失恋から始まる恋もある


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《一章》「第四課」



 うっすらとカーテンから部屋に差し込む光で、奈津美は目が覚めた。腫れぼったい目をこじ開け時計を見て驚いた。
「やだ! 遅刻!」
 昨日は化粧も落とさず、服も着替えず、そのまま眠ってしまったらしい。服は適当に着替え、顔を洗って化粧をし直す。まぶたが自分のものじゃないみたいにはれ上がっている。
「いってきます!」
 玄関先に用意してあったお弁当をバッグに詰め込み、台所にいる母に向かって奈津美は叫んで家を飛び出した。
 会社に着き、あわてて着替えて自席に着く。しかし、いつもは早く会社に着いて準備をしているものの、今日は寝坊してしまったために珍しくぎりぎりで、部署の雰囲気がおかしかったことに奈津美は気がつかなかった。
「小林くん、」
 奈津美が席に着いたのを見計らって、部長が声をかけてきた。部長はいつも始業時間からかなり遅れてやってくるのになんでこういう日に限って早く来ているんだろう。奈津美は朝からついていないな、と心の中でつぶやく。そして、そういう最悪な日に限ってなぜか部長が声をかけてくる。
「ちょっと時間をもらえるかな?」
「? はい」
 部長がこの部署に来て間もない自分に声をかけてくるなんてなんだろう。嫌な予感を覚えつつも奈津美は素直に部長についていく。
 部長が行った先は、会議室の横の小さな打ち合わせ室。そこには先に見たことのない男性が入室していた。
「なんで呼ばれたか、わかるよね?」
 今日、確かにいつもより遅く来てしまったが、遅刻ではない。それに遅刻くらいでこんなところにわざわざ呼び出されるとも思えない。
「なんでしょうか」
 奈津美は思い当たらず、素直に聞く。
 奈津美の答えに部長はばん! と机をたたいた。
「君は昨日の会議の準備をすべて受け持っていたんだろう!?」
 昨日の……会議?
「部屋の手配も、資料もなにも準備してなくて、社長はかなりお怒りだったぞ!」
昨日……? 会議???
「あの……」
 奈津美にはさっぱりおぼえがなかった。そもそも昨日、そんな重要な会議が入っていたのなんて、初耳だ。
「言い訳は聞かない! 君は今日から第四課に異動だ」
 奈津美はわけがわからなかった。
 それに、第四課??? そんな課、聞いたことない。
「あの……」
 質問しようと口を開いた奈津美に部長は激昂しているらしく、ばんばん、と何度も机を叩いている。
「早く連れて行って!」
 打ち合わせ室に先にいた見たことのない線の細い男性は恐縮したように奈津美に合図をして、部屋を出た。

   *   *

 打ち合わせ室から逃げるように出て、男はエレベーターホールに向かったので奈津美もついていく。
「あ、あの……」
 奈津美はおずおずと声をかける。
「ああ、第四課の課長の一之瀬です」
 一之瀬は線の細い身体にグレーのスーツを着て、細い黒ぶち眼鏡をかけていた。
「第四課なんて……あったんですか?」
 エレベーターホールに着き、一之瀬は下ボタンを押す。
「説明は部屋にいってから行います」
 一之瀬はそれっきり、無言だった。奈津美は聞きたいことがたくさんあったが、一之瀬に従い、おとなしく口を閉じていた。エレベーターが来て一之瀬が乗ったので、奈津美も続いて乗り込んだ。
 一之瀬はスーツの内ポケットからカードを取り出し、行き先階ボタンの下にひっそりと空いている隙間に差し込んだ。ぐいーんと鈍い音を立て、エレベーターは動き始めた。1階に着いたあたりより先に降りる感覚がして、がくん、と止まった。一之瀬が降りたので、奈津美も仕方がなく降りた。
 エレベーターの扉は、すぐに閉まり、ウィーンと音がして、上に登って行った。奈津美は底知れない不安を感じた。

