『怨人─オニ─』


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四章・前



 蓬莱谷ほうらいや高校の制服を着た少女が一人で薄暗い明りの中、歩いていた。先ほど万代をいじめていた千真である。今年高校三年生の彼女は、大学受験のために塾に通っていた。
 いつもは同じ方向に帰る仲の良い子たちと連れだって帰宅するのだが、今日は何度考えても分からない問題があり、塾の講師に分かるまで聞いていたため、遅くなってしまった。
 同じクラスではないが、千真もまた、朔也のことが好きだった。彼に少しでも近づきたくて、朔也が志望している大学に入りたいと思い、必死になって勉強をしていた。がむしゃらに勉強をしてもしても、まったく朔也には追いつきそうにない。焦る千真にさらに追い打ちをかけるように教師と塾の講師はやめておけ、おまえのレベルではそこの大学は無謀すぎる、こちらの大学にしろ、と朔也の望んでいる大学とかなり離れたところをすすめてくる。それが嫌で、千真はとにかく必死になって勉強をしていた。
 朔也はみんなのあこがれの人。蓬莱谷高校の女子は多かれ少なかれ、朔也に対して好意を持っていた。彼のことを遠くから見つめている人はたくさんいたし、みんなで同じようにきゃあきゃあ言い合うのもそれはそれで楽しくもあった。
 千真ももちろん、朔也の特定の彼女というやつになれるのならなってみたいとは思ってはいたが、そんな大それたことなんてできるわけないし、もしなれたとしても周りが黙っているわけないのも分かっていた。それでも少しでも近づきたいと思ってずっとチャンスをうかがっていた。
 その先々でやたらに万代が自分の視界に入る。前から暗くて気持ちが悪い万代にあまりいい感情を持っていなかったが、なにかのはずみでうっとうしい存在を小突いたら、心の中のもやもやが晴れたような気がした。
 それからというもの、千真は仲の良い佐々木楓実ささき ふみと山崎利華とともに万代を見かけてはいじめていた。この三人は万代に対してなにかあったわけではない。千真の視界にやたらに入るうっとうしい存在というそれだけの理由でいじめていた。三人がなにをしようと抵抗しない万代にいい気になっていた千真たちは、今日、初めて抵抗らしいそぶりを見せたことに対して怒りの感情を抱いていた。
 罠を仕掛けているなんて。あいつ……許せない!
 分からなくてずっと悩んでいた問題がようやく解決してすっきりしたところで、千真は今日の出来事を思い出し、いらいらとしていた。万代が抵抗するなんて、有り得ない。今度見かけたら、どうしてやろうか。そうだ、スカートの中身を撮って、男子に送りつけてやろう。
 千真は自分の考えに少しすっきりとする。その思いつきにすっかり楽しくなり、千真はスキップしたい気分だった。
 唐突に耳をふさぎたくなる金属質な声がしてきた。千真は一瞬、足を止める。周りを見るが、真っ暗な道にさみしげに明かりを灯している街灯しか見えない。動いている物は自分以外ない。
 再度、同じ声が聞こえた。千真はこんなに暗いのに鳥でもいるのだろうかと空を見上げた。その途端、顔に今まで感じたことのない熱い感覚が訪れた。千真は驚き、顔を伏せる。頬に熱い液体が伝う。鉄くさい臭いが鼻をつく。カッと熱くなる。
 声が聞こえる先に視線を向け千真は悲鳴を上げようとしたが、あまりの突然の出来事に、喉の奥で声が凍る。それは、頬の熱とは対極の感覚。
 怖い。
 千真はそれだけ認識した。次の瞬間。彼女の意識は身体へ感じる強い衝撃とともに、どこかへと飛んで行った。

