《一》
『見合い相手』と思われる男は、怜悧な空気をまとっていた。近づいただけで切り裂かれてしまいそうな鋭利な雰囲気が、万里の鼓動をより早めていた。
うるさいくらいに主張している鼓動が周りの音を遮蔽して、それ以外、なにも聞こえない。頬と耳が、熱い。
黒くて少しかたそうな髪はワックスできっちりと固められ、後ろに流している。綺麗に出たおでこのラインに思わず見とれる。
少し視線を下に向けると、鳶色の鋭い眼光が、万里をじっと見つめていた。万里は恥ずかしさのあまり視線を反らしたいのに、魅入られてしまったかのように外せない。
目と目が合う。じっと瞳の中を覗かれるような、視線。
「僕の顔に、なにかついてますか?」
自分の鼓動以外は聞こえなかったのに、急に低い声が耳朶を打った。
万里の身体は驚くほど飛び上がり、反射的に後退していた。
少し前に立つ
「お嬢さまはお身体が優れないように見えますが?」
『見合い相手』の言葉に、帝はようやく、万里を振り返った。
顔を真っ赤にして、胸を押さえて唇をうっすらと開け、肩を上下させている万里を見て、帝は顔を思いっきりしかめた。
万里は眉尻を下げ、帝を上目遣いに見た。
「緊張されているようですね。今時に珍しい、奥ゆかしいお嬢さまです。そこのソファで少し、お休みになられては?」
『見合い相手』の長い指がロビーの片隅に置かれたソファを指している。
万里はじっとその指先を見つめていた。
どこか様子のおかしい万里を心配して、『見合い相手』は万里に近寄ってきた。
「エスコートします」
『見合い相手』は万里の顔を覗き込み、横に立った。支えるように肩を抱くと、ゆっくりと歩き出した。
万里はただ、なされるがままになっていた。
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万里がそもそも、このフォーエバーホテルのロビーに振り袖を着て立っているのは、彼女の勤め先のお嬢さまのわがままのせいだ。
なにがどうしてこんなことになってしまったのか、『見合い相手』に連れて来られたソファに沈み混むように座り込み、くらくらする頭で万里は思い出していた。
五年前。万里の就職活動は芳しくなく、卒業するまでに就職先が見つからないかもしれないと焦っていた。
そこに、大好きだった祖父の訃報が届いた。なかなか上手く行かない万里の就職活動を励ましてくれていた、祖父の死。体調がよくないのは、分かっていた。だから一刻も早く就職先を決めて、喜んでもらおうと思っていたところだった。
なにもかもが上手くいかない……と、八方塞がりを感じていた万里は、祖父の葬式の時に顔を合わせた親戚に、ぽつりと愚痴をこぼした。
そんな万里を哀れに思ったのか、親戚は縁があるという日比谷家を紹介してくれた。当主の日比谷帝は、妹の
どこかの企業に入り、そこで働くと思っていた万里は、思ってもいなかった就職先に戸惑ったものの、紹介してくれた親戚に感謝した。
最初はなにをすればいいのか勝手が分からずに周りの人たちにかなり迷惑をかけまくったが、飲み込みの早い万里はすぐに覚え、幸によく仕えた。
万里が日比谷家に採用になったと同時に幸は大学生になり、学校の送り迎え、相談、休みの日には友人のように共に遊びに行ったりと、世話をした。こんなに楽でいいのだろうかと思うほど、仕事は楽しかった。
そして幸も、万里を実の姉のように慕っていた。
万里は幸のわがままにも付き合ったが、危ないことや間違ったことには正面からきちんと叱った。だからますます、幸は万里を頼った。
そんな幸も春がくれば、大学を卒業する。
そして前から言われていた、
卒業してすぐとは言わないが、結婚を前提にお付き合いをと言われ、今日は顔合わせという意味でのお見合いとなったのだが……。
「嫌よ、あんな冷酷無比な男と結婚なんて!」
と幸は断固拒否。
日比谷家と敵対しているという鹿鳴館家の当主の非情振りを、万里も噂には聞いていた。しかし、日比谷家で働くようになって、それはどうやら噂でしかないのではないのか、と思うようになっていた。
というのも、幸の兄で当主である帝と鹿鳴館
だからこそ、帝は信頼の置ける大和と大切な妹の幸を結婚させようとしているのだろう。本当に冷酷無比な男だとしたら、いくら親友でも、大切な妹を嫁がせようとは思いもしないのではないか。
艶やかな腰まで届く黒髪を震わせている幸はとても痛ましく、万里は必死になって慰めの言葉を考える。
「幸さん、私は直接、鹿鳴館大和さまという方を存じませんが、帝さまが大切な幸さんをそんな酷い男の元に嫁がせようとは思わないと思うのです。だから……」
万里は自分が感じたことを幸に伝えたのだが……。
