《三十八話》なれそめ
圭季の真っ直ぐな謝罪にあたしは小さく首を振った。
「怖かったけど、大丈夫……」
だけど圭季は頭を下げたまま。
「……もう、あんなことはしないでね?」
というあたしの言葉に、圭季はちらりと視線をこちらに向けてきた。
「あんなこと、とは?」
圭季の問いかけに、あたしは少しだけ目を見開いた。
圭季を見ると至極真面目な表情をしているから、別にあたしをからかっているわけではなさそうだ。
だからあたしはしどろもどろだけど答えた。
「よ……酔っぱらって、その……む、無理矢理しようと、しっ、しないで」
最後は恥ずかしくて声が小さくなった。だけど圭季にはきちんと聞こえていたようだ。
「分かった。同意をとってからにする」
……えっ?
いや、うん、間違ってないけど! 同意をとってからって!
そ、そんな恥ずかしいこと……!
圭季は笑みを浮かべて、顔を上げた。その表情があまりにも無邪気に見えて、恥ずかしくて慌てて視線を逸らしてしまった。
「おれは今回、チョコにひどいことをしたし、言った」
真面目な声音に逸らした視線を元に戻す。
圭季は笑みを浮かべたままだったけど、どちらかというと自嘲気味な笑みだった。
「今回、チョコがいなくなったと聞いたとき……心臓が止まりそうだった」
そんな大げさなと思ったけど、逆の立場になって考えた。
朝、普通に出て行った圭季の行方が分からなくなる。
事故に遭ったのかも……とは思わないか。だって『いなくなった』のだから。
なにがあったのだろうと考える。
「チョコが家出をするわけないから、なにがあったのか分からなくて激しく混乱した」
そうだよね。
まずは家出というか、自ら失踪したのかもと考えるわよね。
「最初に気が付いたのは、雅史さんだった。あの日は少し遅い帰りだったらしいけど、いつもよりは早かったようだ。チョコはアルバイト先に顔出しをすると言っていたというから最初は気にしていなかったらしい」
ああ、やはり。
「ところが、二十時すぎても帰ってくる気配がないから、気になってチョコのケータイに掛けたら繋がらない。これはおかしいと思って、念のためにアルバイト先に掛けたら来ていないというから、おれと那津に連絡がきた」
あたしがさらわれたのは二時限目が終わったところだったから、お昼。
それから何時間、掛かったのだろう。
「チョコの足取りを追いかけると、かなり目撃者がいた」
見かけたのなら助けてよ! と思ったけど、まさか白昼堂々と誘拐なんてことが起こってるとは思わないわよねえ。
もしかしたら用意周到に病人を搬出するように見せかけていたかもしれないし。
「ストレッチャーまで用意していたから、計画的犯行だ」
ストレッチャーってのは、あの救急車なんかに積んであるキャスター付きのベッドのことかしら?
「そうすると目立つものの、不自然さなく学外に人間一人くらいなら運び出せるからな」
やはり病人を運び出すかのようにして、あたしは連れ出されていたのか。
「未成年略取・誘拐の罪で刑事告訴に踏み切ることにしたのは雅史さんだ」
「……お父さんが?」
のんびり屋の父がそれだけ怒っているということか。
「こちらとしてもさすがに堪忍袋の緒が切れたというか、庇いきれないから、雅史さんを全面的にバックアップしていく構えでいる」
なんだか大事になってるけど、いいのかな……。
「シトラスの件もあるし、桜・椿一族は橘製菓から締め出す」
そう言った圭季の表情は見たことがないほど険しくて、あたしはなにも言えなかった。
だけど。
ありえないけれど。
もしも圭季がだれかに誘拐されたと聞いたら。
あたしに力があれば、相手に対してそれくらいしていたかもしれない。
「……だけどその、報復だとか恨まれるとか……そんなのは大丈夫?」
薫子さんのことを思い出すと、後のことが恐ろしい。
「連日の会議でほぼ決まっていたことだ。今回のことを加算して、完全に締め出すことが出来る理由を手に入れた」
「でもっ……!」
薫子さんとのやりとりを思い出すと、大人しく引き下がるとは思えない。
「逆恨みされる可能性は……?」
あたしの心配に圭季は顔をしかめた。
「未成年略取・誘拐は長くても五年の刑だ。残念ながらあの性格だから、出てきて報復をしてくる可能性はあるな」
「そんな……!」
分かり切っていたことだけど、はっきり言われるとどうすればいいのか分からない。
「間違いなく『お礼参り』はしてくるだろうから、今度こそはおれがチョコを守る」
そういうと圭季はあたしを真正面から見つめてきた。
恥ずかしいから視線を反らしたかったけど真剣な眼差しだったから、あたしも応えるようにじっと圭季を見つめた。
「製菓会社の跡取りなのに、肝心なお菓子が食べられない。それはおれにとってひどいコンプレックスだった」
あたしにも苦手なものはあるけど、それはコンプレックスにはなっていない。だから圭季の気持ちは今一つ分からない。でも圭季に褒めてもらえるまでチョコレート色の髪色はコンプレックスだったから、そちらでは分かるつもり。
「だけど、チョコのお菓子を食べられることを知って……助かった、救いの女神がいたと思ったんだ」
すっ、救いの女神っ?
