愛から始まる物語


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供依存の楽園




「生涯の伴侶となると、思っていました」

 そう言った彼女の大きな瞳には、うっすらと涙の膜が張っている。
 強い女(ひと)だと思っていた。
 俺のどっちつかずの言葉も、曖昧で優柔不断な態度さえ、彼女にとっては問題のうちではなかったようだ。今まではそれを理由に振られるばかりだったのに、あなたほど分かりやすい人はいないわと笑っていた。
 自分の気持ちを言葉にして人に伝えるのがどちらかというと苦手な俺だが、心が読めているのではないかと思うほど的確に言い当ててくれた。彼女は俺の心の翻訳機、と言っても良かったかもしれない。心の中でわだかまって渦巻いている感情に彼女が形を与え、整理してくれた。それは形を与えられたことで本来の姿を失ってしまったかもしれないが、正体不明の得体の知れないものに対する恐怖を思えば、些細なことだった。
 それはどうやら俺に対してだけではなく、だれにでも同じようにやっているという。そんなに人の心を先読みしていたら疲れないかと聞いたことがある。彼女はやっぱり、笑いながら答えてくれた。
『職業病ってのもあるかもしれないけど、正解が分かっていた方が楽だから』
 楽、なのだろうか。
『楽、なんですよ。この人はこう考えていて、わたしはこう望むからそれなら……ってコントロールできるでしょ』
 言われてみれば、確かにそうだった。
 彼女といると、あまり考えなくて済む。知らないうちに俺は彼女の言いなりになっていたところもある。考えすぎて動けなくなることがある俺としてはそれが楽で、ついつい依存していた部分もあった。押しつけがましくなく、むしろまるで自分で考えて行動しているかのように錯覚するのだ。
 一緒にいて、窮屈に思わない女性。俺のことを理解してくれていたし、多少の遊びも目をつぶってくれるといってくれた。身体の相性も悪くなかったし、俺は文句がなかった。
 このままいけば、彼女と結婚するだろうと、思っていた。


「あなたは素直な人だから、わたしにとってもとても楽な人でした。でも──」

 素直、なんて初めて言われた。思いがけない言葉を告げられ、なんと答えればいいのか悩んでいたら、彼女はいきなり、俺の頬を思いっきり叩いてくれた。

「さようなら。わたしを見てくれない人は、嫌いです」

 言われた言葉の意味が分からなかった。
 叩かれた頬を押さえて呆然と彼女を見送ることしか、できなかった。

     *****

 懐かしい、夢を見た。
 もうずいぶんと昔の話で名前も顔も思い出せないのに、たまにこうして俺を責めるように夢に現れる。結婚まで考えて、結局、振られてしまった。
 今まで色んな女性が向こうからきて、向こうから去っていくことしかなかったけど、別れは何度経験しても、慣れるものではない。それがたとえ、思い入れのない相手だったとしても自分を否定されるのだから、心が痛む。
 ましてや、結婚まで考えた彼女から別れを告げられたのだ。心の傷になってないわけがない。
 彼女に振られた後、俺はだれも愛せないのではないかと悩んだ。
 正しい愛し方を教わる機会のなかった俺は歪んだ愛しか知らず、どう愛すればいいのか分からなかった。
 こんな夢を見て目が覚めた日は、いつも以上にメランコリックな気持ちになる。
 どこかで感じていたからそんな夢を見たのか。
 もう、会うことはないと思っていた彼女と再会してしまったのだ。

