『何気ない日常』
アメリカから戻ってきてからはなんだかばたばたしていて、文緒と二人でゆっくりするのはずいぶんと久しぶりだ。
主のいない佳山家のリビングで文緒と二人、のんびりと紅茶を飲んでいた。
「ねえ、むっちゃん」
「ん?」
カップから文緒へと視線を移し、ペナルティのことを思いだした。
どうやら佳山家(じっか)に戻ると気が緩むらしい。
俺がソファから腰を上げても小さく首を傾げて不思議そうにこちらを見ているのをみると、文緒はまだ気が付いていないようだ。
文緒がカップを持っていないのを確認してから文緒の座っているソファの座面に膝をつき、顔をのぞき込んだ。
目を丸くして上目遣いで俺を見ている。表情から察すると、まだ気がついていない。
「ふ、み、お」
音を一つずつ区切って名前を呼んだところで文緒はようやく気がついたようだ。
はっと息を飲み、探るような視線をこちらに寄越してきた。
文緒よ、俺を煽るな。人様のうちにも関わらず、襲うぞっ!
「え……っと」
文緒の煽りに耐えること数秒、文緒から見ればなにも反応を示さない俺に戸惑ったようで、おどおどと様子を窺ってきた。
俺はどちらかというとマゾっ気が強いと思うのだが、文緒相手になると違ってくる。
好きな子を苛めて困った顔を見たいな……なんて。
ちょっと困らせておたおたする姿を見たいというか、俺が起こした行動に反応してくれるのが嬉しいというか。
いや、ちょっと待て。これではまるっきりのかまってちゃんじゃないか。
……おかしい。俺は一人でいることが好きなのに。
どうも文緒が絡むと俺が俺ではなくなるようだ。
「文緒?」
俺の呼びかけに文緒は俺の瞳を見つめてきて、そっと目を閉じた。
分かってるじゃないか。
俺はにやりと笑い、文緒のお望み通りに唇を重ねた。
柔らかな文緒の唇の感触。
貪りたくなるのを我慢して、唇を離した。
「──それで、文緒」
問いかけると文緒は目を開け、かなり不満そうな視線を向けてきた。
だからここは佳山家であってだな。
文緒の視線の意味するところが分かっていながら俺は必死になって耐え、言葉を続けた。
「さっき、なにを言い掛けたんだ?」
俺の問いかけに文緒は頬を膨らませつつも答えてくれた。
「アメリカに行って気がついたんだけど」
「うん」
「空知の別荘に行ったとき、睦貴はノックを三回叩いたら開けろって言ったじゃない?」
またずいぶんと昔の話を引っ張ってきたな。
戸惑いつつ、そう言ったのを思い出してうなずいた。
「どうして三回だったのかなあと」
どうしてと聞かれてもなあ。
「三回なら俺だって区別が付くかと思ったからだけど」
そう返事をしたら、文緒はしかめっ面をした。
「アメリカで入室前にこんこんってノックしたら、怒られたの」
「そうなんだ」
始めて聞いた話だったので、興味深く続きを促した。
「ノックを二回はトイレの個室に対して入っているか確認を取るためて、通常は四回、親しい人相手だと三回なんですって」
「ほう」
「その話を聞いて以来、ノックを気にして聞いてたんだけど」
「うん」
「アメリカだとだいたい四回で、日本だと驚くことに二回だったの」
「そうなんだ」
「もちろん、日本でも三回、四回叩く人もいるけど、少数だったの」
気にしたことなかったな。
「睦貴はこんこん、こんこんって四回なのよね」
「ああ、そうやって躾られたからな」
俺に躾を仕込んだ人間を思い出して嫌な気分になったけれど、振り払うように大きく息を吐き出し、文緒を見た。
「睦貴は私にノックを三回するから開けてって言ったのは、その……」
文緒は口ごもり、なぜか真っ赤になった。
え……っと?
欧米ではノックは四回というのがマナーらしい。そして文緒が言うようにノック二回はトイレ内に人が入っているか否かを確認するため。
三回はと言うと。
「親しい人間に対して……だよな?」
俺はそう教えられたんだが。違うのか? しかもさっき、文緒もそう言っていたよな。
文緒はまだ頬を染めたまま、小さくうなずいた。
今の会話の中に文緒が赤くなる要素がどこにあったのだろう。
不思議に思って首を傾げると、熱を持っているのが気になるのか、文緒は頬に手を当てて俺を見た。
「だって、空知の別荘に行ったとき、私はまだ中学生だったでしょ」
「まあ……そう、だな」
「それにあの頃の睦貴ってだれに対してもかなり距離を取っていたじゃない」
俺はそんなつもりはなかったのだけど、文緒からはそう見えていたのかもしれない。だから肯定も否定も特にしなかった。
「でもあの時に『ノックは三回』って言ってくれたのは、睦貴は私のことを親しい人間だって認識してくれてたんだって後から気がついて……えっと、その」
頬を押さえていても分かるくらい、文緒は真っ赤になった。
や……えと。そっ、そんなに照れるようなことか?
そんな反応をされたら、こっちまで恥ずかしくなる。
「あの時にノックの回数の意味を知っていたら……」
とは言うけれど、文緒が知っていたとしても結果は変わらなかったと思うんだよな。
「さて、と。文緒、部屋に戻ろうか」
「あ、うん」
まだほんのりと頬が赤いまま文緒はカップを二つトレイに乗せてキッチンへ。俺はその後ろにひっついていき、シンク前に立った文緒の身体を密着させた。
「……睦貴?」
疑問の声に俺は文緒の耳元で囁く。
「文緒は何回ノックしたら開いてくれるんだろうな」
「……もうっ」
ようやく治まっていた赤い顔がまたもや赤くなっていた。今度は耳まで真っ赤だ。
「睦貴はノック三回でいいからっ」
文緒は手早く洗い、俺の腕の中からするりと抜けた。それから手を差し出してきて、
「むっちゃん、戻ろっ」
と笑いかけてきた。
……ヤバい、部屋まで持つかな。
俺は差し出された手を掴むと引き寄せ、文緒の耳元に囁いた。
「覚悟しておけよ」
「だって……っ」
言い訳は口で塞ぎ、文緒の唇をぺろりと舐めると腰に手を回し、文緒と共に佳山家を後にした。
《おわり》