   *   *

「今日からあなたは第四課……まあ、ようするに左遷ですね……」
「え……?」
 一之瀬の思いがけない言葉に、奈津美は絶句した。
「さっきから全く要領を得ないんですが……」
「とにかく、あなたは今日からこの課に配属になった、ということです」
 ようやく憧れの部に配属されたばかりなのに、どうして……?
「あの部長いわく、あなたは昨日の部をかけた大切な会議を壊したばかりではなく、部の存続の危機におとしめた、らしいですよ?」
「なに……それ……」
 昨日の会議なんて、知らない。部に配属されたばかりなのに……部屋の手配? 資料??
「私、昨日、会議があったことも知りません」
「ほう、そうですか。あなたはでは、だれかに……はめられたんですかね?」
 一之瀬の細い眼鏡がきらりと光った。
「ま、わたしにはそんなこと、どっちでもよくて。あなたの席は、あそこ」
 ようやく、部屋の中を見る余裕ができた。段ボール箱がたくさん山積みされていて……倉庫らしき場所……に合間を縫うように机と椅子が置かれている。机は全部で4つ。
「この課は定員4名。今はあなたを含めて3人でまだひとり余裕がありますが、5人目が来た場合、だれかが首になります」
 首!?
「首になりたくなければ、この課から死ぬ気で這い出てください。わたしはそのためのバックアップは惜しみませんから」
 一之瀬はにやり、と笑う。
「ま、たいていは自分から辞めるか、次が来る前に這い出られずに首になるか、のどちらですけどね」
 この会社に……そんな暗部があったとは……。奈津美はなにも言えなかった。
「この課は、すべて自由です。ただ、予算はありません。好きなことを好きなようにしてもいいですけど、お金はありませんからね。給料は基本給のみ。勤務時間はありません。ですから、次の会社を探しに行ってもいいですよ」
 一之瀬は先ほどエレベーターの中で使っていたカードを奈津美に渡した。
「あなたの社員身分証はこれです」
 黒くて四角いプラスチックの板。
「それ、あまり社員の目に触れさせないでくださいね。この課があることはトップシークレットなんです」
「なんでこんな課が……」
「さあ? 上のおえら方が何を考えているかなんて、わたしには関係ないですし、興味もないですね。それに、ここの課、わたしは意外に気にいっているんです」
 一之瀬は自席に戻っていった。
 奈津美は自分の荷物を上のロッカーに置いてきたことを思い出し、エレベーターに向かった。
「どちらへ?」
「私、荷物を上に置いたままにしてきたので取りに行こうかと思いまして」
「ああ、それなら心配いりませんよ」
 その言葉と同時にエレベーターが開いて、中から人が出てきた。
「一之瀬さーん、持ってきたぜ」
「ああ、ありがとう。その荷物、彼女に返してあげて」
 中から出てきた人は奈津美の姿を認めた途端、急に立ち止った。
「はじめまして……。私、小林奈津美です」
 奈津美は、お辞儀をした。そう言った途端、自分の意志とは関係なく、涙があふれてきて、ぽたぽたと床に涙がこぼれた。そのせいで顔を上げることができなかった。
「泣きたいのなら、泣きなさい。でも、その甘えは今日だけですから」
 一之瀬は眼鏡に手を当て、持ち上げた。
「あなたをはめた人を見返すため、あなたはなにがなんでもここから這い出さなければなりません。泣くのは今日だけにしておいてください。明日から、忙しいですよ?」
 一之瀬は奈津美にはんかちと椅子を持ってきてくれた。
「で、蓮はいつまでそこで固まっているつもりですか?」
 一之瀬の呼びかけに、奈津美の荷物を持ってきたらしい蓮……と呼ばれた男はようやく動いた。
「一之瀬さん、」
「あなたを含め、なにがなんでも這い出てもらわなくてはね」
 一之瀬は再度にやり、と口角をあげて笑った。
「泣いていても、なにも始まらないぜ」
 一之瀬に蓮と呼ばれていた男は、泣いている奈津美を下から見上げた。
「あーあ、そんなに泣いちゃって。顔がはれるぞ」
 蓮は洗面所で濡らしてきてくれたらしいタオルを渡してくれた。奈津美はのろのろと濡れタオルを顔にあてた。ひんやりとした感触が、火照ったまぶたに気持ちが良かった。
 そしてふわっとどこかで匂った覚えのある香りに、違和感を覚えた。
「?」
 この匂い……どこで……?


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