幸は黒目がちな二重の瞳に一杯の涙を溜め、首を振った。
「ねえ、万里。あたし、心から愛せる人と、結婚したいの」
それは幸が、常日頃から口癖のように口にしている言葉。
幸の両親は、すでに他界している。ゆえに、帝は若くして日比谷家を引き継ぎ、さらには事業もこなしている。
幸の両親は、だれが見ても羨む、いい夫婦だったという。見合い結婚ではあったが、お互いが愛し合い、思いやり、皆に慕われていた。そしてその二人は、視察旅行の帰りに事故に遭い、帰らぬ人となってしまった。
そんな両親を見て育った幸は、二人は憧れであり、目標でもあるという。
それならば、帝が選んだという男と結婚して、そんな関係になればいいのではないかと万里は思うのだが、幸は頑なに拒否の言葉を口にする。そこでふと、万里は思うことがあった。
「幸さん、だれか想い人でもいらっしゃるのですか……?」
幸とは姉妹のようになんでもよく話したが、万里が色恋沙汰に弱いということを知っているから、そういった話題は避けてくれていたように思えた。
だけど実は、密かに想い人がいて、そしてそれは秘めなければいけない関係だったために、万里が苦手というのを理由に、口にしなかったのだろうか。
そんな邪推をして聞いてみると、幸は思いっきり否定するように首を振った。
「そっ、そんな素敵な方、いらっしゃらないわよ!」
といいつつ、頬をほんのりと染めているあたり、密かに想っている人がいるのかもしれない。
「でも、会うだけ会って、嫌なら嫌とはっきりと帝さまにおっしゃれば、彼だって無理強いは……」
「嫌なものは嫌なの! だってあの人、あたしにいつも、意地悪ばかりするんですものっ」
どうやら幸と大和は、すでに知っている仲のようだった。
帝と大和は親友なのだから、顔見知りでも不思議はない。
しかし、その意地悪も、もしかしたら大和が幸のことを好きでやっているとしたら?
「殿方は、好きな人だからこそいじめたくなるという性分をお持ちの方もいらっしゃると聞いたことがありますが……」
「あっ、あの方があたしのことを好きなんて、あり得ませんから!」
幸は顔を真っ赤にして、万里の持論に反対してきた。
「あの方には、好きな方がいらっしゃるんです! なのにっ、なんで……!」
幸は今にも泣きそうな表情でスカートを握りしめた。
これ以上、なにを言ってもダメのようだ。
しかし、だからといってここで諦めてしまってはいけない。
万里はさらに言い募ろうと口を開いたが、幸に先を越された。
「だから、お願いっ! 代わりに行って、断ってきて?」
幸はそれだけ言うと、するりと万里の横を抜けて部屋に駆け込み、鍵をかけて引きこもってしまった。
「幸さん! 代わりにって、無理ですよ!」
万里は焦り、幸の部屋の扉を叩くが、まったく反応がない。
使用人でしかない万里は、いくら幸と仲がよくても、所詮、赤の他人。
断るにしても、万里が行くより、幸が帝に進言して説得するのが筋なのではないか。
だけどそうしないのはきっと、帝に言いくるめられて無理矢理につれて行かれてしまうのが幸には分かっているからだろう。
いつもなら仕方がないですねと諦めるところだが、今日はそういう訳にもいかない。しかも、帝はすでに見合い会場であるホテルに一足先に向かっているのだ。
職務に忠実な万里は、幸に出てくるように懇願したのだが……。万里がいくら出てきてくださいとお願いしても、取り合ってくれない。
こういうとき、この兄妹は酷く似ている。頑固で、一度こうと決めたら、なにがあっても動かない。
それを知っている万里は、それでもぎりぎりの時間まで粘ったが、敵わなかった。
万里は腹をくくり、帝に怒られるのを覚悟して、幸の代わりにフォーエバーホテルへと向かった。
そして、フロントで帝がどこにいるのかを聞いたのが間違いだったのか。なにか勘違いをしたホテル側は、万里に振り袖を着付け、化粧を施したのだった。
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「冷たいお水をお持ちしました」
ソファに座り、随分と楽になってきた頃、万里の耳に低い声が響いた。
身体を震わせて顔を上げると、目の前に水滴のついたコップを差し出されていた。
「……ありがとうございます」
緊張で掠れる声に恥ずかしく思いながらもお礼を述べ、コップを受け取った。冷たい水を嚥下すると、変に火照った身体が落ち着いてきたのが分かった。
『見合い相手』はそんな万里を、じっと見つめている。それはまるで、品定めをしているようで……。
しかし、そんな視線に万里は気がつかない。
「体調が優れないようですね。今日は取りやめにして、改めて」
『見合い相手』のその言葉に、万里はほっと胸をなで下ろした。