《十九話》頼もしい親友
昼に学内のカフェテラスで朱里と待ち合わせをしていたはずだった。
話をしたいと思っていたのに動けず、あたしはまるでその場に縫い付けられたかのように椅子から立ち上がることが出来なかった。
どれくらいそうしていただろう。
「もう、チョコったら、探した……って、チョコっ?」
聞き覚えのある声が聞こえてきた。この声は朱里だ。
カフェテラスに現れないあたしを探してここまで来てくれたのだろう。朱里が来てくれたという安心もあり、気が緩んだ。あたしの涙腺は限界を迎え、決壊してしまった。
「チョコっ!」
名前を呼ばれているのは分かっているのに、顔を上げることが出来ない。
明らかにうろたえている朱里になにか言わなければと思うけど、昨日と今日の出来事で感情がパンクしてしまって泣くことしか出来なかった。それでも声を上げて号泣しなかったことを褒めたい。
朱里は鞄の中をひっくり返してハンドタオルを見つけるとあたしに押しつけ、もう一枚を手に持つと教室から飛び出して行った。あたしはありがたく朱里から渡されたタオルで涙を拭うけど止まらなかった。
朱里はすぐに戻ってきた。どうやらタオルを濡らしてきたらしい。
それであたしの顔を拭いてくれた。ヒンヤリと冷たくて気持ちが良かった。
「なにかあったのね」
朱里の問いかけにこくりと頷くことしか出来なかった。
「話を聞いてあげたいんだけど、もう少ししたらお昼が終わるから。……チョコ、次も講義があるよね? 今日は四時限目までだよね」
肯定の意味でうなずいた。
「四時限目が終わってから時間ある? アルバイト前だからあんまり時間は取れないけど、授業が終わったらそちらの教室に行くから待っていてね」
そう言って朱里はあたしを支えて教室から出て、次の講義の教室まで連れて行ってくれた。
「じゃあ、また後でね」
朱里はそれだけ言うと慌ただしく出て行った。
講義を受けたはずだけど、あたしの記憶は定かではない。
黒板に書かれた内容もきちんとノートに書き取ったと思うけど、話の内容も書いたことも覚えていない。
四時限目の授業も教室移動をして受けた。
一年生のうちは座学が多いから助かった。
講義終了のチャイムが鳴ったと同時に朱里が教室に入ってきて、素早くあたしを回収してくれた。
時間短縮ということでカフェテラスに寄らずに校門へと向かっていて、駅に向かいながら話をするのかと思ったらいきなり曲がり、事務棟へと向かった。それからガラスが埃にまみれた薄汚い部屋に入り、すぐ側にある紙カップ式の自販機にお金を入れ、紅茶を買ってくれた。
「ここ、サボるのにちょうどいいんだ」
朱里はそう言って、くすりと笑った。
あたしは朱里から紙カップを受け取り、近くのビニール部分が破れてスポンジがはみ出しているパイプ椅子に座った。
「ありがと」
「いいってことよ」
朱里は自分用にブラックのコーヒーを購入してあたしの隣に座った。
「で、昨日、シトラスに電話をしたんだよね?」
「……うん」
昨日のことを思い出し、あたしはぎゅっと手のひらに力を入れようとしたけど紙カップがあふれて来て慌てて力を抜いた。
「なにかやらかしちゃった?」
いつものあたしのドジっぷりを知っている朱里はわざとらしく肩をすくめて軽く聞いてくれた。
「今回はその……珍しく失敗はなかった……と思う」
「おお、すごい! すごい進歩だ、チョコ!」
なんだか馬鹿にされたような言い方だけど、そこは仕方がないかもしれない。いつもだったらひどいよ朱里、なんて突っ込みを入れられただろうけど、今は無理だった。
朱里もそう返ってくると思っての軽口だったのだろう。予想外にあたしからいつものような返しがなかったことに事態は深刻だということに気がついたようだ。
「えっと……」
朱里は戸惑ったようにそう言うと、コーヒーを口に含んだ。美味しくなかったのか顔をしかめている。
「電話して、挨拶にうかがおうかと思いますって話をしたら、すぐにアルバイトに入ってと言われて……」
「それで、講義が終わってから行ったの?」
「うん」
それから朱里にシトラスでの出来事を話した。とてもスムーズとは言えない話しぶりだったけど、朱里は分からないところでストップを掛けて確認をしてきた。
「……なにそれ、酷い!」
朱里は自分のことのように怒ってくれている。
あたしはそれを見て、落ち着いた。
「それで、那津くんと圭季さんが助けに来てくれたんだ」
「……うん」
助けには来てくれたけど……。
「圭季は仕事があるからってすぐに帰っちゃった」
「はあ? 帰ったあ? それってどーなのっ? あんたがチョコにシトラスのアルバイトを宛がったんだろうっ! おまえのせいでチョコがこんな目に遭ったのに、フォローもなしかいっ!」
あ……やっぱり朱里、怒ってる。
「でも、あたしのせいで圭季のお仕事を邪魔し」
朱里はあたしの言葉を遮り、怒り狂い始めた。
「間違ってるわよ、チョコ! 仕事も大切だけど、彼女よりも仕事を取ったのよっ? 酷い目に遭ったのに放置なんて、彼氏としてどうなのよ!」
ちらりと時計を見ると、思ったより時間が経っていた。
「朱里……アルバイト」
「あー! んなもん、関係ない! と叫びたいところだけどっ!」
あたしはすっかり冷え切ったミルクティを飲み干し、紙カップをゴミ箱に捨てた。
「うん、聞いてくれてありだとう。すっきりした」
「わたしがスッキリしないわーっ! あああ、いらつくわっ!」
といいつつ、朱里は紙カップをゴミ箱に叩きつけて八つ当たりしていた。
「普段ならともかく、訳が分からないまま閉じ込められた上に説明もフォローもなしよ? それってどうなの、よおおおおお!」
朱里はパイプ椅子に足をかけて絶叫している。あたしはどう返せばいいのか分からない。
どうにか落ち着いた朱里と二人で事務棟の部屋から出て、足早に駅へと向かう。
「圭季さんはチョコを大切にしてくれているのは分かるけど、でももうわたしたちも子どもじゃないんだから、きちんと説明がほしいわよね」
朱里のその言葉はあたしも思っていたことだからうなずいた。
「チョコ」
同じ電車には乗ったけど、朱里はすぐに降りてしまう。だから早口で朱里は言う。
「圭季さんにきちんと説明してもらいなよ」
「……うん」
すべてとは言わないけど、それなりの説明がほしい。だから朱里の言葉はあたしの考えは間違ってないと後押ししてくれるものだった。
「あー、降りなきゃ。うーんと、アルバイト終わったらメールするから」
「……うん。朱里、ごめんね」
「こっちこそなんだか中途半端でごめんね」
「アルバイト、頑張ってきてね」
「ありがとう。じゃあ!」
そう言って朱里は電車から降りて改札口へと駆けていった。今日のあたしみたいに遅刻しなければいいけど。
あたしは家への最寄り駅まで電車に乗り、いったん家に帰って着替えた。
圭季が作ってくれたせっかくの弁当も食べきれず残してしまった。弁当箱を洗い、食器カゴに伏せて入れた。
そんなことをしていたらインターホンが鳴り、那津が迎えに来てくれたのを知った。
すぐに降りると伝えて、あたしは携帯電話と財布、家の鍵にタオルを持って家を出た。
【つづく】