     *****

 彼女との出会いのきっかけはなんだったのか。思い出そうとしても、記憶が抜け落ちてしまったかのように思い出すことが出来ない。
 俺は思い出すことを諦めて、どうにも鬱々としがちな気持ちを切り替えるために外出することにした。車を出し、目的地を特に決めずに気の向くままに走らせた。無心に車を走らせたからか、起きてから引きずっていた憂鬱な気持ちは徐々に消えてきていた。
 今日はいい天気で過ごしやすく、そのせいなのか段々と車が増えてきた。目的もなく、ただ車を走らせるためだけに運転していたので、頻繁に止まらなくてはならなくなってきたこの状況に苛立ちを覚え、道を折れて休憩することにした。少し坂を登る。駐車場に車を止めて、外に出てから気がついた。
 ここはあの彼女とよくきていた場所だった。
 彼女の家の近くの高台にある公園。
 別れるまで、ほぼ毎日通った道。無意識のうちにトレースしてきたみたいだ。夢の名残を引きずっているのを知り、思わず苦笑する。自分がこんなにも引きずる性格だったとは思わなかった。痛手から立ち直っていると、信じていた。
 懐かしい風景を見ると、胸の奥がツキンと痛む。あの日の気持ちが蘇ってきて、苦い気持ちが広がっていく。
 痛みは乗り越えられたと思っていたのに、違ったらしい。蓋をして、見ない振りをしていただけのようだ。
 だから思い出したかのように夢を見るのか。
 消化しなければ辛いことが分かっていながら、先送りにしていることが多い。
 時間が解決してくれるなんて自分にずっと言い訳をしてきた。だからここに留まっていたい。先になんて進みたくない。胸が痛む出来事からずっと、目をそらしてきていた。
 今日も本来なら、そうするはずだった。
 嫌な思い出を箱に詰めて、いつものように片付けておくはずだったのだ。それなのに──。

「久しぶりね、睦貴」

 背後から、懐かしい声。
 名前は忘れていても、どうしてか落ち着いた声だけはしっかりと覚えている。この声がベットの中では艶やかに変わるということを知っているのは、俺を含めて何人いるのだろうか。

「まさかまた会うなんて、思ってもいなかったわ」

 振り返るのが怖い。
 俺はまた、あの痛みと向き合わなくてはならないのか。

「振り返らなくてもいいわよ」

 俺の考えを先回りして、そして俺のほしい言葉を与えてくれる。

「本当は声をかけるつもりはなかったの。でも、変わらない後ろ姿を見たら、思わず懐かしくなって……」

 少し淋しげな響きを乗せて、彼女はそう言った。
 付き合っているときはそんな弱音を吐くことはなかった。だから強い女(ひと)と思っていた。それはどうやら誤解だったようだ。

「お互い、まだ結婚はできてないみたいね」

 自嘲気味の声に、俺は意を決して振り返ろうとした。

「振り返らないで。……お願い」

 弱々しい声。

「同情しなくていいわ。わたしはあなたを振った、酷い女ですもの。未だに結婚できていないのは、当然の報いなの」

 振り返りたい気持ちと背中を向けたままでいたいという気持ちがせめぎ合っている。

「顔を見たらやり直そうなんて言っちゃいそうだから、そのままでいて」

 それは、彼女が望んでいることなのか、俺が望んでいることなのか。
 背後で動く気配がする。その音は真後ろで止まった。
 突如、抱きつかれた。
 予想外の出来事に、俺は固まった。
 背中に伝わる、彼女のぬくもりと柔らかさ。振り返って、抱きしめたい衝動にかられる。
 もう一度やり直すという選択肢はなくて、また抱きたい。動物的な衝動のみが俺を支配していた。

「相変わらず、下半身に翻弄されてるんだ」

 完璧に読まれている。

「……別に、いいわよ。わたし今、淋しい女だから、慰めて」

 何度となく重ねた肌の感触を思い出す。ぬくもりに飢えていた俺は思わず、手を伸ばしそうになる。
 ──また交わったら、お互いがダメになる。
 それくらいは分かっていた。
 だから俺は、頭を小さく横に振った。背中に、安堵のため息。

「そういう優しさはいらないわ」

 口ではそういいながらも、彼女の求めていた答え。

「睦貴と別れてから、色んな男性と付き合ったわ。だけど、ダメだったの」

 彼女は俺に抱きついたまま、苦笑している。

「あなたほど居心地のいい人はいなかった。でも、あの時は別れるしかなかったの。だって、あなたはわたしのことをちっとも見てくれていなかったんですもの」

 そんなつもりはなかった。
 俺の相手は彼女しかいないと思っていた。どこか、あきらめた気持ちを抱いていて……。
 なにに対しての諦め、だったのか。

「まだ、分かってないんだ」

 呆れたような声に答えが欲しくて振り返ろうとしたが、腰をがっちりとつかまれていてそれは無理だった。

「睦貴、わたしを通して、だれかを見ていたでしょ」

 そう言われても、思いつかない。

「……睦貴、さようなら。わたしはあなたのことを愛していたわ。今も、あなたのことを愛してる。だけど、あなたはわたしを愛してくれない。わたしはわがままだから、あなたのすべてを手に入れたかったの。わたしに向き合ってくれないあなたは、いりません」

 彼女はそれだけ言うと腰に回していた腕をするりと抜き、去っていった。
 結局、振り返ることはできなかった。

     *****

 彼女の言っていたことが分からずしばらく運転席に座って悩んでいたが、答えは出なかった。
 俺は彼女を見ていなかった?
 そんなことはない。
 見ていた。

 ──本当か?

