『偽りは舞う』


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《二十三》



 定時の五分前になると、大和は椅子から立ち上がり、出かける準備を始めていた。それを見て、万里は内心、焦った。出かけるのは分かっていたのだが、定時が過ぎてから片付ければいいかと思っていて、そのつもりで作業を進めていた。

「万里ちゃん、時間になったら出るから、キリのいいところで終わっていいよ」

 万里の焦りを読み取ってくれたのか、大和のその一言に少し救われた。
 急いで片付けをして、それから手洗いに向かった。
 鏡を見て、問題ないか確認して、部屋に戻るとちょうど定時となった。
 すでに閏と大和は出かける準備が出来ていて、万里が戻ってくるのを待ってくれていたようだ。

「すみませんっ!」

 ロッカーから鞄を取りだし、万里は肩にかけ、二人の前に立った。

「それじゃ、行こうか」

 閏の冷ややかな視線が気になったが、万里は見なかったことにして、大和の背中を追いかけた。

 万里たち三人は車に乗りこんだ。
 日が暮れ始めた街中は、明かりがつき始めていて、華やかな気分になる。
 前もって予約を入れていると言っていたが、どんな店なのだろうか。
 高揚する気持ちもあったが、後部座席の二人が朝と打って変わって静かなのが不気味だ。
 万里が手洗いに行っている間になにかあったのだろうか。
 万里は気になりバックミラーをちらちら見るのだが、大和も閏も車窓に視線を向けているだけだった。
 今からどこに行くのか、どれくらい掛かるのか。知りたかったけれど、それを聞けるような雰囲気ではない。
 万里は膝に乗せている鞄の取っ手を握りしめ、ただひたすら、目的地に到着するのをじっと息をひそめて待つことにした。

 街中をしばらく走っていたかと思ったら、信号を曲がった。途端、視界が急に暗くなった。万里は瞬きをしてから周りを見ると、車は木の多い場所へ入ったのが分かった。そのせいで明かりが遮られたようだった。
 平坦で広かった道から、細い上り坂へと切り替わる。車は予想以上にぐねぐねと曲がり、万里は徐々に気持ちが悪くなってきた。普段からあまり車に乗り慣れないため、酔ってしまったようだ。
 吐きそうだと思っていたら、ようやく目的地へ着いたようだ。

「降りよう」

 大和の声に閏も車から降りたようだった。
 万里はよろよろしながらシートベルトを外し、ドアを開いて外の新鮮な空気を吸い込んだ。それで少し、気持ち悪さが紛れたような気がする。

「どうした?」

 なかなか降りてこない万里をいぶかしく思った大和は、助手席側の扉までやってきた。

「あ……いえ、その」
「車に酔ったか?」
「はい……」

 万里の視界には、大和が着ている仕立ての良さそうなスーツしか見えない。

「閏、来い」

 大和の呼びかけに万里は慌てて車から降りようとしたが、身体が上手く動かず、よろけた。大和の着ているスーツが近くに見える。このままだと倒れて、大和に迷惑が掛かると思ったものの、身体が言うことを聞かない。

「おっと」

 という大和の声が聞こえ、身体が支えられた。大和によろけてしまったのかと慌てたが、なにかがおかしい。大和のスーツはダークブラウンだったはずなのに、今、万里の視界に入っている生地はグレイだ。この色は、閏が着ていたスーツだが……。

「閏、オレは中に入って今日の料理の打ち合わせをしてくる。おまえは万里ちゃんと少し、外の空気を吸ってから来い」

 少し後ろで大和の声がしたと思ったら、去って行く気配。
 万里は恐る恐る、顔を上げた。

「…………」

 そこには、しかめっ面をした閏がいた。銀縁眼鏡の奥の瞳はいつも以上に冷ややかで、万里から視線が外れている。
 しかし、腕のぬくもりはあの日と同じで、万里は戸惑った。

