愛から始まる物語


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『ヤマアラシのジレンマ』



 ある日、文緒が一冊の絵本を買ってきた。なんでも、最近世間で流行っている心理学の対人関係を分かりやすく説明したらしい絵本。
 タイトルは『ヤマアラシのジレンマ』という。大学だったかの心理学の授業でそんなのを習ったような気が、しないでも、ない。
 読んでおいたほうがいいよ、と文緒に言われたので、素直に読むことにした。



『ドイツの哲学者・ショーペンハウアーの寓話より』

 寒空の下、一匹のヤマアラシがいました。ヤマアラシはひとりでさみしく思っていました。
 そこへ、同じように寒がっているヤマアラシに出会いました。
 寄り添って温め合えば、さみしくないし、お互いが温かくなると思った二匹は、すり寄りました。
 しかし、ヤマアラシたちはある程度近寄ると、自分の身を守るためのとげがお互いの身体を刺し合いました。
 二匹はどうにかして近寄って温め合おうとしましたが、背中の自分の身を守るためのとげが近寄らせてくれません。
 どうやっても近寄ることのできないヤマアラシ。二匹はお互いのとげが刺さらない距離を保ちながら、一緒に泣きました。
 ヤマアラシたちは泣き合っているうちに、気がつきました。
 近寄りすぎるとお互いの身を守るためのとげで相手を傷つけてしまうけど、傷つけあわないぎりぎりの距離を保てば、お互いがさみしくなく、それなりのぬくもりを得られるということに。



 ラストは、泣き止んで、ある一定の距離を保ってにこにこ笑顔のヤマアラシが、子どもが好きそうなパステルカラーのきれいでかわいらしい絵柄の絵でしめられていた。

「読んでどう思った?」

 そういって、ずいぶんと大きくなったお腹をさすりながら文緒が聞いてきた。

「どうって……」

 素直な感想を言っていいんだろうか。

「まあ、睦貴の感想は想像がつくんだけど」

 どうやら読まれているらしい。それでは、素直に。

「俺なら、自分のとげをすべて抜いて、相手のとげにさされ」
「もういい。予想以上の答え、ありがとう」

 文緒はむっとして俺から絵本を取り上げた。
 えー、なんでだよー。素直に言っただけじゃないか。
 だってさ、お互いが想い合ってるんだろう? だったら、俺なら自分の身を守るなんてどうでもいいからとげを抜いて、相手のとげに刺されたっていいから欲望に忠実に。

「妄想もそこまでにしておけっ!」

 と思いっきり、後ろ頭を絵本で叩かれた。
 痛い、文緒さま……。でも、素敵。
 もっと殴って、叩いて、むしろ蔑んで……!

「あなたたちのパパがこんな変態で、ごめんね、ごめんね」

 文緒は泣き真似をしながら、お腹をなでて中の子たちに語りかけている。
 大丈夫だ、文緒。少なくとも、俺の血、半分を受け継いでいるんだ。間違いなく、子どもも変態だ。

「そんなことない、絶対に私の血が勝つに決まっているわ!」

 私の血、というよりは……蓮さんには勝てないかもしれない。奈津美さんにも。うん、それくらいの方がいいかもしれない。
 俺に似たら本当にかわいそうで仕方がないかも。

「もうちょっとしたら念のためにって母体管理で入院になっちゃうけど。それまでゆっくり睦貴と過ごそうと思ってたのに。肝心の睦貴がこれだもんなぁ」

 とため息交じりに言われてしまった。

「だけど、この子たち、きっと生まれてきたときからこのヤマアラシの最後のシーンなんだよね」
「うーん、どうなんだろう。双子だからなぁ。自己の確立がきちんとできるまで、意外にはりで傷つけあうかもしれないぜ」

 文緒が持っていた絵本をするりと取り、もう一度読み返す。
 赤の他人と見てもよし、恋人と見てもよし、兄弟と見てもよし。この絵本、なかなか奥が深いな。さすがよく知られた心理学のお話だ。

「だけど、自分のとげを抜いて、相手のとげに刺されるのが気持ちがいい、なんて発言、たぶん睦貴だけだよ」
「そうかなぁ。百人に一人くらいはいそうだけど」
「そんな高確率で変態、いりません!」

