襲ってきそうで、一刻も早くこの部屋から出たい。なのに、ドアは開かない。
「いや、いや、やだやだ!」
維織は耐えられなくなり、ドアを強く叩く。
「開けて、開けて! いやあああ」
ドアノブを必死にひねりながら維織は叩く。
維織はふとドアノブに視線を落とすと、ロックがかかっていることに気がつき、震える手を伸ばして解除して、ようやく部屋の外に出ることができた。
部屋を出て、廊下を見ても真吾はいない。維織はそのままの勢いで建物の外に出て、宿泊棟に戻った。
「あら、維織。どうしたの?」
タイミングよく現れた璃々香に維織はほっとする。
「宮下先輩! 天野先輩を見かけませんでしたか?」
「しんちゃん? どうしたの?」
維織は先ほど、能面館で見た出来事を璃々香に話した。
「能面が?」
「そうなんです! 一瞬、宙に浮いた後、全部が落ちて……」
「もしもそうなら、大変だわ。今から確認しにいきましょうか」
維織の話を聞いても顔色一つ変えない璃々香に安堵を覚えつつも、その言葉に泣きそうになる。
璃々香は肩にかかった髪の毛を払いのけ、歩き始めた。維織は璃々香一人をあそこに行かせるのに気が引けた。しかし、自分がついていくのも嫌だがここに一人残されるのも嫌で、璃々香の後ろに仕方がなくついていく。
「ほんと、お父さまの悪趣味にはほとほと困りますわ」
璃々香は独り言のようにつぶやく。
「植松家は宮下家の遠縁にあたるらしいの。ここで能面を作り続けた繁史は祖父に多大の借金をしてこの島を手に入れ、この二棟を建てたみたい。繁史は能面を売って借りた資金返済に充てようとしたみたいなんだけど……」
世の中、そううまくはいかないわよねぇ、と少し遠い目をしながら璃々香は能面館の入口を見ている。
璃々香は躊躇することなくドアを開け、中に入る。右側の部屋を開け、
「維織、なにもなってないわよ」
夢でも見ていたんじゃないの? と笑いながら中に入っていく。維織は璃々香が部屋に入ろうとするのをとめようとしたが、すでに遅かった。
「宮下先輩、待って」
維織は泣きそうになりながらドアノブを握り、意を決してひねり、中を隙間からのぞく。
「あれ?」
先ほど、出る前には地面に能面がすべて落ちていたのに、それが嘘のように最初に入ったときと変わらず、能面すべてが壁にかかっていた。
「相変わらず、気持ちが悪い部屋よね。この部屋はね、お父さまが自らひとつずつ、ここに能面をかけていったの」
正気の沙汰じゃないわよね、この能面を作った繁史もお父さまも。
と璃々香はため息混じりに口にする。
維織は怖いけど先ほどのことが夢なのか現実なのか見極めたくて、もう一度部屋に入る。
中に入ると、やっぱりものすごい数の能面に圧倒される。あまり気持ちのいい空間ではない。
「ほら、なんともないでしょ?」
璃々香のにこやかな笑顔に維織は複雑な気分になる。
「さて、戻りましょ」
璃々香の声に維織はあわてて部屋を出た。
璃々香は部屋の電気を消し、維織に館から出るようにいい、外に出る。
「しんちゃん、どこに行っちゃったのかしら。そろそろお昼だからと思って呼びにいこうとしたところだったのよね」
お昼、といわれたとたん、維織のお腹がなった。璃々香はそれを聞いて、くすくす笑っている。
「色気より食い気!」
維織は恥ずかしくて、お腹を押さえる。
「わたくしもおなかがすいちゃった。しんちゃんはおいといて、先に食べましょ」
璃々香は宿泊棟に向かって走り出した。維織もあわてて、その後を追いかけた。