《十章》「聞いてほしくないこと」
「わたし、少しほかに寄るところがありますので、先に戻っておいてください」
一之瀬は奈津美にそう声をかけ、エレベーターには乗らないでどこかへと消えた。奈津美はエレベーターに乗り、第4課へ戻った。
「お帰りー。どうだった?」
蓮が待ちわびたようにやってきた。
エレベーターのドアが閉まり、昇降音が聞こえた途端、奈津美はその場に座り込んだ。
「先輩?」
蓮の心配した声が上から降ってきた。
「あ……。すみません……。腰が抜けちゃいました……」
奈津美は自分が思っていた以上に緊張していたことに気がついた。
「先輩、立てます?」
蓮が手を差し出してくれたので、少し躊躇したが手を伸ばそうとした。が、手が震えて、蓮の手をなかなかつかめなかった。
「あは、やだ、私。緊張していたみたい……」
そして、知らず知らずのうちに、涙があふれてきた。
「先輩、大丈夫ですか!?」
蓮は奈津美の涙にびっくりして、しゃがみこんだ。
「先輩、泣かないでください!」
「え……。あ」
奈津美は目に手をやり、自分が泣いていることに気がついた。
「緊張の糸が緩んで……」
奈津美は制服のポケットからはんかちを取り出そうとしたが、うまくいかなかった。
「はい、はんかち」
蓮は奈津美にはんかちを渡した。
「ありがとう……」
奈津美はこれと同じことをどこかであったような気がして、涙が止まった。
「あれ……?」
奈津美ははんかちを見て、蓮を見て、もう一度はんかちを見た。
「…………?」
どこで?
「先輩、とりあえず涙を拭いてください」
蓮に言われ、奈津美は涙を拭いた。
「立てますか?」
「…………たぶん」
奈津美は蓮に支えられ、どうにか立ち上がり、席まで支えてくれて、椅子に座った。
「あの……」
「?」
奈津美の言葉に、蓮は止まった。
「変なことを聞くけど、前にも……はんかち貸してくれた?」
その言葉に、蓮は明らかに動揺した。
「な、なんの話ですか!?」
「そうよね……」
奈津美は、蓮の動揺に気がつかない。
「ごめんなさい。変なことを聞いて。はんかち、ありがとう。洗って返すから」
「あ、うん」
途中で別れた一之瀬が帰ってきた。
「小林さん、お疲れさま」
「いえ、一之瀬さん、ありがとうございます」
奈津美は一之瀬のところに行き、ぺこりと頭を下げた。
「そういえば、小林さん」
「はい?」
「山本さんと、知り合い?」
一之瀬の言葉に、奈津美はどきっとした。今、一番聞かれたくないことを聞かれてしまった。
「あ……」
「山本さんが部屋に入ってきたとき、ものすごく動揺してなかった? 山本さんも明らかに顔色変わっていたし」
「あ、えと……」
「ま、しゃべりたくなければ別にいいんですが。ただ、仕事に支障をきたすようなら、話してくださいね?」
一之瀬は一方的に話を切り上げ、自席に戻って仕事を始めた。奈津美はタイミングを逃し、その場にぼーっと立っていた。
「一之瀬さん、オレ、ちょっと今から外出してきていい?」
「どうぞ」
「じゃ、行ってきます。今日はこのまま、ここに戻りません」
「了解。いってらっしゃい、気をつけて」
蓮はそれだけ言うと、かばんを持って出かけて行った。
奈津美は一之瀬に、貴史のことを話すべきかどうか、悩んでいた。しかし、同じ会社で仕事をしている以上、いつかは一緒に働くことがあるのはわかっていたこと。それに、これは今、奈津美が乗り越えなくてはいけないハードルだと思いなおし、話すことをやめた。話してどうする、というのもあった。動き出したものは、もうだれも止められないのだから。