『月をナイフに』


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《四》荒れる世界01



※残虐表現があります。

 真珠たちはカーネリアンと別れると、アツィーム に伸びる街道を歩いていた。この先にアラレヒベがあるのだという。スアヴァーリの往来の邪魔にならないように街道の端を歩き、疲れたら休憩を入れて、日が沈むまでと決めて、ひたすら歩いた。
 だが、今日はジャーグナの一件で思っていたよりも時間を取られてしまい、距離を稼げなかった。
 太陽が沈み始め、あたりが暗くなり始めたので、脇道に逸れて休むことにしようと決め、ほっとした頃。

「グルルルゥ」

 真珠の耳に、不吉な声が聞こえてきた。あわてて周りを見るが、見当たらない。真珠以外は聞こえてないのか、特に周りに注意を払っているように見えない。
 もしかして、疲れていて幻聴を聞いてしまったのだろうかと悩んでいたら、もう一度、低いうなり声が聞こえてきた。
 次はさすがに気が付いたようで、モリオンとルベウスは剣の柄に手をかけた。

「ガアアア!」

 萎れた繁みが動いたと思ったと同時に、中からなにかが飛び出してきた。
 モリオンとルベウスは剣を抜くと、問答無用で切り付けた。が、相手はそれよりも素早く動き、仕留めることはできなかった。

「ちっ」

 二人は舌打ちをして、飛び出してきたなにかに対峙した。
 真珠たちの目の前には、オレンジの毛で緑のまだら模様が入った派手な獣が頭を低くして、うなり声をあげている。後ろ足に少し力を入れれば、簡単にとびかかってこられる体勢でこちらをじっとうかがっている。
 ずいぶんと派手だなと、真珠はのんきに見ていたのだが……。

「ティグレ?」

 マリがその獣の名前に思い当たり、口にした途端。

「グアァア」

 と一吠えして、ティグレは地面を力強く蹴ると、軽々と真珠たちの頭の上を乗り越え、後ろに降り立った。あわてて振り返ろうとしたが、それよりも早く、ティグレは鋭い爪を持った前足で真珠の背中に爪を立てようとしていた。

「うわっ!」

 真珠は驚き、よろめいてどうにかその攻撃をやり過ごせた。そばにあった壁に、ティグレの爪痕が刻まれた。

「カッシー!」

 ティグレはどうやら、真珠に標的を絞ったようだ。
 さきほどはどうにか避けることができたが、思いっきり尻餅をついてしまい、お尻がすごく痛い。顔をしかめながらお尻をさすっている真珠にティグレが向かう。

「くそっ」

 モリオンは舌打ちをして、ティグレと真珠の間へ滑り込み、剣を薙ぎ払う。ティグレは空気に足を掛けるようにして宙で止まり、その剣を避けた。
 そしてこんな状況にもかかわらず、宙に立てるなんてすごいと変な感心をしている真珠。

「……肉」

 モリオンの口からこぼれ落ちた単語に、真珠は眉間にしわを寄せた。

「こいつの肉は、美味しいんだぞ!」

 どうやら、聞き間違いではなかった。
 ティグレは地面に降り立ち、まっすぐ真珠だけを見ている。牙を剥き、口からは大量のよだれが流れ落ちてきている。

「ぼっ、ぼくなんか食べても、美味しくないから!」

 手足を振って必死に否定をするのだが、実はそれが逆効果だということを真珠は知らない。
 ティグレは上体を低くして身構え、後ろ足に力を入れると真珠に向かって跳躍した。

「いやああああ!」


 真珠は顔の前に腕をあげ、自分をかばった。そんなもので避けられないのは分かっているが、動けなかったのだ。
 一瞬後、生温かな液体が頭から降ってきて、次にどさりと重みを感じた。支えきれず、地面に押し倒された。
 頭からかじられるのかな、それとも首筋を一気にあの鋭い爪でかき切られるのかな……。
 顔を背け、訪れるであろう苦痛を覚悟していても、衝撃を感じた後、なにも来ない。
 真珠は恐る恐る目を開き、背けていた顔を戻すと……。

「!」

 ティグレが舌を出して力なく、真珠の上にもたれ掛かっているのが見えた。

「うっ……」

 獣特有の生臭さと、血の臭い。

「カッシー、悪かったな」

 とまったく悪びれた様子もなくモリオンは真珠に近寄り、上に乗っかっているティグレの首根っこを持つと、持ち上げてくれた。

「おい、ルベウス。ティグレの処理の手伝い、出来るか?」
「ボクをだれだと思っているのですか。手伝いと言わず、ボク一人で処理出来ますよ」
「なにを言ってるんだ。こんなでかいのを一人でさばけるかい」

