愛から始まる物語


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【四月馬鹿】



 俺が兄貴の隣の部屋に逃げてきて、文緒が生まれた翌年の春の話。
 春休みに入っていたが、起床時間はいつもと同じ。眠たい目をこすりながらベッドから抜け出して着替えを済ませてから俺はいつものように佳山家へと向かうため、ドアを開けた。
 廊下に出ると、等間隔に紙が落ちている。なんだろうと思いながら通り過ぎようとしたら、
『文緒が』
 と書かれているのが視界に入った。
 文緒が?
 疑問に思い、紙を拾い上げ、視線を次の紙へと向ける。
『寝返りをして』
 寝返りかぁ。初めて寝返りをしたのを目撃したのはそういえば俺だったんだよな、と数か月前を思い出して思わず、頬が緩む。
 あまりの出来事に興奮して、携帯電話の動画撮影をして蓮さんと奈津美さんに送った。それから数日、その動画をことあるごとに見ていた。
 最初、なかなか上手に回れなくて顔を真っ赤にしながら寝返りを打とうとしていたのがすごくかわいくて、だけどここで手助けをしたらダメだとぐっとこらえていたら助けを求めるように文緒は俺の顔を見た。少し泣きそうになって瞳が潤んでいるのを見たら助けないとと思ったけど、そこは我慢して……。身体に力を入れて一生懸命うつぶせになろうとしていた。最初はうまくいかなかったけど、文緒はそれであきらめることなく再度、チャレンジした。
 先ほどの失敗でなにかを得ていたらしい文緒は、口をへの字にして眉間にしわを寄せながらくるり……と回転して見せた。
『文緒、すごい! できたじゃないか!』
 俺は興奮して寝返りを打って得意顔をしている文緒を抱きかかえ、はしゃいだ。文緒は誇らしそうな、だけどあまりにもはしゃぐ俺に困ったような表情をして一緒に喜んでいた。
 子育てなんてできるんだろうかと不安に思っていた俺はさまざまな育児書を読み漁って寝返りの時期もわかってはいたけど、目の前で初めて目撃するととにかく感激する。
 落ち着きを取り戻した俺は文緒を仰向けに寝かせ、また寝返りを打つように促した、携帯電話を構えて。
 文緒は俺の意図を察してくれたようで、不器用な寝返りをまた、見せてくれた。それは見事に動画におさめられ、蓮さんと奈津美さんに無事、届けられた。
 ……懐かしいなぁ。
 先ほど拾い上げた『文緒が』という紙と一緒に持ち、さらにその先に落ちている紙を拾う。
『ベッドから』
 ベッドから?
 今、文緒は寝るとき、蓮さんと奈津美さんの寝室に置かれたベビーベッドで眠っている。そのベッドからどうしたんだ。
 俺はその先の言葉を知りたくてもう一枚、落ちている紙を急いで拾い上げた。
『落ちた』
 !
 文緒がベッドから落ちただって?
 俺は四枚の紙を握りつぶし、佳山家へと急ぐ。
 俺の部屋から佳山家までは一分もかからない距離だ。それなのにどうしてこうも遠く感じてしまうのだろうか。

「おっ、おはようございます!」

 預かっている鍵で玄関を開けて挨拶をしながら飛び込む。
 廊下を走り、キッチンに行くと、そこには沈痛な表情をした蓮さんと奈津美さんが俺を待っていた。

「ふ……文緒は……?」

 いつもなら、蓮さんが朝食の支度をしていて、奈津美さんはソファに座って文緒に授乳をしていることが多いのだが、その二人のどちらにも文緒がいない。
 俺の脳裏には最悪な状況がよぎる。
 大きく首を振り、寝室へと向かう。
 蓮さんと奈津美さんの寝室の前に行くと、なぜか入口に兄貴と智鶴さんが立っていた。