「あのっ、す、すみませんっ!」

 万里はとっさに謝り、閏から離れようとした。が、なぜか腕の力は緩められることはなく、万里が動いたことでさらにきつく力を込められた。
 てっきり万里は、閏から冷たい言葉を掛けられ、突き放されるかと思っていたため、どうすればいいのか分からず、そのまま閏の腕の中で固まった。
 ずっと願っていた、閏のぬくもり。
 同じ部屋にいても、指一本さえふれあうことがないのに、今はなにかの間違いなのか、閏に身体を抱きしめられている。
 この状況に、万里は頬が熱くなってきたのが分かった。さらには頭に血が上り、息苦しい。
 胸がどきどきしている。
 こんなにどきどきしていると、閏にばれてしまう。
 万里は気持ちを落ち着けようと、閏に分からないように小さく深呼吸をした。するとふんわりと、閏から優しい匂いが鼻腔をくすぐった。万里と同じ石けんとシャンプーの香りのはずなのに、ますますどきどきが止まらなくなった。
 それでも数回、深呼吸を繰り返すと落ち着いてきた。身体から力を抜いたら、閏の腕の力が緩くなった。

「……大和さまが待っている、行くぞ」

 するりと腕が抜け、何事もなかったかのように閏は万里に背中を向けて、歩き始めた。
 あれほど欲していたぬくもりが逃げていくことに、万里は胸がツキリと痛んだ。
 しかし、気がついたら、車の酔いはもうなくなっていた。

 閏の後ろを追いかけた先には、こんな山の上だというのにかなり大きな建物が建っていた。宵闇の中、ライトアップされていて、荘厳さが増しているように感じた。
 閏は建物に近づき、エントランスへと向かった。自動扉が開くと、中から明るい声がしてきた。

「こんばんは、いらっしゃいませ」

 閏に続いて万里も扉をくぐると、外が暗かったのもあり、まばゆくて目を細めた。
 中は暖かく、万里はほっとした。
 ここはどうやら、全室個室のようだ。廊下の左右には扉があった。
 二人が案内されたのは、廊下を通り抜けた一番奥の部屋だった。
 開かれた扉の先には、壁一面がガラス張りになった、外の景色がよく見える部屋だった。今日は天気が良かったため、まばゆい夜景がよく見える。
 室内に足を運ぶと、思ったよりも広い部屋だった。
 少し長めのテーブルが部屋の真ん中に置かれ、窓際に向かって椅子が置かれている。夜景を見ながら食事が出来るらしい。

「おお、来たか」

 大和はすでに椅子に座り、飲み物を飲んでいた。

「それじゃ、打ち合わせ通り、頼んだよ」
「かしこまりました」

 大和のおかしな言葉に万里は首をひねったが、案内されるがままに席に着いた。

「それではこれから、万里ちゃんの歓迎会と、ささやかだけど二人の結婚を祝ったディナーを行いたいと思う」

 改めて言われて、万里は自分が結婚したことを思い出した。
 そうだ、どうして鹿鳴館の屋敷で寝泊まりしているのかをすっかり忘れていた。
 そう言われると、先ほどの閏のぬくもりを思い出し、自然と頬が赤くなってくるのが分かった。万里は慌てて頬に手を当てた。外の空気で冷たくなっていた手が、気持ちがいい。

「失礼いたします」

 乾杯用にとグラスに赤ワインが注がれた。大和は立ち上がり、閏と万里の間に立った。

「それでは、二人の幸せな未来のために」

 万里は慌てて立とうとしたが、大和に手で制され、持っていたグラスをかちんと合わせられた。大和は閏にも同じようにグラスを合わせていた。

「一緒に楽しく食事を……と思ったんだが、急ぎで連絡を入れなくてはいけなくなった。オレのことは気にせず、二人で食事をしてほしい」

 大和はそれだけ告げると、グラスをテーブルに置き、部屋を出て行った。
 車内でずっと大和が無言だったのは、そのせいだったのだろうか。
 閏と二人になり、万里は落ち着かなくなった。
 豪華絢爛な場所というのは日比谷の屋敷や鹿鳴館の屋敷で慣れていたと思ったが、ここはいつもとは違う華やかさがあり、気持ちが浮ついてしまう。しかもさきほどの久しぶりの急接近を思い出し、再び、どきどきしてきた。

「……車酔いは、落ち着いたか」

 さらに、いつになく優しい言葉を掛けてきた。一瞬、聞き間違いかと思い、万里は思わずじっと閏を見つめてしまった。久しぶりに合った視線に、万里はうれしく思った。

「あの……あ、はい。ありがとうございます、大丈夫、です」

 閏が自分を心配してくれた。それがうれしくて、万里は満面の笑みを浮かべていた。






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