4−2.妊娠中絶の責任

 

「エゴ」としての中絶

 僧侶は中絶を殺生、あるいは殺人と主張して批判することがある。中絶が当事者の「エゴ」「勝手」「都合」により実行されると考えられるとき、その批判はしばしば増幅される。通常、僧侶は中絶を当事者の身勝手な理由によるものと、当事者の意に反するやむをえない理由によるものとに分ける。そして、前者の身勝手な中絶に対して異義を唱える。その境界をどこに置くかについての判断は、僧侶のあいだでかなりの差がある。水子霊の存在や中絶の因縁を説いて、その原理に沿って依頼者の悩み事の相談に応じる僧侶では、中絶を非難する調子が概して強くなる。
 中絶が「エゴ」「勝手」「都合」としての性格を有するのは、中絶を受ける当の胎児の生命や人格を損なうのみならず、宗教的な秩序(4,55,87,131,132,154,161,162)や自然の摂理(31,161,162)に反する行為だからである。しかも、この三者は分かちがたく絡み合っている。この関係のなかから、水子霊の怨み、罪障因縁、罰など人生の災厄をもたらす原因が導き出されることもある。「基本的にいただいた命だから、命を大切に御縁を大切に育てるべきである」「水子も一個の分身として畏敬の念があれば堕胎できない。神仏があると思えば堕胎できない」「いつか自然に抑えられるときが来る。因果の法則によって頭を抑えつけられるときが来る」。
 自然の過程としての生殖、神仏の恵みとしての妊娠、両者の結果としての生命という捉え方は、地球と胎児に生命の神秘を感じる僧侶(30)の言説にも共鳴している。人為的行為である中絶を助ける技術が、科学の思想を表すものとして自然や神仏に対照させられる場合もある(84,161)。
 中絶する理由の利己性が批判の対象になるとき、批判を受ける中心にあるのは当事者の心の持ち方や態度である。「生命はこの世にあるもので、親がつくるのではない。子供は神仏の授かりもの。最近では親が都合で子供を勝手に処分、中絶して、平気な顔をしている。自分がつくったものを自分で処理できるという考え方が良くない。ただ単に肉体を処分するということでなく、生命のもとを消滅させるというところが良くない。現代の人間は生命に対する考え方が荒廃している」(131)。
 そこでは、生命尊重そのものの観点が揺らぎ、殺生の是非より殺生に対する態度の是非に重点が置かれる可能性もある。「(中絶を)したっていい。決して悪いとは言えない。だけども、その心はいいと思わない」(27)。

 

身勝手とされる理由

 女性が中絶を実施する理由のうち、僧侶が身勝手なものとして問題視したり、批判の色合いは薄くても、言及したりすることが多いのが、性的欲求(33,36,69,124,161)や物質的欲求(124,166)の優先によるものである。そこに、背景として現代の物質的な豊かさや退廃を映し出そうとするのである。「遊び半分でつきあっている連中はすぐ中絶する」「悪質なものでは遊んだ末の中絶」「物を買って捨てて、エゴだけでやっている」。これに対して、「年寄はイメージが違う。生活のために産めなかった。今はけろっ(とする)」として、高齢の中絶経験者は戦中戦後の混乱や貧困のためにやむをえず中絶し、供養する余裕もなかったと語られ、現代との対照的な状況が想定される。
 中絶の当事者には男性も含まれうるが、中絶を話題にするとき、僧侶と調査者としての私のあいだでは問題になるのは女性であると暗黙の了解があり、こちらから話題にしないかぎり、男性はほとんど登場してこない。多くの僧侶は中絶の責任は男女で同等だとするが、母と子は因縁関係が深いとして、男性の責任はあまりないと述べる僧侶もいる(162)。中絶を予防するために避妊への留意や教育が説かれることもあるが、男性に協力を促す発言をしたのは尼僧(87)だけであった。

 

中絶許容の条件

 多数の僧侶が「基本的には」「原則的には」中絶を慎むべきであると述べつつ、事情次第では中絶を黙認する姿勢も見せる。中絶を許容できる条件として、僧侶がもっとも意識するのが、母体の健康のためである(1,9,10,81,84,129,161,162)。「親をとるか子をとるかになれば、子が犠牲なるだろう。子は親を助けるだろう。致し方ない」。障害児を出産する可能性のため(1,11,124)や家庭の事情のため(79,82)も考慮の余地がある条件である。僧侶(11)は出生前診断で障害児が生まれる可能性を知った3人の女性から、どのように対処すればいいか相談され、1人には産まなくてもいいと助言した。優生思想に基づき障害児の中絶を露骨に勧める僧侶はいないが、一部の僧侶は中絶後に生じる宗教的な悪影響のなかに障害児の出産を含めており、これを人生の不幸ととらえている。
 中絶可能な条件を列挙しなくても、あるいは勝手な理由による中絶を戒めたとしても、案外に多数の僧侶が当事者の事情を汲みとり、中絶に寛容な態度を示す。また法律による中絶禁止に対して拒否する反応を見せる(33,37,53,55,80,83,125,130,133,134,153,167)。 「強く、してはだめだとは言わない」「個人としては事情があるんだったら仕方がない。だめとも言いきれない」「宗教でこれいけないと決めるより自分の問題」。僧侶が判断するこうした中絶の許容範囲は、優生保護法の額面上の中絶許可条項と重なる部分もあり、このあたりの感覚は一般の日本人とそれほど違わないものである(1)