「兄貴……?」

 俺の呼びかけに兄貴は力なく首を振る。
 まさか……そんな……。
 俺は震える手でドアノブをつかみ、汗で滑りそうになりながらひねった。
 部屋はカーテンは閉まったままだし電気もついていない。恐る恐る、廊下の明かりを頼りに部屋の中に入り、ベビーベッドへと近寄る。
 文緒は……ベビーベッドに横たわっていた。

「まさか……文緒?」

 恐怖に自分の声が震えているのがわかる。
 ウソだろ……ウソだって言ってくれよ。
 心臓を直接握られたかのような衝撃が、全身を駆け巡る。身体から力が抜けそうになりながら、ベッドの中に腕を伸ばす。昨日まで感じていたぬくもりを確かめるためにその柔らかな頬に手を伸ばす。

「……温かい」

 俺の恐怖で冷え切った指先には、昨日と変わらないぬくもりが返ってきた。それが偽りではないことを確かめるため、ベッドに寝ている文緒を腕の中に抱える。

「文緒、痛くないか? 大丈夫か?」

 文緒はどうやら今の今まで寝ていたようで、俺の声に目を覚ましたようだ。いつものように頬を叩かれた。

「文緒、よかった……!」

 ギュッと強く文緒の身体を抱きしめる。
 すると突然、部屋が明るくなるなり、背後から笑い声が聞こえてくる。まぶしさに顔をしかめながら、俺は声の方に振り返る。

「なにがおかしいんですかっ! 文緒がっ!」

 俺の真剣な表情を見て、四人はさらに笑っている。

「ごめんなさいね、睦貴」

 頬にえくぼを刻んで笑っている奈津美さんが俺に向かって謝ってきた。

「今日、何日か知っているか?」

 兄貴の声に、俺は壁にかかっているカレンダーに視線を向ける。

「……四月……一日……って!」

 ちょっと待て!
 今日って、今日って!

「エッ、エイプリルフールっ!」

 うわあ! やられた!
 今日が四月一日でエイプリルフールってことをすっかり忘れていた!

「……まさかここまで見事にだまされるとは思っていなかった」
「ひどいよ! 四人して俺で遊んで!」

 ああ、もう、脱力だ。
 俺は文緒を腕に抱いたまま、座り込んだ。

     *     *


「へー、そんなことがあったんだ」

 俺は今、蓮さんたちにだまされた話を文緒にしていた。そう、今日は四月一日。日本語で言えば、四月馬鹿と言われる日。

「睦貴って昔は素直だったんだ」
「……ちょっと待て。今だって素直だ!」
「今はだまされるよりもだます側になってるじゃない」

 そんなことはないぞ!

「今日だって、朝、起きるなり、仕事が首になったとかいうしっ」
「…………」

 文緒を驚かせてやろうと思ってウソをつきましたです、はい。

「去年は……なんだったかなぁ。毎年、毎年、よくもまあ、次から次へとウソをよくそこまで思いつくわよねぇ」
「俺がつくウソなんて、すぐにウソとわかるかわいいものじゃないか!」
「今年のウソはちょっと本気にしちゃった」
「……文緒さま、ひどすぎ」
「どちらがひどいんだか」

 反撃され、俺は絶句する。

「それくらいのかわいいウソなら、許すっ。それに、睦貴がウソをつくのは『四月馬鹿(エイプリルフール)』だけだもんね」

 そうですよ、俺はいつだって正直で真摯!

「ねーえ、睦貴」

 文緒は少し甘い声で俺の名を呼ぶ。

「ウソはそれくらいにして……」

 瞳を潤ませて、文緒は上目づかいで俺を見ている。朝から誘ってくるなんて、なんて積極的っ!
 俺は文緒の腰を引き寄せ、ぬくもりを確かめる。
 そういえばあの日、文緒が生きていることを確認したくて小さな身体を抱きしめたんだよな。それが今や、こんなに立派な大人の女に育って……。
 なんだかそのことを思うと、胸が熱くなる。

「文緒……愛してるよ」

 文緒の髪をかきあげ、唇を重ねる。
 そして俺は、このぬくもりが偽りでないことを確かめるために、文緒をもう一度、きつく抱きしめた。

【おわり】


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