失恋から始まる恋もある


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《三十三章》「部長との秘密の話」



 会社に行くと、すでに蓮は来ていた。
「おはよう」
 奈津美はいつものように挨拶をして、パソコンの電源を入れる。
「おはようございます、先輩」
 にやり、と蓮は笑った。
「?」
 なんとなく、嫌な予感が……。
「お、小林さん!」
 角谷が奈津美が来たことに気が付き、手招きしていた。
「はい?」
 なんだろう、と思って角谷のところに行くと、いつもの打ち合わせ室に連れて来られた。
「とりあえず、おめでとう!」
「はい?」
「嫌だなぁ、この間は付き合ってないって言ってたのに。なにも隠さなくてもいいじゃないか」
「はい?」
 角谷の言葉に、奈津美は首をかしげた。
「佳山くんと付き合ってるんだろう?」
「あ? え??」
「昨日のコンサート、行ってたんだろう?」
「あ……」
 確かに一緒に行ったけど……?
「きみのご両親と佳山くんときみがいるのを見てね」
「昨日、聞きに行かれていたんですか?」
「ああ。佳山くんに無理を言ってチケット取ってもらってね。うちの娘が佳山葵が好きでね」
 角谷の娘は確かまだ、小学生だったはず。
「いやぁ、昨日の演奏、素晴らしかったし、娘は大喜びだし。佳山くんを見かけたからお礼を言いに行こうと思ったら、ちょうど見かけてね」
 うっわー。
 あの最悪な時を見ていたのか。
「それにその指輪」
「え?」
「昨日はしてなかったし。いやいや、ほんと。きみも隅に置けないね!」
 角谷に隠しても仕方がないと思ったので、奈津美は、
「はい、佳山さんをお嫁に貰うことにしました」
 奈津美の言葉に、角谷はきょとん、とした顔をした。
「蓮は……。私と違って料理洗濯家事掃除、完璧なんです。私には無理だし、嫁になってくれるのなら結婚していいよって」
「ぶは!」
 角谷は豪快に笑いだした。
「あははは、らしいね! 実に小林さんらしい!」
「はぁ」
 それって褒められてるの? けなされてるの?
「佳山くんは会社でも人気があるからねぇ。いや、さすが小林さん、お目が高い!」
 いつまでも笑いが止まらない角谷を見て、奈津美はため息をついた。
 意識してなかったけど、確かに蓮といると、女性社員の視線が痛い。蓮のことはかわいいとしか思ってなかったけど、背が高くてかっこいいってより美人タイプだ。男に美人は変だと言われそうだけど、美人としか言えない。
 学歴も気にしたことはないけど、結構いい大学を出ていたはずだ。
 奈津美は短大を卒業してすぐにこの会社に入ったから、蓮とは雲泥の差があるのは確かだ。
 奈津美は社会人になってそろそろ10年が見えてくるほどになっていた。蓮は入社して……何年目だっけ?そんな自分と蓮は……端から見ても不釣り合いだ。角谷が笑うのも仕方がない。
「ああ、ごめん。気を悪くさせてしまったようで」
「いえ。本当ですから……」
 奈津美の言葉に角谷はすねた響きを感じ取り、やわらかく笑った。
「人にはそれぞれ、得手不得手がある。それを認め、お互いの欠点を補う、いい仲じゃないか」
 やっぱり、けなされてるように感じる……。
「これは褒めているんだからね」
 奈津美の考えを見透かしたように、角谷は言った。
「人はなかなか、自分の不得手や苦手なことに目を向けにくいものなんだよ。それに正面から向き合えるのは、素晴らしいことだ」
 角谷は立ち上がり、奈津美の頭をぽんぽん、と軽くたたいて、
「ま、しばらくは女性社員の嫌がらせとか痛い視線が大変かもしれないけど、あまりひどいようなら、遠慮なく言ってくれよ」
 角谷がなんとなくお父さんっぽくって、奈津美は笑った。
「はい、その時はほんとに遠慮なくお願いします」
「うんうん。もうあんな場所にはいきたくないだろう?」
「あ……え? ご存知だったんですか?」
 角谷の言葉に、奈津美は慌てた。
「知っていたよ。山本くんのやったことも、きみがあそこに行くことになってしまった経緯も全部。知ってもなにもできなかった自分が悔しくてね。そうやって直接知ってる知らないを含めて……。あそこに送られていった人に……後悔している」
「でも、部長のせいじゃないでしょ……?」
「知っていてなにもできないのは、同罪だよ。わたしはね、小林さん。本当はここで部長していてはいけないんだと……思っているんだよ。知っていてなにもできない。こんな部長、いらないだろう」
 角谷の言葉に、奈津美は言葉を詰まらせた。
「でもわたしは、生活のために働かなくてはならなくて。会社の歯車であるんだから、会社の意に背くことはできない、本当に小さい人間なんだよ」
 そんな話をしに来たわけではないのに、角谷は奈津美に話している。
「こんな話、するべきではなかったね。すまなかった、聞かなかったことにしてくれ」
「あ、……はい」
「この間の秘密の話と交換だな」
「あ、え?」
 今聞いた話に比べれば、あんな話、どうってことない。
「ま、僕はきみのファンなんだが。会長職には就任できそうにないから、秘密を共有して、共犯者ってことかな?」
「ちょ、なんですかそれ、部長!」
 部長の言葉に奈津美は笑った。
「うん、やっぱりきみには笑顔が似合う。ほら、佳山くんを嫁にして、いつでも笑っているんだよ」
「それって聞きようによっては……馬鹿っぽいですよね」
「そうかな? いつでも笑っているのも、疲れるよ。馬鹿と思うやつにはそう思わせておくといい。きみの笑顔に救われる人もいるんだから、ね?」
 そういって、角谷は部屋を出て行った。
「笑顔……ねぇ……」
 奈津美はだれもいない部屋でにこっと笑って見せて、ひとりでおかしくなった。