 名前も顔も思い出せないのに、本当に見ていたと言えるのか?
 これまで、たくさんの女性と付き合ってきたが、彼女ほど長い間、一緒にいた女性はいない。それだけ、居心地のいい存在だった。
 今日も久しぶりに背中越しとはいえ会って、それは変わってなかった。もう一度やり直したいと思ったし、喉元まで出かけていた。
 だけど、言わなかったのは……彼女が望んでいなかったからだ。
 いや、望んでいた。
 望んではいたのだ。
 でも、やり直そうと言えなかったのは、どうしてだ。
 俺の中ではすでに答えは出ていた。
 しかし、それは認めたくなかった。
 ──大きな瞳に涙をため、じっとにらみつけるように俺を見上げている少女。
 彼女の名前と顔は思い出せないのに、少女の名前も顔もこんなにも鮮明なのは──。

 俺はまた、先送りにするために、箱の中に片付けて、この場を後にした。

     *****

 結局、彼女の名前も顔も思い出せなかった。
 出会ったきっかけだけは思い出した。母が押しつけてきた見合いだったような気がする。

『初めまして。……わたしたち、どこか似ているような気がします。なんだか、上手くいきそうですよね』
 初対面でそんなことを言われ、眉をひそめた覚えがある。
 今、会ったばかりなのに似ているだとか上手くいくとか、なんだか新手の詐欺師のようだと思ったものだ。上手くいかないと思っていた。
 彼女は今までの女性とは違って変に媚びてこなかったし、自然体だった。すごく楽だった。俺も変に構えなくて済んだから、素の自分を結構、さらけ出していたような気がする。彼女の前でどんなに繕っても、すぐにばれてしまっていた。
 高屋ではなく、きちんと睦貴を見てくれている。
 徐々に俺は彼女を信頼して──段々と依存していったような気がする。
 ああ、彼女は俺を見てくれていたのに、俺は確かに彼女を見ていなかった。俺を開放してくれる存在としてしか、見ていなかった。
 彼女はそれが辛くて、負担になって、別れを告げたのか。
 ようやく、自分が振られた理由が分かった。
 俺は結局、女性に『母』を求めていたのかもしれない。彼女には恋愛感情というよりは、母性を求めていた。崩壊している家族に傷つけられた心を癒すため、彼女に救いを求めていた。
 それは彼女の家族もそうだったみたいで、俺たちは似た者同士、傷をなめあっていたのかもしれない。傷が治ったとは思えないが、少しは癒えたとは思っている。
 もし、あのまま付き合って結婚していたとしたら──。
 破綻していただろう。
 だからあのタイミングで彼女が別れを告げたのは、正解だったのだ。
 傷を癒すつもりでなめていたものが、エスカレートして傷をえぐりあう前に。
 あるいは、すでに俺は彼女の傷をえぐっていたのかもしれない。その痛みに耐えかねて、別れを告げられたのかもしれない。
 彼女に悪いことをした。
 そんなことを思ったことはなかったのに、なぜか彼女に対してはそんな感情が浮かんできた。
 そこでようやく、俺は彼女のことが好きだったと気がついたのだ。
 今更気がつくとは、本当に鈍い。

 初恋とは呼べないけれど、初恋以前の淡いあやふやな想いとはまた違う、なんと名前をつければいいのか分からない、気持ち。
 家族に対する愛でもなく、友だちでもなく……。
 一歩、前に進むために出会った人。
 彼女と過ごした日々は、穏やかなものだったかもしれない。
 楽園──というと言い過ぎだけど、安らぎを感じていた。だけどそれは、彼女に依存していた上に成り立っていたものだった。

 彼女と別離したことで、俺は一歩前に進めたのだ。
 それがたとえ他人から見れば、まったく進んでいるように見えなくても。

 居心地の良かった楽園から追い出されてしまった俺は痛みを感じつつ、未来に向かって歩み始めることにした。

【おわり】


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