だだだだ、だれですか、それはっ!
「なにがなんでもチョコを手に入れたいと思った」
あたしはとんでもなく早くなった鼓動を押さえるために、深呼吸を繰り返した。
ずっと疑問に思っていた。
あたしが三歳の時にあたしから結婚の約束をして、圭季は一生守るって言ってくれた。そんなのは子どもの戯れだって周りも思っていたし、あたしなんてその後に起こった母の件でショックを受けて忘れていたくらいだ。
律儀にその約束を守ってくれなくてもあたしは恨んだりしなかったと思う。
それにあたしは薫子さんみたいに綺麗でもないし、頭がいいわけでもない。
誇れること……と言っていいのか微妙なところだけど、お菓子を作ることも食べることも大好きというのは、あたしの長所というか、特徴というか。
『都千代子』を語る上で、『お菓子が好き』というキーワードは外せないけれど……というくらいの軽いものだ。あたしを形成する上では重要だけど、他人からすればどうでもいいもの。
だけど圭季にとっては、あたしの『お菓子が好き』というのがなによりも重要だったみたいだ。
「最初はチョコの作ったお菓子に興味があった」
……あはは、そ、そうですよね。
「次に、このお菓子を作る人に興味を覚えた」
それがいつ頃かは分からない。
「このお菓子はだれが作ったのかと聞いたら、幼い頃に約束をしたチョコだと知った」
そして圭季は辛そうな表情を浮かべた。
「それを知ったのが薫子との取り決めのあとだったから……すごく悔やんだ」
そういうタイミングだったんだ。
「最初は諦めようと思ったんだ。だけどやっぱり諦めきれなくて、しかも雅史さんから親父になにやら昔の約束を持ち出してきたのを知り、それを理由に薫子との仲を解消した」
そういえば父と圭季のお父さまはそんなやりとりをしたというのは聞いた。
「昔の約束の話の前に、チョコは知らないだろうけど実はおれ、何度かチョコを見に行っていたんだ」
「…………!」
「それに、教育実習にも行ってるんだがな」
「…………」
そっ、そうよね。
圭季は一年間とは言え、教職に就いていたものね。教員免許がなければいくらコネがあるとは言え雇えないだろうし。免許を取るためには実習をしなければならない。
「……あ、れ? 圭季は聖マドレーヌに実習に来ていたの?」
「行ったよ」
記憶にない。
男性教諭が少ないから若い男性が来たなら話題になっているはずなのに、どうして記憶がないんだろう。
「……あ!」
もしかして。
「教育実習にあの黒縁眼鏡にぼさぼさ頭で来た?」
「そうだけど?」
それならばあまり話題にならない……?
「残念なことに、チョコのクラスは受け持てなかったんだよな」
ああ、それで記憶にないのか。納得。
「だけどチョコの姿は影からこっそり見ていた」
……そ、それって一歩間違ったらストーカー?
あたしは思わずしかめっ面で圭季を見てしまった。
【つづく】