1−3.水子供養の歴史的背景

 

水子供養とは何か

 水子供養とは、自然流産・人工流産(人工妊娠中絶)・死産した胎児を「水子(ミズコ・ミズゴ)」と呼び、その霊を祀る死者供養の一種である。主に仏教寺院で行われるが、弁天宗をはじめ新宗教団体でも行われている。1970年前後から全国的に広まり、1980年代前半にはその存在が社会的認知を受けるようになったが、妊娠中絶による「生命」の断絶・水子霊の祟りの強調・寺院による経済利益追求等の好ましからざる行為と結びつけて考えられるため、世間的には良い印象をもたれていない。

 

妊娠中絶件数の増加

 1880年に明治政府が軍事力・労働力増強のための人口増加策として堕胎罪を制定して以来、現在まで堕胎は刑法では犯罪として規定されている。第二次大戦後、一転して出生率を抑制するため、1948年優生保護法の制定により中絶が条件付きで合法化され、1949年と1952年の改訂でその条件が緩和された。この結果、1955年を頂点に中絶件数が急増し(1)、逆に出生率が激減した。当該世代で女性の生涯の中絶経験率は30%から40%、経験者の多数は20代後半から30代の既婚者であり、少子化の実現に中絶が重要な役割を果たしたことになる(2)。現在、全体の中絶件数は避妊の普及とともにかなり減少しているが、10代だけやや増加しているという状況である。水子供養の流行はこうした中絶件数の増加と密接に関わっているが、その間には20年の時間差がある。

1)優生保護法に基づいて届けられた中絶件数は実際の件数を数倍下回るとも言われるが 、ここでは詳しく追求しない。

2)同時代の出生抑制の社会経済的な背景については、中川 1993,落合 1994a,荻野 1991,上野 1991。

 

間引き・堕胎との比較

 星野正紀・武田道生は江戸時代の間引きや子おろしと現代の中絶を、それらをとりまく社会制度と子どもの霊魂観の点から比較して、次のように指摘している。伝統的地域社会では、間引きや子おろしは生存のための行為として共同体の了解のなかで正当化されるうえ、子ども特有の霊魂の再生観が罪の意識を生じさせない。これに対して、都市化や核家族化が進んだ現代社会では、中絶の責任が個人に負わされるうえ、水子は成人と同じ霊魂観を認められる存在となる。ここから、発生する負の精神性が人間化した水子霊の祟りを怖れさせ、依頼者は安らぎを得るために供養すると言うのである(3)
 彼らと同様にほとんどの水子供養研究が間引きや堕胎の原因を貧困や飢餓に求め、しばしばそれを常習と考えているが、歴史人口学ではすでに、貧困のためだけでなく、高い生活水準を獲得するために家族規模を制限したとする反論が次々と出ている点は、知っておかなければならない。
 ウィリアム・ラフレーは、江戸時代の間引きや堕胎を合理的な家族計画の手段とする主張に依拠する例外的な研究者であり、これらの行為を容易にする宗教的資源をモラル・ブリコラージュと呼んでいる。それは仏教の輪廻観・民俗仏教の子どもの再生観・言語的隠喩・地蔵信仰等の曖昧な集合体である。こうして、子どもを神仏に「返す」「戻す」儀礼への仏教の関与を積極的にとらえて、星野・武田の認識とは逆に、現在の家族計画の一環としての中絶と水子供養を、この延長の上に把握している。具体的には、胎児も含めた小さな子どもに関係する死者儀礼は、江戸時代から昭和初期までは女性が参加する地蔵講で密かに行われたが、今日では対象がもっぱら胎児となり、場所を寺院に移して、供養という形式で公然と行われているとしている(4)