 ひどい、変態、変態と連呼しなくても。

「そんな変態に結婚してください、と言ったのは……どこのだれだ?」
「私。だって、私が結婚してあげなかったら睦貴、今も絶対に独身でしょ?」

 ……痛いところをつかれた。

「私がありがたく婿としてもらってあげたんだから、感謝しなさい」

 返す言葉がまったくありません。
 お腹の子どもたちの人生を思うと、そうとでも言わないとやっていられないのは分かる。さすがに能天気な俺でも、この人生を恨みたくなってくる。
 高屋を捨てたことによる、とても大きな弊害。
 高屋なんてなくなってしまえばいいのに、なんて思っている俺は、最低だな。
 生まれてきた子たちの性別がどちらかなんて、聞いてないけど俺たちには分かっていた。だから余計に──文緒はいつも以上に明るくふるまっていた。
 今の静けさが、嵐の前の静けさだっていい。この子たちの未来は、生まれた瞬間からきっと、嵐なんだろうから。

「私と睦貴の子だもん。強いよ、この子たちは」
「そうだな。それこそ、ヤマアラシのとげなんてものともしないで突き刺さっていても笑顔で笑っていられるほど、神経の太い子たちだよ」
「……睦貴は、その刺さっているとげが気持ちがいい、もっと刺してー! なんでしょう?」
「そう」

 文緒は予想通り、呆れた視線を俺に向ける。

「文緒から与えられるものは、痛みも苦しみもなんだって甘美なもの、なんだよ」
「……なにそれ、呆れた」

 俺は、相手に……特に大好きな文緒を傷つけるからって遠慮して保身するくらいなら、自分が傷ついてでも文緒の胸に飛び込みたい。もちろん、大切な文緒を傷つけることなく。
 だったら、自分が盾になって、要らないものは脱ぎ棄てて文緒の胸に飛び込めばいいじゃないか。
 きっと、この絵本に正しい答えなんてない。
 最後の絵のように、心地よい人間関係を築く秘訣は、お互いの距離──心地よいパーソナル・スペースを保つのが一番だ、というのだろうけど。俺みたいな変な答えがあったっていいじゃないか。相手のパーソナル・スペースを侵害して嫌がられても、中にはそれが心地よい、と思ってくれる人がいるかもしれないじゃないか、文緒のように。

「私ね、アキさんから話を聞かされた時──なんで睦貴を好きになったんだろう、と実は後悔したんだ」

 初めて文緒の口から聞く話に、俺は背筋を正した。

「だけどね、睦貴と出会って結ばれたから、この子たちに会えたんだよね」
「うん──そうだね」

 文緒の後悔した、という言葉は少し胸に痛かったけど、文緒のお腹の中で元気に育っている俺たちの子どもに会うために出逢ったんだ、と思うと納得できた。

「だからね、睦貴」

 文緒はソファに座り、俺にその横に座るように促してきた。素直に横に座ると、胸に頭を預けてきた。文緒の髪から甘い匂いがする。文緒の肩を抱き寄せる。

「今だけ少し、こうやって甘えさせて」

 今だけと言わず、ずっとこうやっていたい。そんなことは無理だって分かっていたけど、そう思ってもいいじゃないか。

「文緒、愛してるよ。ありがとう」

 文緒の肩を抱きしめて、耳元で囁く。

「こんな俺を愛してくれて……ありがとう」

 お屋敷の廊下で取り上げたのがなにかの縁だったのか。それから途中、空白の期間があるとはいえ、ずっとあのヤマアラシのようにつかず離れずの関係だった俺たち。
 自分の背中のとげを抜いたのは文緒が先だったのか、俺だったのか。
 とげなんてくそくらえ、だ。

「さて、と。寝ましょうか」
「そうだな。俺はもうちょっと仕事があるから。先に寝ておいて」

 仕事が少し残っているのを思い出し、ソファからゆっくり立ち上がる。

「あまり無理しないでね? 未亡人で双子抱えて、は嫌だから」
「分かってる。すぐに寝るよ」

 俺だってそれは嫌だ。子どもの顔を見ないで死んでしまうなんて。
 俺は大きく背伸びをして、文緒に軽くキスをしてからやりかけの仕事を残している机へと向かっていった。



【おわり】

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