《一話》だっさい家庭科教師登場
あたし、都千代子(みやこ ちよこ)。この春から高校三年生になったばかりのかわいい女の子(ハート)。
……自分で「かわいい」と言っている時点でかわいくないわよね。
ええ、残念ながら容姿は人並み、お菓子作りが好きでお菓子をよく食べるから他の子たちより少しぽっちゃりなのが玉に瑕。
母を早くに亡くし、製菓会社に勤務する父に育てられたので必然的にお菓子大好きな子に育ってしまったのがそもそもの原因なのよ、この体型は! しかも、なんの因果かお菓子の日である二月十五日に産まれちゃったものだから、名前なんて由来は「チョコレート」からですってよ、奥さん!
……ってだれよ、奥さんって。
ひとり漫才はむなしくなるからこのあたりにしておいて、と。
あたしは「聖マドレーヌ女学院」という女子校に中学から通っているんだけど、少子化の波に押されてこの四月から残念(?)なことに「聖マドレーヌ学院」と名を変えて、共学になってしまったの。他の子たちは「男がくるー!」と喜んでいるけど、あたしはパスしたい。男の子って乱暴でがさつで遠慮がないから苦手。
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憂鬱な気持ちで春休み明けの学校に出かけるあたし。
「チョコ、おはよー。朝から相変わらずな顔をしてるわね」
相変わらずで悪かったわねっ! ムッとしながら挨拶をする。
「おはよう、朱里」
あたしに声をかけてきたのは小学校からの悪友・花村朱里(はなむら あかり)。あたしとは対照的な細身の体型で、うらやましい。そして明るく活発だから、男女問わず人気がある。……と言っても、学校は女の子しかいないから、男の子から人気がある、というのは小学校の時の話ね。
「今日、始業式の後に入学式があるじゃない。それで、新入生もちらほら見かけたんだけど、結構かっこいい子が多かったよ」
朱里はそういうけど、どうでもいい。あーあ、男の子がいないからここにしたのに、卒業前の年になってどうして共学にしてくれるのかな、この学院は。
「チョコが男の子苦手なのは分かったけど、将来結婚とかどうするのよ?」
「……そんなもの、しないわよ」
朱里は苦笑いを浮かべ、
「だけどそういう人の方がいきなり情熱的な恋に陥ってソッコーで結婚したりするのよね」
と訳知り顔で言っている。そんな事例、どこにあるのか教えてよ。
「だけどチョコ、お父さんも苦労してあなたをここまで育てたんだから、嫁のひとつやふたつ、行かないと泣くよ?」
「……朱里さま、仮に嫁に行くのなら、一度だけで結構でございます」
あたしの突っ込みに朱里は笑う。
「あはは、うちのママみたいにバツ三くらいいかないと」
とあっけらかんに笑うけど、それもどうかと……。
「人生、恋をしてなんぼ!」
そんな母の元に育てられた朱里は、確かに恋多き乙女だ。通学中の他校の男子生徒と目があっただけで恋に落ちてすぐに振られたり、痴漢されたサラリーマンに告白して怖がられたり……。とにかく朱里は突っ込みどころ満載なことをしていて、見ているあたしはいつもはらはらしてしまう。
「どこかに白馬に乗った王子さま、いないかしら~」
といつもの口癖をつぶやき、朱里は席に戻って行った。時計を見ると、そろそろ始業のチャイムが鳴る時間のようだった。
「体育館に移動してくださーい」
高校三年は大学受験があるからクラス替えがなくそのまま持ち上がりというのもあり、去年クラス委員をしていた片田(かたた)さんが叫んでいる。今年も彼女がクラス委員になるのかな?
朱里と一緒に取り留めのない話をしながら体育館に移動する。中に入ると背の順で並ぶように指示をされた。あたしはクラスの真ん中くらい、朱里は背が高いので後ろの方に並ぶ。いいなー、あたしも後ろの方に並んでみたい。なんとなく憧れをもって朱里のいるあたりを見る。
ぞろぞろと集団で先生が体育館に入ってくる。その中に、見覚えのない白衣の男の先生が目に入ってきた。あれ? あんな先生、この学校にいた?
疑問に思ってよく見ようとしたけど、先生の集団は移動して視界に入らないところへ行ってしまった。先生たちが前に到着すると、始業式が始まった。
校長の挨拶って長ったらしくてつまらなくて退屈。そんなもの、要らないじゃん。と思っていたら、あたしの前に立っている子がぐらぐらと揺れ、その場に崩れ落ちそうになっていた。
ひ、貧血っ!?
