愛から始まる物語


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【月光】



──月の光は、死者が浴びる輝きだ。

 人の死後のことを思うと、眠れなくなることがある。
 今日はまさしくその日で、こういう時はここに救いを求めにやってくる。
 俺は真夜中にこっそりと双子の仏像がおさめられている宝物庫へと赴く。

 今よりも『生』と『死』のコントラストが激しかった時代。命が『あり』か『なし』、デジタル的に表せば『イチ』か『ゼロ』だった時、今のようにその境界が曖昧ではなかったような気がする。
 現代は『生』の隣には『死』があるという気持ちが希薄になってしまう。『死』というのが特別なことすぎて、生きているのが当たり前に感じてしまう。『生きる』というのはすなわち、『死ぬための準備』であることを忘れがちになる。

──死んだらそれまでだ。

 そう思っているのは本人だけで、残された人間はその思いを抱えながら生きなければならないのだ。
 死はゴールではなく、中間地点でしかならない。
 死後の世界を願うのは、いつだって生きている人間。
 死後の世界があるのかなんて、生きているものは誰一人として知らない。この世には修行のために訪れていて、死んだらまた、来世へと繋がるなんて……それはやはり、生きている人間たちの願望に過ぎない。

 俺は昔、『死』に憧れた。
 生きていることが苦痛で、死ねば楽になると信じていた。

 動いていたものが突然、時を止める。糸が切れた人形のようにぷっつりと動かなくなる。それは『解放される』と思っていた。
 しかし、そうなったものはいったい、どうなってしまうのだろうか。『意識』というのは、死ぬとどこに行くのだろうか。消えてなくなるのか。それとも、『肉』から離れて自由になれるのだろうか。
 死んだ後のことが気になった。
 書物を読み漁っても、答えを見出せなかった。
 それならばどうなるのか、試してみようか。
 潤哉に裏切られ、生きる意義を失っていたとき。
 そんな甘い誘惑が、俺の耳元でささやかれた。

 絶望していた俺の元に、直視できないほどのまばゆい光を放つ存在が生まれてきた。
 月は太陽の光を浴び、反射させて地球にその光を降り注ぐ。太陽の光を直接見ることが出来なかった俺は、月を介してしか見ていなかった。それなのに、その存在は──太陽、そのものだった。
 あまりのまぶしさに目がくらむ。

──ああ、生まれたのだ。

 それは小さくて頼りなかったが、それでも激しく光を放っていた。
 生きる気力を小さな太陽から直接、与えられた。

 死者が浴びる光しか得ることが出来なかった俺は、小さな存在から生きる気力をもらった。

 生きる意味とはなんだろう。
 そう考えたとき、それは自分のために生きるのではなく、俺のことを知っているだれかのためだと気がついた。
 もしも俺という存在がこの世からなくなったなら。
 それは、だれかを悲しませることになるのではないだろうか。
 生きるとは、自分以外のだれかの笑顔を守ること。
 死ぬというのは、その人から笑顔を奪うということ。

 そう考えたら、『死』を選ぶことが出来なくなった。
 俺が死んでしまったら、俺がこの世で最初に取り上げた存在を悲しませることになる。
 俺が人から笑顔を奪うなんて、なんとおこがましいのだろうか。

 それならばせめて、この笑顔を守りたい。
 大それたことは出来ないけど、俺が一日でも長く生きることで今日も笑顔を見せてくれるのなら、生きる苦痛に耐えてみせる。



 宝物庫が開く音がした。

「やっぱり、ここにいたんだ」

 月の光を全身に浴びた文緒がいた。だけど文緒は、月の光を跳ね返すほどの光を自ら放っている。
 文緒の光を全身で感じたくて、抱き寄せた。腕の中におさまっている文緒を見て、もっと感じたくなった。顔を寄せ、唇を奪う。

「睦貴、仏像たちの前なんだから」
「いいじゃないか。俺たちの仲のよさを見せ付けてやれば」
「嫌よ。私はそんな趣味はっ」

 嫌がる文緒をきつく抱き寄せ、腰に手を掛ける。

「もうっ」

 抗いながらも文緒の吐息には甘い色が混じり始める。

「睦貴、ここではやめて」

 そう口ではいいつつも、文緒は身体に力が入らなくなってきたのか、もたれかかってくる。耳たぶに舌を這わすと、甘い声が鼻を抜ける。

「やんっ。睦貴の意地悪っ」

 やめる様子を見せない俺に文緒は本格的に抵抗を示した。

「……ごめん。生きている感覚がほしくて」

 押さえきれない衝動と戦いながら、俺は文緒を抱きしめる。

「またそうやって……っ!」

 心なしか、文緒の声が震えている。また不安に思わせたみたいだ。

「違うんだ。俺は文緒を介してしか、生きている実感を得られないから。生きている感覚がほしくて。その、昔みたいに死にたいとはもう、思ってない」

 文緒とここにいる仏像たちに誓うように俺は口にした。
 俺は、文緒と子どもたちを守らなくてはならないのだから。
 笑顔を守るために、俺は死なない。
 生きて、生き抜いて──死んだときもみんなが笑顔でいてほしい。