3)星野・武田 1985,123〜124頁。

4)LaFleur 1992。人口増加が政治的に重要な課題になる18世紀後半から19世紀前半以降、多様な宗教家や思想家が間引きや堕胎を戒める言説を発し始めても、仏教とその僧侶はこの潮流に与しなかったとラフレーは主張するが、1793年に松平定信が本所回向院に間引き・堕胎の「水子」を祀る水子塚を建立したり(青柳 1985,435〜436頁)、主に明治時代に関東北部から東北南部の一帯の社寺に奉納間引き絵馬が掲げられたり(千葉・大津 1983,65〜80頁)するなど、仏教の思想や施設が民衆教化に関係した側面も見落とすことができない。ラフレーは後者の絵馬類を頒布したのは取り締まりの任にある警察であると説明しているが、ラフレーが参照する千葉・大津の記述では反対に、警察は嬰児殺しの画題を風紀上問題にして絵馬の撤去を求めたとされている。現代の水子供養も教化の要素を包含しているのは否定できない。

 

水子範疇の変容

 水子という概念は、流産した胎児に対する仏教の戒名である「水子(スイジ)」に由来している。実際には、古い過去帳に記録されている水子戒名は、ほとんどが出生後の幼児に付けられたものである。現在、各宗派の法儀解説書では、水子戒名を胎児にのみ付けるものから生後1年の幼児まで含めるものまである。
 一方、民俗学の報告からも、元来「水子(ミズコ)」は出生後に死んだ幼児を表していたことが明らかにされている(5)。水子という語を死胎児の意味で使う用例は少ない。これは、幼児死亡率が高い時代にあっては、幼児と胎児を一括して同一範疇に含めていたためであると考えられる。したがって、研究者が胎児に対する伝統的な追悼儀礼を議論するさいには、幼児も含めてもよいと言えるだろう。しかし、現代では胎児を含めた人間観や社会状況は昔とは変わっている。現代では幼児は社会の成員として認められるべき存在になったが、他方で胎児は引き続き水子として社会の枠外に留まったままである。乳幼児と胎児の差は、近づいているように見えて、実は長期的には広がっているのである。星野・武田もラフレーもこの水子範疇の変容を見逃している。そして、両者の見解の差は、現在の人間世界の中で胎児が置かれた微妙な境界的状況を表している。
 西欧における女性身体史研究の影響を受けて、仙台藩の死胎披露書を分析した沢山美香子(6)に拠りながら近世農民の妊娠・出産観を論じた落合恵美子の仮説も、上記の主張を裏付けている。それによると、妊娠4ヶ月までは「人形にもない」としてそれ以後と区別されること、妊娠後期に早産として実行される堕胎は嬰児殺しと同一視されることが認められるという(7)。この後者の堕胎・間引きで死んだ子どもこそ、古い意味で水子と呼ばれていたものである。

5)広瀬 1970,126頁。産育習俗の権威である大藤ゆきは、最近の百科事典のなかでも「水子」を生まれてあまり日のない赤子、生後まもなくして死んだ子と民俗学的に説明している(大藤 1988,318頁)。               

6)沢山美香子 1991。

7)落合 1994b,435〜437頁。 

 

伝統的「遺体」処理

 昭和10年に『日本産育資料集成』(8)に寄せられた明治初期から中期の習俗に関する報告を見ると、死胎児と死産児の伝統的処理の方法は地域差が大きいことがわかる。床下や便所に捨てるもの、大人と別の墓に捨てるもの、魚の頭や人形を加えると次の子が健康になるとするもの、僧侶の読経で葬式や供養をするものなどがある。
 ここで注目すべきなのは、胎児の発育状態により処理方法が異なる地域があることである。その境目は流産か死産か、人間の形をしているかどうか、月数では5ヶ月から8ヵ月ころである。月数が足りなければただ埋めるだけで済ませるが、月数が満ちれば読経を加えるというように区別が付けられている。ここからも古い時代には妊娠前期の胎児は社会的には大して重要な存在ではなかったことが明らかである。
 葬送方法の変化を示す伝承もある。昔は床下に埋めたが、今は墓地に葬るとか、昔は墓に埋めて供養したが、今は3ヶ月未満では胞衣焼却場で火葬するとかがある。この資料からは、少なくとも一部の地域では、妊娠後期の胎児は今より手厚く葬られ、妊娠前期の胎児も場所を選んで捨てられていたことがわかる。

8)恩賜財団母子愛育会 1975。

 