1)ラフレーは現代日本の宗教的な中絶論議における基本の立場を三つに分類する。女性解放運動など個人の中絶の自由を要求する自由主義と、生長の家など国学の思想的系譜を引き、中絶を罪悪視する新神道を両極に置き、中絶に道徳的余地を認め、祟り観を拒む仏教を両者の結合、または中間として把握する(LaFleur 1992,P.191〜197)。ラフレーは仏教が殺生戒を定めているにもかかわらず、中絶に寛容である理由を国学やユダヤ・キリスト教との比較を通して、教義に内在する"fecundism"、生殖と再生産の重視の欠如に求める。ヴェルブロウスキーもこの特質に注目する(ヴェルブロウスキー 1993,81頁)。歴史的な展望から国学が仏教に与える影響を指摘したのは卓見である。
 江戸時代の
ある国学者は次のように主張する。子供は神々や天皇の恵みであるが、それを自分で産み出していると考え、勝手に堕胎や間引きをする人々がいる。これらは神々の眼から見れば罪であり、行なう人々は神々の罰を受け、母親が産褥死したり、妊娠できなくなったりする。その結果、老いても世話をする人がなく、家名が途絶えることになる(LaFleur 1992,P.109)。実際、中絶に厳格な僧侶の言説は間引きや堕胎を戒める国学者の言説に相当に似通っている。しかし、中絶に厳格な僧侶も国家主義や人口への関心が希薄で、生長の家や創設者が右翼である紫雲山地蔵寺と比べてみても水子供養と政治の連携は弱くなっている。

 

中絶の宿命論

 世俗的に考えれば、いまだ社会の中に出生していない胎児には中絶される原因はありそうにない。そのため、中絶される胎児には罪がないと述べたり(82,85)、これに似た表現だが、胎児は世の中の汚れに染まっておらず、「清らか」「無垢」「天使 」であると表現したり(1,37)する僧侶もいる。だが、別の一群の僧侶によれば、現実には胎児にも罪があり、中絶されざるをえない一応の理由を持っているという。
 すなわち、水子には水子になる業や縁があり(4,23,80,128,131,134,153,154,165,166)、中絶する女性には中絶する業や縁がある(4,165,166)というものである。中絶に対する態度の如何にかかわらず、多くの僧侶が中絶という出来事の原因を把握するための枠組みとして、これら仏教の観念に則った運命論的解釈を提供する。これらを供養の場面で依頼者に説いたり、水子霊に対して念じたりすることもある。とりわけ、胎児は水子になるべくしてなったという説明は、中絶と水子供養の領域における有力な言説として、僧侶のあいだに広く定着している観がある。一般に前世の宿業という観念は日蓮系、なかでも日蓮正宗の僧侶に顕著に見られる特徴であり、実際のところ、これらの言説に通じる僧侶の多くは日蓮系である。しかも、中絶を女性の身勝手として戒め、宗教的影響を主張する僧侶さえも含まれている。
  これらの宿命論に基づく言説は、中絶の原因を前世の業とすることで、女性と水子の不満の余地を狭めて、出来事を納得させる働きがある。同時に、世間から勝手な都合で中絶したと判断されて、女性に重点的に帰される中絶の責任を、水子自身の業と女性自身の業に分担し、女性の責任を幾分なりとも軽減することにも機能している。
 浄土真宗の僧侶も、「やむをえずするということあるかもしれないが、それも各人の御縁」(55)と表面的には宿業論に似た言い回しをしているが、この御縁は新たに結ばれ、今後に続くという意味が強く、前世の宿業とはやや異なる含みがある。
 中絶する女性の中絶するべき宿業のほかにも、宿命を意識した言説がある。それは「女は業が深い」(87)という尼僧のもので、運命を左右するのが性か宗教かの違いがあるだけである。「女は業が深い」は女性週刊誌の「女の生理の悲しさ」とほぼ同義の内容を含んでいる。

 

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