あせってその子をつかみ、床に倒れこむのを阻止した。そのままその子を抱きかかえるようにして列を抜け、一番後ろまで半ば引きずるように連れて行った。
「渡辺さん、大丈夫?」
体育館の一番後ろに連れて行き、壁にもたれかからせるように渡辺さんを座らせる。
「ああ、チョコちゃんごめんね。わたしなら大丈夫だから」
渡辺さんは真っ青な顔をしてそう言っている。いやいや、大丈夫なわけないでしょう!?
「渡辺さん、立てる? 保健室に行って休もうよ」
あたしの言葉に渡辺さんは首を振る。
「あはは、今日、一日目だから貧血。だから大丈夫」
えええい、どこが大丈夫なんじゃいっ!
「貧血にはチョコレート!」
あたしは上着のポケットに隠し持っている一口チョコレートの入っている箱を取り出した。
「え、あ」
戸惑う渡辺さんの口に無理やりチョコレートを放り込んでやった。
「んもう、最近の若い子はダイエットダイエットって渡辺さん、朝ごはん、ぬかしてきたんでしょう!? だめよ、女の子はきちんとご飯を食べておかないと! 将来、子どもができた時、大変なんだからね!」
……自分で言っておきながらなんだけど、どこのおばちゃんよ、あたし。渡辺さんがびっくりした顔であたしを見ている。
「チョコちゃんって……面白いね」
あたしは面白くもなんともないわっ!
渡辺さんは口の中のチョコレートを食べきってからあたしに聞いてきた。
「ところで、チョコレートって貧血に効くの?」
「どこまで本当かは知らないけど、それなりには効くみたいよ。チョコレートは鉄分を多く含んでいるからいいらしいよ。それに、ダイエット効果もあるとか」
本当にダイエット効果があるのなら、あたしなんて今頃、ナイスバディの予定なんだけどね……と心の中で呟いておく。あたしの場合はお菓子の食べすぎ、というのが一番大きいから、本当はそういう効果があるのかもしれない。だけどあたしの適当な話に渡辺さんは感心したようにうなずいている。嘘ではないはずなんだけど、ちょっと後ろめたい。
チョコレートが効いたのか、さっきまで真っ青な顔をしていた渡辺さんの頬にうっすらとピンクの色が戻ってきて、ほっとした。
「ありがとう、チョコちゃん」
急にどよどよというざわめきに現実に戻された。そうだった、今は始業式の最中だった。すっかり忘れていた。ふと生徒たちの方に目を向けると、みんなの視線は舞台に注がれている。
どよめきの原因はそこにあるようだったが、あたしは渡辺さんの横にしゃがんで座っているので、もちろん見えない。気になりつつも立ち上がってみたとしてもあたしの背の高さでは見えないことが分かり、諦めた。
『始業式は終わりにしますが、このまま入学式に移ります~。椅子の準備を全員でしてください』
という先生のアナウンスにぞろぞろとパイプ椅子がしまわれている舞台下に移動し始めた。
「入学式、出られないでしょ? やっぱり保健室に行こうよ」
あたしの言葉に渡辺さんは力なくうなずく。
ぞろぞろと先生たちの集団があたしたちの横を通り過ぎようとしていた。その中から先ほどちらりと見えた白衣を着た見覚えのない男の先生が出てきた。
「どうした、貧血か?」
あたしはその先生を見上げた。
うっわ、だっさ!