出産の近代化

 第二次大戦後、乳幼児死亡率の低下と中絶件数の増加を背景に、「水子」の意味が幼児中心から胎児中心に変化した。同時に中絶にまつわる否定的な印象を帯び、日常語化し、「水子地蔵」「水子供養」の熟語が創造された。この変化の決定的に重要な側面の一つは、水子が単に胎児中心になっただけではなく、妊娠初期の胎児中心になったことである。これは中絶手術の大多数が女性の負担を軽くするため、満11週以前の初期中絶として行われ、中期中絶の割合も次第に減少しているからである。さらに、近代医療の発展により、受精卵や胎芽までも水子として認識されるという事態も新たに生じている。そのうえ、自然流産や死産の確率の低下により、人工流産でできる水子の存在が浮き出ることになった。
 ところで、水子供養の発展を促した重要な要因に共同体の解体と、出産・子育ての近代家族への囲い込みがある。1960年代を通じて、少ない子どもの育児に専念する主婦としての女性の地位が大衆的規模で実現し、女性が幻の子どもとしての水子の世話を一人で引き受ける環境が形成された。さらに、落合恵美子が出産の近代化を医療化・国家化・家族化の同時進行と説明するように(9)、出産の家族化には裏面がある。
 1955年から1970年にかけて全国に急速に浸透した施設内分娩を中心とする出産の医療化により、女性と胎児・子どもの安全性は向上したが、それは医療に対する女性の身体と胎児の存在の客体化も促進した。これに先行する中絶の医療化も、江戸末期以降の出産の近代化における一局面として位置づけられる。
 現代では人工・自然流産児の最終的な処理はほとんどが家族の手を離れ、産婦人科医院や胞衣業者に任せられているが、そこでの儀礼なき処理では胎児の肉体は全く意味を喪失している。この結果として、逆説的に、産婦人科医師・家族計画関係者・胞衣業者等の胎児に身近に接する専門家が、比較的早くから胎児の肉体に新たな意味を見出し、水子供養を発願することになるのは興味深い(10)。1960年代後半には、週刊誌上で胎児の遺体に対する中絶記事の視線の先に、水子供養記事が立ち現れてくる。

9)落合 1990,88頁。

10)1955年という早い時期に東京の胞衣会社の親睦団体が正受院に胎児の納骨堂を建立した(第2部)。また、1962年に厚生省の人口問題研究所の所員ほか家族計画関係者が、中絶件数を減少させるため、東京の寺院と大阪の病院に水子地蔵像を建立した(Coleman 1983,P.64)。1969年にB県の産婦人科医と看護婦の有志が水子供養を開始した(第3部)。これら医療関係者と水子供養の関係も多岐にわたり分析する価値がある。

 

水子供養の市場化

 以前から仏教は胎児に戒名を用意し、一部の地域では死産児や妊娠後期の胎児が葬られていた事実が確かにあるが、今日では妊娠期間や人工・自然の区分に関係なく、流産児の供養は一律に水子供養の名称の下に、言わば一種の大衆文化として認識されるようになっている。新しい現象であるがゆえに、それに関する解釈が生成され、社会的に受容される余地が生じた。宗教的専門家と大衆媒体は新旧の宗教・道徳・科学の言説を新しい水子供養の言説として再編し、依頼者や読者に供給を開始した。次いで、商業主義にも乗り、大量の儀礼と言説が新しく開拓された市場の内外で生産・流通・消費されることになった。最後に外部を巻き込み、市場の周辺で第三者が水子供養を風俗・流行として、奇妙なものとして、商業行為として、癒しを求める行為として語り始めた。
 一般的に胎児には葬儀が行われない。供養でさえも先祖・肉親の供養の場合と違って、制度化の度合いが弱く、行われるかどうかわからない不安定な状態に置かれている。このため新規参入の間口が広くなり、また、宗派や寺院で対応に隔たりがでてくる。水子霊の祟りという脅し文句も通用しやすい。現在、諸宗派の中では既成仏教が水子供養に最も深く関与していると思われるが、「水子供養」が仏教の供養の意味を超えて胎児の霊に対処する儀礼全般を指し、神道・キリスト教・新宗教などの諸教団や有象無象の霊能者により行われることもある。その事情は先祖供養でもあまり変わらない。

   

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