     *

 翌日、胡桃はいつも通り、目覚まし時計に起こされた。眠い目をこすりながら起きて、制服に着替える。昨日、壮一から貰った鈴のお守りは携帯電話に取り付け、いつも通りにポケットへと入れておく。
 とても悲しい夢を見た。あまりの理不尽さに胸が張り裂けそうになった。いきなり切りつけられ、倒れたところを背中に刀をつき刺された。見ているこちらが痛くて切ない。目が覚めて、その後味の悪い夢になんだか寝た気がしなかった。
 少しばかり夢の残滓に引きずられつつぼんやりと朝食を摂り、学校へ向かおうと家を出たところで、同じマンションに住む幼なじみの猿木淳平さるき じゅんぺいと珍しく出会った。
「淳平、おはよう。珍しいね、あんたがこんな時間から学校なんて」
「ああ」
 淳平は胡桃の幼なじみで、同じ年。産まれた日も胡桃が三日早いだけで、兄弟のいない胡桃は淳平とは兄弟同然で育ってきた。
 淳平は学校のサッカー部に所属していて、一年生からレギュラー入りしているほどだ。しかも三度の飯よりサッカーが好きなサッカー馬鹿で、朝も早くから学校に行ってサッカーの練習をしている。胡桃が学校へ行く時間には淳平は学校でランニングをしている。
「ちょっと耳が痛くて」
「鬼の霍乱だ!」
 胡桃の声が耳に響くのか、淳平は顔をしかめて頭を押さえている。それを見て、胡桃はたまに二日酔いでつらそうな表情をする母・明枝を思い出した。明枝はもったいないからと神社に寄進されたお酒をありがたく頂き、たまに飲み過ぎて二日酔いになって、壮一が介抱していたのを思い出した。
「そんなに調子が悪いのなら、薬でも飲んで家で寝ていなさいよ」
 胡桃は淳平の背中を押してエレベーターのある場所まで連れていこうとする。しかし、淳平は胡桃を振り払ってエントランスから外に出ていこうとしている。それを見て、胡桃は淳平を止めようと口を開く。
「淳平、無理して行かなくても」
 淳平は胡桃と成績はどんぐりの背比べ、どちらかというと勉強は苦手な部類だ。サッカーは大好きなはずだが、頭痛を押してまで学校に行こうとする性格ではないことは知っているので胡桃は疑問に思う。
「もしかして、家でなにかあったの?」
 胡桃は一人っ子だが、淳平には兄が二人いて、大学生で二十歳の秀明ひであきと、朔也と同じ学年の十八になったばかりの一つ上の雅大まさひろだ。年頃のむさい男ばかりでよくけんかをするらしく、三兄弟の母・菊世が嘆いているのを知っているので、二人とまたなにかあったのかと胡桃は勝手に推測した。
「なにもないよ、ばーか」
 普段と違わない憎まれ口に腹を立てたが、あまりにも顔色の悪い淳平が心配になる。胡桃は手を伸ばし淳平の額に触れる。淳平は胡桃の行動に驚き、不自然なほど飛び退く。
「あ、ごめん」
 胡桃としては昔と変わらない調子でいたのだが、淳平にそういう反応をとられたことに驚き、手をひっこめた。胡桃はなんとなく座りが悪くて、なにか突破口はないかと腕時計に視線を落とす。
「うわっと! 急がないと遅刻だ!」
 胡桃は淳平を気遣いながらも告げる。淳平も携帯電話で時間を確認して、胡桃の後を追いかけるようにマンションから飛び出す。
 マンションを出た途端、淳平は今まで以上にひどい耳なりと、締めつけるような激しい頭の痛みに再度襲われ、耐えられなくてしゃがみこむ。胡桃は気がつき、あわてて戻る。
「淳平、大丈夫?」
 胡桃は急にしゃがみこんだ淳平が心配になり、防具の入った袋を地面に置き、顔を覗き込む。ものすごく頭が痛むのか、淳平は脂汗を垂らして頭を押さえている。その姿は、昨日の朔也と重なった。胡桃はまさか昨日の今日で? と思うが、壮一の言葉が頭をよぎる。
『最近、どうも町の空気がざわめいていて、嫌な予感がするんだ』
 壮一の言う、町がざわめいているというのは胡桃には分からない。だけど、確かになにかが起こっているのは確かだ。
 胡桃は妙な視線を感じた。あたりを見渡すと、マンションのエントランスを抜けた前にある一軒家の隙間に昨日のあの異形の者が、いた。
「う……そ」
 昨日、胡桃は確かにあの変な生き物を砕けさせたはずだ。それがなぜかまた、目の前にいる。今日の異形の者は最初から胡桃に対して敵意を向けている。胡桃は頭を抱えて脂汗を垂らしている淳平が気になったが、目の前の緑色をした異形の者を撃退するために竹刀を構える。
「胡桃?」
 胡桃の気配に痛む頭をかばうようにして視線をあげ、見てしまった。緑色の肌に赤い目をした奇妙な生き物を。身長は二・三歳の子どもくらい、その割には手足は細く長い。骨に緑色の皮が張り付いたような奇妙な見た目、赤い目、爪は鋭くとがっていて、竹刀なんて簡単に壊れてしまいそうだ。海藻がはりついたような髪の毛。全体的にじっとりと濡れている見た目に背筋が凍る。
 淳平は立ちあがった胡桃をかばおうとするが、奇妙な存在を目にした途端、先ほど以上の頭痛に襲われる。
「あんたは昨日、あたしが倒したはず」
「きききぃ」
 胡桃の言葉に異形の者は反論の声を上げる。不快な声は昨日のいらだちを思い起こさせる。
「あんたたちのせいで、あたしは昨日、道場で散々な目にあったのよっ」
 完全なるヤツ当たりではあるが、おぞましい姿に心が折れてしまいそうになるので自分を鼓舞するためにそんなことを口にする。
 足元にうずくまり、淳平は気遣わしげに胡桃を見上げる。
「淳平、大丈夫だから」
 昨日と同じように眉間を突けばきっと砕け散る。胡桃は信じて、竹刀をにぎりしめた。異形の者はガラスを爪で擦った時のような耳障りな声を立て、笑っている。昨日のヤツと同じならば眉間を突けばと思って気持ちが悪い見た目を我慢して見るのだが、昨日はあんなに鮮明に見えたものが見えない。あれは偶然、だったのだろうか?
「胡桃、逃げろ!」
「大丈夫だよ。昨日、やっつけたもん」
 胡桃のあっけらかんとした言葉に、淳平は眉をひそめる。
 なにがやっつけたもん、だ! 馬鹿野郎、早く逃げろ!
 淳平は心の中で叫ぶが、異形の者が耳障りな声を出すたびに耳の奥がきりきり痛む。言葉を発したくてもあまりの痛さに不可能だ。今までこんなことなかったのに。自分の身になにが起こっているのだろう。
「覚悟しなさい!」






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