あたしの第一印象はそうだった。
ぼさぼさの黒髪にいまどきまだこんな眼鏡を売ってるの? という黒ぶちの大きな眼鏡、白衣の下はワイシャツを少し着崩している……といえば聞こえはいいけどアイロンの掛かっていないしわしわのシャツ。なんだこのマッドサイエンティスト風な人は。
思わず身体をこわばらせた。
「大丈夫です。今から歩いて保健室に行きますから」
渡辺さんはそう言って壁にもたれかかって立ち上がろうとした。
「無理するな」
ぼさぼさマッドサイエンティスト……略してぼさマッド、われながらひどいネーミングだ……は渡辺さんに近づき、その見た目によらず力があるようで、ひょい、と軽々と抱っこ──いわゆる、お姫さま抱っこ──してすたすたと歩き始めた。
「おれ、ここに来たばかりで分からないから保健室まで案内してもらえる?」
ふと振り返り、ぼさマッドはあたしにそう言っているようだ。
「あたし?」
「そう。そこのチョコレート色の頭の子」
あたしは髪の色を指摘されて、ムッとする。
だけど今はそのことに突っ込んでいる場合ではないことに気がつき、ぼさマッドの前に立ち、保健室に案内することにした。
先生方の集団は成り行きを見守るだけで特になにも言ってこなかった。うーん、このことなかれ主義体質な教師たちめ。
あたしは保健室まで案内しながら考える。
このぼさマッド、見た目はアレだけど、かなりやさしい人らしい。たぶんあの集団の先生たち、あたしたちのことが目に入っても声さえもかけてこなかったに違いない。
なんたってことなかれ主義な先生集団だからね。中には熱血教師もいるにはいる。だけど最近は生徒に対して腫れものを扱うような先生ばかりのようで、問題が起こっても避けようとする傾向にあるような気がする。
あたし、学校選択を間違ったのかなぁ、とたまに悩むけど、他の学校に行った子たちの話を聞くと、まだましなようだったから……仕方がないのかなぁ。
「保健室はここです」
あたしはドアを開け、ぼさマッドが入りやすいようにした。
「ありがとう」
渡辺さんを抱っこしたまま、中に入っていく。後を追って中に入る。
「先生、いらっしゃいますか?」
保健室の先生、いたためしがないのよね。……と言ってもあたしは健康優良児で保健室なんてめったにこないからたまたまなのかもしれないけど。
「先生、まだ戻ってないと思うわ」
渡辺さんはようやくお姫さま抱っこから解放されたらしく、真っ赤な顔をしながらも教えてくれる。
「いつものことだから、大丈夫。わたし、ベッドで少し休んでます」
渡辺さんはテーブルの上に置かれた用紙になにかを記入して、ベッドまで行ってカーテンを引いた。
今から始まる入学式のために体育館に戻るしかなかった。
「ちょっと待て、そこのチョコレート」
保健室を出ようとしたところ、ぼさマッドに腕を掴まれて止められた。
「なんですか」
ムッとしてぼさマッドを見上げる。この人、結構身長があるんだ。とどうでもいいことに気がつく。
「今から入学式ですよ?」
「どこであるんだ?」
「先ほどの体育館で始業式に続けてやるようです」
あたしの言葉にぼさマッドは片手をあげて
「ありがとう」
と呟いてさっさとひとり、保健室を出て行った。
なんだあの先生?
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結局今の先生が何者なのか分からず、疑問に思いつつも体育館に戻った。
体育館に戻ると、すっかり入学式の準備は済んでいるようだった。うん、すごい団結力だ。いつもながら感心する。
見知った顔を探し出し、空いている椅子に座る。
「チョコ、どこに行ってたの?」
朱里があたしを見つけ、席を代わってもらって囁いてきた。
「渡辺さんが貧血で倒れたから、保健室に連れて行ってきた」
「あー、また彼女、倒れたのね」
あたしは知らなかったけど、彼女はよく貧血で倒れているらしい。あれだけ枝のように細いもの、あれ以上痩せたら骨だけになるじゃない。きちんと食べなさいよ、まったく。
『入学式を始めます』
先生の声がして、体育館内はしーんと静まる。クラシック音楽がかかり、新入生が入場してくる。だれも声を上げないけど、空気のざわめきでなんとなくみんなそわそわしているのが分かる。今年から男の子が入ってくるんだもん。人数は少ないみたいだけど、そりゃあ期待、しているんだろうねぇ、みんな。でもさあ、年下だよ?
あたしたちの間を通り、新入生は前に準備されたパイプ椅子の場所まで歩いていく。
朱里が言っていたけど、確かに顔だけ見るとなかなかいい線をいっている子ばかりではある。だけど……どうでもいいや。
新入生代表で挨拶をした子はずいぶんと整った顔の男の子で、名前が変わっていたからなんだか妙に印象に残った。
カエデナツ、と名乗っていたけど、どんな漢字を書くんだろう?
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入学式は滞りなく終わり、あたしたちはぞろぞろと教室に戻った。教室に戻ると、なんだかみんな、そわそわしている。なんでそんなにそわそわしてるんだろう? 疑問に思いつつ、担任である菊池先生が来るのをぼんやりと待っていた。
そういえば、渡辺さん、大丈夫かな? あとで荷物を持って行ってあげよう。
しばらくして菊池先生がやってきた。
「みなさん元気そうでなによりです」
クラスが変わらないように、担任も変わらず、変わったのは教室だけか、と話を聞きながら思った。
「先ほどの始業式でも発表がありましたが、副担任の先生が変わりました」
菊池先生の言葉に、教室内がどよめく。
「入ってください」
その言葉を合図に、ドアが開いて人が入ってきた。
「え」
あたしはその人を見て、つぶやいた。
「今日から三年一組の副担任になりました立花圭季(たちばな けいき)です、家庭科を担当しています。よろしくお願いします」
ぼさぼさ頭をぺこり、と下げて挨拶をしている人は……さきほど、渡辺さんを抱っこして保健室に連れて行ってくれたぼさマッドではないか。なんでそこに立っている?