「『早くこのじじい、くたばればいいのに』ってくらい長生きして、大往生でみんなに笑顔で見送ってほしいんだ」
「……睦貴ってほんっと、極端よね」
「そうか?」
「だけど、それくらい長生きする気でいるのなら、心配ないわね」

 文緒は目の端に浮かんだ涙を拭いながら、俺を見上げる。目の端にキスを落とし、涙を吸い取る。

「相変わらず、しょっぱいな」
「もう、なにするのっ」

 文緒は俺の胸に顔をこすり付けて、涙をふき取った。

「俺がなめてあげたのに」
「いっ、嫌よっ」
「なんで? じゃあ……文緒がひいひいと泣いて懇願するまで責めるかな」
「さっきもあんなに激しくしておきながら、どこにそんな元気がっ!」

 自分で言っておきながらなんだが、ちょっと今日はもう無理っ! 強がりだ、強がりっ!

「ほら、しっかり寝ないと明日の朝、起きられないよ?」
「……そうだな」

 先ほどまであんなに不安な気持ちだったのに、今はもう、大丈夫だ。
 いつも文緒には救われている。
 俺はふと、片腕だけになった千手観音に視線を向ける。自分の腕を犠牲にして民を救ったという、その像。文緒はこれを見て、泣きながら自己満足だと言い切ったけど、それでもきっと、この像は人々を救いたかったのだろう。救いたかったというよりは、笑顔を守りたかった。
 それが一瞬の出来事でもいい。永遠なんて言わない。永遠に笑顔を守ろうなんて、そんなエゴは言えない。
 本当に一瞬であったとしても、腕を犠牲にしてまで守りたかったのだろう。

 俺にはこの観音像の気持ちが痛いほど分かった。

 だけど俺は、投げ打つものがなにもない。
 文緒は俺が犠牲になって得た幸せなど要らないと言い切ってくれた。観音像の気持ちは分かるけど、俺は俺のやり方で笑顔を守ろうと思う。


「次は文緒が泣いて懇願するほど、ひいひい言わせてやる」
「ちょっとは手加減してよ。さっきだって、足腰立たないくらい激しくするから、追いかけてくるのが大変だったんだからっ」

 文緒は真っ赤になって抗議をしてくる。
 だって……言い訳をさせてもらうけどっ。文緒の反応があまりにも扇情的過ぎて、止められなかったんだっ!
 数えられないくらい文緒を抱いたけど、飽きることがない。むしろ、抱く度に愛しさが増していく。素直に反応する文緒の身体、熱くたぎる俺の身体。さすがに歳を感じることがあるけど、それでも、止められない。

「むっちゃんって底なし沼だよね」
「ペナルティ」
「あっ」

 久しぶりに文緒にそう呼ばれて、なんだか妙に照れくさい。後ろ頭を手で押さえて、唇を重ねる。

「んんっ、睦貴……」

 とろりとした文緒の視線に止まらなくなるが、さすがに踏みとどまった。
 俺は文緒の腰を支えながら、宝物庫から出る。

「文緒は俺を煽るのが上手いよな」
「煽ってなんかないよ」

 頬を膨らましてふてくされているけど、そういうのがかわいいということに文緒は気がついていないようだ。
 俺にはない素直な反応に、うらやましくなる。
 自分の気持ちをストレートに表現できていたら、俺の人生はもう少し変わったものになっていただろうか。
 無い物ねだりやもしもを考え始めるとまた、眠れなくなってしまう。

「眠れないのなら、とんとんしてあげるね」
「……子どもじゃないんだから、眠れるよ」
「眠れないから、あそこに行ったんでしょ?」

 図星すぎましてよ、文緒さまっ!

「なんにも考えないで頭を空っぽにしたら、眠れるよ」

 と言われたけど、簡単にそれができていたら困っていない。
 文緒は眠いようで、ひっきりなしにあくびを繰り返している。そのあくびは俺にも伝染してきた。

「ほら、眠くなってきたでしょ?」

 楽しそうに笑う文緒を見ていたら、なんだか悩んでいたことがとってもちっぽけで馬鹿みたいなことに思えてきた。心が軽くなってきて、急激に眠気が襲ってきた。

「……眠くなってきた」
「良かった」

 安堵した声に、文緒に心配をかけていたことを知った。
 ようやく部屋に付き、俺と文緒は一刻を争うかのように急いでベッドに潜り込んだ。布団の中はぬくもりは消えていたけど、文緒の体温ですぐに温かくなってきた。
 目を閉じると、俺の意識は急速に吸い込まれていった。

 俺は出来るだけ長く生きて、俺に関わる人たちの笑顔を守りたい。
 大それたことはできないから、肩肘張らずに俺が出来る範囲でやっていきたい。
 そんな曖昧でおぼろげな感情が俺の中に柔らかく広がっていくのを感じた。

【おわり】


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