《四十二話》心の痛み
人の良さそうな感じのする圭季のお父さまが力でねじ伏せたってのがなんだかピンとしない。
「……和明はボクとチョコを守るために、桜家から提示された不利な条件を飲み込んだんだ」
……なに、それ。
「ボクは和明とのつき合いが長いから、すぐにいつもの和明ではないというのは分かった。だけど当時のボクは今以上になんの力も権限もなくて、和明に守られることを甘んじるしかなかった」
それってもしかして。
「そんなことになっていたというのを知ったのは、実はチョコが誘拐された後なんだ」
「……え?」
「和明に呼ばれて、圭季くんと薫子くんとの経緯を説明されて、頭を下げられた。和明はチョコに直接、謝りたいと言っていた」
「あ、謝るって言われても!」
お父さまに謝られても困るんだけど……。
「あの時、桜家の言うことをはねのけておけばよかったと……和明は後悔している」
なんと言ってきたのかは分からないけど。会社のトップとして守らなければならないものってたくさんあると思う。
「圭季くんは、ある意味で被害者だ。ボクたち大人が彼を守ってあげられなかった」
あたしはなんといえばいいのか分からなかった。
あたしと父の間にしばしの沈黙。
からからからっと乾いた音がして、病室のドアが開いた音がした。
「雅史さんたちが後ろめたく感じることはないですよ」
そう言って入ってきたのは圭季だった。
「従業員を救うのが次期後継者としての勤めです」
そうは言うけど!
「あの時、チョコを守るにはあの手しかなかったんだ」
「…………」
ひどい。
人の弱味を突いてくるなんて。
あたしは悔しくて、まだ包帯ぐるぐるの手に力を入れた。痛みは少なくなっていたけど、それでも痛い。
でも今は手の痛みよりも胸の方が痛かった。
すごく悔しい。
いろんな人を巻き込んで、人の弱味につけ込んで。
「……結果がどうなるかなんてことまで考えつかないほど追い込まれていて、どうあっても手に入れたいと──。手段を選ばないほどおれは薫子を追いつめていたのかもしれない」
ぼそりと呟かれた言葉に、父は苦笑に近い笑みを浮かべた。
「そこは圭季くんが責任を感じるところではないと思うよ。圭季くんはいつもきっぱりと断っていた」
「だけど、那津に言われた。もう少し言い方があるのではないかと。……やんわりと拒否をしてもまったく聞く耳を持たなかったから、はっきり言った。確かに今思えば、言い過ぎたかもしれない」
も、もしかして、薫子さんにあたしの身代わりだなんて言っていたりした? それで、代わりのあたしをこの世から消せば圭季が手に入るなんて思わせてしまった?
……ありえる。
「おれと薫子は似ていたんだ」
似てる?
「本当にほしいものがあったとき、どんな手段を使っても必ず手に入れようとする。その後になにが待っているのか分かっている。それでもそんなことは『目的』を思えば些細なことなんだ」
ぞくりと背筋が凍った。
あたしはそんな強い気持ちを持ったことがなかったから分からないけど、だからこそ怖いと思ってしまった。
「でも、圭季くんと薫子くんには決定的な違いがある」
父の声にあたしと圭季は同時に父へと視線を向けた。父はその視線を受け、少し恥ずかしそうに口を開いた。
「諦めるということを知っているところ」
…………?
首を傾げて圭季を見ると、圭季は分かっているようだった。少し目を伏せて、唇をかみしめている。
「それはおれの悪いところで……」
「違うよ、圭季くん。人の上に立つということはね、引っ張る力がないといけないんだよ」
「引っ張る力?」
先導していくという意味では必要だけど。それと諦めるとどう繋がるの?
「なにかに向かって進むとき、社員を引っ張っていかなくてはならない。だけど時には判断を誤ったことに気が付き、引き返さなくてはならなくなることがある。そんなとき、その道を諦めるという決断が出来ないと、悲劇が起こる」
それで父の言いたいことがなんとなく分かった。
「諦めることは、時と場合によっては必要なんだよ。それがいい結果に繋がることがある」
「だけどおれは、チョコを手に入れるまで諦めるつもりは……」
圭季のあたしに対する妙な執着を知ってぞっとした。
圭季のことが怖い。
そう思うと同時に、優越感や誇らしさみたいな気持ちも沸き上がってくる。
だれかにそこまで強く想われるという自信。
そして遙かに強いと思われていたライバルである薫子さんに勝ったという自尊心。
あたしの中にそんな感情が一気に生まれ、心を翻弄していく。
部屋に一人だったら、ぐへへなんて変な声を上げて笑っていたかも。
だからあたしはニヤツく顔を必死に耐えた。
幸いなことに父も圭季もあたしの顔がニヤケていることには気が付いていないようだった。
あたしはうつむき、ぎゅっとキツく瞳を閉じた。
真面目な話をしているのにニヤケるなんてどうなのよ、あたしっ!
「でも、圭季くんはチョコが心の底から嫌がっていたら、引くことは出来ただろう?」
父の質問に少しの間があって圭季はうなずいた。
「そこが圭季くんと薫子くんの大きな差異だ」
薫子さんは周りに迷惑を掛けていても……というか、掛けているという自覚さえ持たず、自分の目的しか目に入ってなかったんだろうな。今頃、薫子さんは自分のやったことがどれだけのことだったのか自覚してくれているのだろうか。
あの性格だからそれを望むのは無理な話なのだろうか。
そうなるとやっぱりあたしの身はやはり危険で……。
圭季は守ってくれるというけれど、頼りっぱなしなのもどうかなと思う。
それにはあたしはもう少し強くならなくては。
具体的にどうすればいいのか分からないけど、殻にこもったままでは駄目だってのは分かった。
でも、いきなり変わることは出来ないから……。
「あ」
そこであたしは思い出した。
「アルバイト……」
薫子さんに誘拐されたとき、あたしは圭季が決めてくれたアルバイト先に連絡を入れるはずだったのだ。
事件のどさくさで忘れていた。
「ああ、それなら大丈夫だよ。チョコのことは連絡してある。身体が良くなったらおいでと言ってくれている」
退院したら連絡を入れておこう。
不器用なあたしは一度にあれもこれもは無理だから一つずつこなしていこう。
とにかく今は一刻も早く身体を治すことだ。
あたしが顔を上げたとき、圭季のケータイが鳴った。
「那津が迎えに来てくれているから降りよう」
父と圭季が荷物を持ってくれて、あたしたちは地下の駐車場へと向かった。
いつものリムジンでお迎えに来てくれていた。
「それで、チョコ」
リムジンが動き出してから父はあたしに呼びかけてきた。
「今日から橘家で寝起きしてね」
……はいっ?
「あー、また肝心なことを言わないで! と怒られるところだったよ。いや、あのマンションだと警備が行き届かないから橘家にチョコをお願いすることになったんだよ」
…………えっと?
「圭季くんのプロポーズも受けたみたいだし、花嫁修業も兼ねてでいいと思うんだよね」
「えっ、だって! あそこからだと学校に通うのがっ!」
「そこは大丈夫だよ」
那津が横から口を出してきた。
「梨奈とオレと一緒にリムジンで通学するから」
そっ、それって。
「帰りは? だってあたし、アルバイト……」
したら駄目なんて言われたらどうしようと思ったら、顔が強ばった。それを見て、圭季はあたしの手の甲に優しく手を重ねてきた。
「大丈夫。サークルや部活は警備の関係で難しいけど、アルバイトはしてもかまわないから」
圭季はあたしを優しい瞳で見つめてきた。
【つづく】