あたしは驚いて口を開いたまま、相当間抜けな顔をしてぼさマッド──立花先生──を見つめていた。
「さっきはどうも」
立花先生はあたしに気がつき、にこにこと手を振ってきた。教室内全員の目があたしに向く。
うわっ! なんてことをしてくれるっ!
「さっき、渡辺さんを保健室に連れて行ってくれて……」
しどろもどろ言い訳をする。なんでここで必死になっていいわけしなくてはいけないのよっ!
注目され慣れていないので心臓がばくばく言い始めた。
「あら、渡辺さん、また貧血ですか? 立花先生が保健室へ連れて行ってくれたのですか?」
「ええ、ずいぶんと青い顔をしていましたから。彼女、大丈夫ですか?」
「いつものことですから、ご心配なく」
いや、菊池先生……いつものことだから余計に心配なんでしょう? あたしの思いを知ってか知らないでか、立花先生は口を開く。
「貧血は治さないと、いろいろと大変ですから」
立花先生の言葉に菊池先生は少し困ったような表情をしてあたしたちを見る。
「高校三年生にもなっているあなたたちに言うのもなんですが、朝ごはんはしっかり食べてきてくださいね」
あたしは菊池先生の言葉にうなずく。まったくだわ。
「今日はここまで。みなさん、早く帰れるからといって、寄り道などしないでおうちに帰りましょうね」
菊池先生はそれだけ言うと、教室を出て行こうとした。
「あ、そうだわ。都さん」
急に名前を呼ばれ、驚いて立ち上がった。
「は、はひっ!」
「立花先生の補佐をお願いしますね」
は? はい?
菊池先生はそれだけ言って、教室から出て行った。
ちょっと待って。補佐ってなんですか?
疑問はむなしく宙に散っていった。
菊池先生が教室を出て行ったことで、興味津々な生徒たち何人かがすでに立花先生を取り囲んでいる。若そうだけど、あのだささはパス。
それよりも渡辺さんが気になって彼女の席に置かれていた荷物と自分の荷物を持ち、保健室に向かおうと教室を出ようとした。
「チョコレート頭、待て」
生徒たちに囲まれている立花先生がたぶんあたしのことを呼びとめた。
「あたしには都千代子、という名前があるんですっ!」
あまりにもチョコレートと連発するもんだから、頭に来て名乗った。
「やっぱりチョコじゃん」
ムッとして立花先生をにらむ。
「さっきの子のところに行くのか?」
「荷物を届けに行くだけです」
立花先生は生徒をかき分け、あたしのところまで歩いてきた。
「荷物持ってやるから貸せ」
あたしの手にふたつのかばんがあることに気がついた立花先生は奪うように荷物を取り、歩き始めた。
「保健室まで案内、よろしく」
仕方がなく小走りで立花先生に駆け寄り、少し前を歩いて保健室に向かった。
。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+
保健室に行くと、原本先生──保健室の先生──がいた。
「渡辺さんの荷物を持ってきました」
立花先生が持ってくれているかばんを受け取り、テーブルの上に置く。
「あら、ありがとう。渡辺さんなら寝ているわ」
原本先生の言葉に苦笑した。
たぶん、遅くまで起きていて寝坊して朝ごはんが食べられなかった、というのがオチのような気がする。
立花先生が持っているあたしのかばんを受け取り、中から個包装したマドレーヌを出して原本先生に渡す。
「これ、あたしが作ったマドレーヌです。これは原本先生、あとひとつは渡辺さんが起きたら渡していただけますか?」
「あら、ありがとう。ありがたくいただくわ」
原本先生はマドレーヌを見てにっこりほほ笑んでくれた。
「それでは、失礼します」
立花先生は再度あたしのかばんを持って保健室を出た。後を追って出る。そしてそのまますたすたと歩き出してしまった。
「先生、あたしのかばん、返してください」
靴箱に向かおうとしたのに、立花先生は反対に行こうとしている。
「なんで?」
「なんでって……帰るからに決まってるじゃないですか。靴箱は反対なんです」
あたしの答えに立花先生はにやり、と笑い、
「チョコはおれの補佐なんだろう? ちょっとついてこい」
と言ってきた。
帰ってお菓子を作りたかったけど、そう言われたら仕方がないのでついていくことにする。あたしは素直に立花先生についていった。ついた場所は家庭科室だった。
「ここって?」
「家庭科室。おれ、家庭科の先生だから」
絶対に科学の先生だと思っていたのにっ! よりによって家庭科の先生ですって?