 モリオンとルベウスは二人がかりでティグレを持ち上げると、休もうと目指していた広場に入っていった。
 残されたのは、血まみれの真珠とマリ。

「……カッシー」

 心配そうに、だけど怖いのか、近寄ってこないマリ。

「うっ……」

 今まで、そこそこ危ない目には遭ってきた。といっても、この状況を思えば、まだかわいげがあったんだなと真珠は初めて知った。

「うう……っ」

 自分ではまだ余裕があるのだなと思っていたのだが、あまりの怖さに感覚が麻痺していたようだ。身の危険が去った今、実は怖かったという感情がようやく正常に働きだし、そして、血まみれになってしまったことに、真珠は感情が高ぶり、声を上げて泣き始めてしまった。
 マリはそっと、真珠の側で見守っていてくれた。

 真珠が泣き止むのを待ち、マリはこの辺りに温かなお湯が沸く泉があるはずだと教えてくれて、探すことにした。
 広場に入ると、モリオンとルベウスが言い合いをしながらも手際よくティグレを解体している。

「二人とも、今日の夕食は少し豪華だから、期待しろよ!」

 モリオンが声を掛けてきたのだが、マリはキッとにらみつけ、無言で広場の奥についている細い道へと入っていった。真珠は追いかける。
 それほど歩かず、小さな小屋を見つけた。

「ここよ」

 小屋には鍵は掛かっていないようで、簡単に扉が開いた。

「中は設備が整っているはずだから、使ってちょうだい」

 マリはそれだけ言うと、真珠を小屋に残し、広場に戻っていったようだ。
 真珠は戸惑ったものの、扉を開けて、中に入った。
 掘っ立て小屋といった感じで、それほど広くないが、隅に道具が一式、そろっているようだ。
 真珠は小屋の中を汚さないように気をつけながら歩き、桶に入った道具を受け取り、さらにその先にある引き戸の前に立った。
 立て付けが悪いそれを必死になって開けると、目の前には岩で出来た洗い場と浴槽があった。
 周りは壁などはないが、萎びているとはいえ、植物が生えているからこれが目隠し代わりになっているようだ。
 真珠はそっと中に入り、端で血まみれの服を脱ぎ、桶の中にあった布を取りだして身体を隠した。
 蛇口はないのかと探したが、あるわけないと分かり、湯船に近づき、桶でお湯をくみ上げて身体にかける。ほどよい熱さにほっとする。
 頭巾をかぶって髪の毛を隠しているとは言え、血にまみれて髪にもかなり絡みついている。お湯をかぶり、慎重にほぐす。石けんやシャンプーのようなものは見当たらないが、この世界に飛ばされてからずっと身体をぬぐうことさえ出来ていなかったので、ありがたかった。
 少し小さめの布が入っていて、それがあの拭うだけで洗ったような感じになる布と同じと分かり、お湯につけてみると驚くことに泡立ってきた。それで身体を洗い、頭も洗うと、かなりすっきりした。
 キレイになったので、湯船にも浸かってみる。
 少しとろっとした不思議な湯。
 ほこほこと温まり、真珠は湯船から上がった。
 ……のだが、そういえば着替えがないと気がつき、頭を抱えた。

「カッシー、いますか?」

 脱衣場にあたる小屋からマリの声が聞こえる。

「うん、いるよ」
「着替え、置いておきますね」
「ありがとう、助かった」

 相変わらず気が利くなとほっとした。
 着替えて、小屋から出るとマリが待っていてくれた。

「久しぶりにお風呂に入れて、すっきりした」
「それは良かったです。脱いだ服は、どちらへ?」
「あ……洗い場に置いてきた」
「分かりました。わたしが片付けてきますね」

 マリは真珠と入れ替わりに中へ入っていったので、真珠は細い道を戻り、広場へと出た。

「お、すっきりしたな」

 モリオンはすぐに真珠に気がつき、声を掛けてきた。

「飯はもう少しで出来るからな」

 周りを見ると、すっかりキレイに片付いている。モリオンの前には火に掛けられた鍋が見える。あの中にティグレが入っているかと思ったら、真珠は食欲をなくした。

「ぼくは……いらないよ」

 真珠の言葉に、モリオンは顔をしかめた。

 





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