   *   *

 席に戻るまでの道すがら、気のせいか女性社員の視線が前より痛いような気がする。こういう噂は流れるのが早い。
 さらに蓮の看病で休むと言ってしまったから、その噂とともにものすごい速さであちこちを駆け抜けるのだろう。
「おかえり」
「ただいま」
 ふう、とため息をついて、奈津美は席に着いた。
「部長はなんて?」
 蓮は興味津々で聞いてきた。
「うん、早く蓮を嫁にもらえって言われた」
「な、なにを言ってきたんですか、先輩!?」
「プロポーズされたから、嫁になるならもらってやるといったと話してきたんだけど」
 そして奈津美はブラウザを立ち上げ、検索した。
「ちょっと先輩、なにを見てるんですか!?」
「婚姻届ってどうやって出すのかと思って。なにかいけなかった?」
「あ、いえ。昨日の今日であまりにも積極的すぎて」
 蓮に言われ、奈津美は真っ赤になった。あ、確かにそうだ。
「早かった?」
「いや。先輩の気が変わらないうちに……」
 必要なものを調べた。
 本籍地以外に提出する場合は戸籍謄本が必要なこと、取り寄せる場合には時間がかかるので早めに取り寄せるように、と。奈津美は財布から免許証を取り出し、本籍を確認した。
 そして本籍の役所を調べ、戸籍謄本を取り寄せる手続きをした。
「蓮も戸籍謄本、取り寄せてね」
「いやだから、気が早すぎ」
「はいはい。嫁にならなくていいってことなのね」
「あ、いえ。そうではなく」
 といいつつ、カバンから紙を出してきた。
「ちょ、ちょっとなんでもう持ってるの!?」
「え? オレの方が気が早い?」
「うん、激しく」
 手に持っているのは……蓮の戸籍謄本と婚姻届だった。あとは、証人をだれにしようかというのが問題だった。
「オレたち、仕事中になにしてるんだろうな」
「ほんとにね」
 ふたりして顔を見合わせて、笑った。
「それぞれの親に……かなぁ……」
「あ、うん……」
 蓮の表情が曇った。
「あ、悪いこと言っちゃった?」
「ううん。あとで話すよ」
 いったん婚姻届などの話は終了して、仕事に戻った。


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