あまりの意外性に口をあんぐりと開けて立花先生を見上げた。
「さっきも思ったけど、間抜けな顔だな」
年頃の娘に向かってなんてことを言うの、この人はっ!
文句を言おうと口を開こうとしたら、家庭科室の横の小部屋の扉を開けられて中に入るように促された。仕方なく中に入った。
ここって確か準備室だったよね? 家庭科の授業で何度か入ったことを思い出した。前に入った時はここに所狭しといろいろな機材やら物品が置かれていたような気がしたんですけど。立花先生はあたしのかばんを窓際の机の上に置いた。
「立花先生、ここにあった物たちは?」
あたしの疑問に立花先生は得意そうな顔をしてこちらを見た。
「おれがここ、春休み中に全部片付けたの。試食室隣の部屋に全部移したよ。本来はあそこが荷物置き場で、ここは先生の控室だったらしいから」
そんなのは初耳だ。
だけど不思議には思っていた。ここは家庭科室の後ろ側になるんだけど、いつもなんでわざわざここに荷物を片づけなくてはならないんだろう、と疑問に思っていた。というのも、正面の黒板の横の左右にそれぞれ扉がついていて、左側は試食室へ続く扉があり、右側にも同じように扉があってそこも中にはいれるようになっているはずなのに開かずの間と化していたのだ。あちらの方が近いし便利なのに、とずっと思ってはいたのだ。
「これで物品の管理がしやすくなったよ」
あちら側には入ったことはないけど、たぶん広いのだろう。
「菊池先生は補佐、と言われたけど、基本的にはおれ、なんでもひとりでするから大丈夫だよ。でもまあ、たまに手伝ってほしいことがあると思うから、その時はよろしくね」
そう言って差し出された手を見つめた。えーっと、これは……握手を求められている? 戸惑い、立花先生を見上げた。
「あ……。ごめん、なれなれしかったね」
立花先生は苦笑して、差し出した手を引っ込めた。
「あの、あたしのかばん……」
立花先生の後ろにあるかばんをおずおずと指さした。
「さっきのマドレーヌ、まだある?」
いきなりそう言われ、戸惑う。まだあるにはある……けど。
「あります」
あたしの言葉に立花先生は机の上に置いたかばんを返してくれた。ない、と言ったら返してくれなかったのかな? そんなことを思いながらかばんを開けて、中からマドレーヌを取り出して立花先生に渡した。
「どうぞ」
「ありがとう」
立花先生は受け取るなり袋からマドレーヌを出し、食べ始めた。
……はやっ。
「うわ、これ美味い!」
立花先生の感想に、うれしくなる。
「もうひとつ」
立花先生は子どものように手を出してマドレーヌを要求してきた。……いえ、ありますけどね。あなたには遠慮という文字がないのですか?
とは先生相手には言えなくて、マドレーヌを出してその手のひらの上に乗せた。マドレーヌが手のひらにすっぽり納まるということに気がつき、少し驚いた。
立花先生はにこにことしてマドレーヌを袋から出して食べている。そして食べ終わってまた、当たり前のように手のひらを差し出してきた。もうひとつあったけど、それは後から食べようと思っていたものだった。
「……先生、もうないです」
立花先生はものすごくしょんぼりして上目遣いで見つめて来る。
「美味しかったのに……」
そんな捨てられた子犬みたいな顔をされたら、自分用に取っておいたマドレーヌをあげないわけにはいかないじゃない。しぶしぶかばんから最後のひとつを取り出した。立花先生は子どものように目を輝かせて手を差し出してきたけど、
「これ、あたし用のですけど」
という言葉にまた先ほどのようにしゅん、と悲しそうな表情をしてマドレーヌを凝視している。
「あ、あたしはいいですからっ! また作りますから」
手渡したマドレーヌを今度は本当に大切そうに少しずつ食べ始めた。
先生なのになんだろう、この人。ぼさぼさ頭を見つめながらそう思った。
【つづく】