「私鉄に渡ったDT12」

DT12(付随台車はTR23)といえば旧形国電ではすっかり御馴染みの台車です。私鉄電車の台車は、「戦後」まで住友KS33や日車D16に代表される釣り合い梁式の「イコライザ」が重用されてきた。これに対し国鉄は、昭和の比較的早い時期に枕バネは従来どおり板バネながら、各車軸に軸バネを配したDT12(TR23)台車が主流になった。イコライザ式は、主要部がすべて鋳鋼製なのに対しこちらは台車枠が鋼板で組みたてられ軽量化が図られた。乗り心地も、イコライザ式に比べるとかなりの向上がみられ、同時代の客車にも多く採用された。にも拘わらず私鉄高速電車では、とうとう新車からこのタイプの台車を本格的に採用するところは無かった。ただ、近鉄の名車2200系の付随車サ3000形には住友製軸バネ台車H33(枕バネはやはり板バネだが6連という空前のもので下枠のない一体鋳鋼製台車枠という特異なもの)だけが目立っていたが乗り心地は余り良くなかった。しかし「戦後」は、新形台車の開発は私鉄が中心となり様々なタイプが足回りを華やかに飾ったことは周知の通りである。国鉄は「大量生産」という制限や新幹線完成後の目標喪失などから民営化直前までは常に私鉄にリードされることになってしまった。ともあれ「旧国」の足回りを支えた戦前の傑作台車DT12はその一部が戦後になってから、「払い下げ車」や「払い下げ台車」としてかなりの数が長期にわたり私鉄へ渡っていった。しかし、車輌ごと移籍した場合は別としてどの車の台車がどの車体と組み合わさったのかは「供給源」が余りにも雑多だったこともありほとんど不明である(豊橋鉄道では立地条件や譲渡時期からいって明らかに飯田線からであろう)。私鉄ではほとんど、電動車・付随車とも「TR25」という呼称が多いようであるが小田急のように大きく改造されたものもある。ここでは、それらのいくつかをお目にかける。


近江鉄道モハ201  1979-5-12 彦根

モハ201の車体は小田急デハ1609である。しかし足周りはごらんの通り「旧国」そのものである。特に、軸受けがオリジナルのプレーンメタルのままで車輪もスポーク付きである点は貴重だ。近江の車体は親会社の西武以外でも西武所沢工場改造又は新製のものがほとんどだ。しかし台車はかなりの数のDT12が存在していた。西武経由なのか国鉄から直接入ったのかは不明である。晩年は、西武の新型ツリカケ用台車FS40に取って代わられた。DT12は以前のDT11などに比べ枕バネも3連から4連に増えている。

 東武モハ7300形(TR25A)  1976-10-10 小川町

ご存知、モハ63払い下げ車の車体を新製した20メートル4扉車である。軸受けはNSKのベアリングに交換されているが車輪はスポークのまま。多くが住友製FS10に交換され電動車で残るのは僅かであった。

  山陽電鉄2700(DT13)  1977-3-1 滝の茶屋

西日にギラリと輝くのは、珍しい標準軌間のDT13(戦後製)です。種車はモハ63800〜19・・・この20両が山陽電鉄に入線し「唯一無二」の20メートル4扉車として併用軌道が多く残る山陽電鉄を走った。この2700は、西代車庫の火災で標準車体を新製したため比較的後まで生き延びた。軸受けは勿論、車輪も一体圧延型に交換されている。単純計算で、狭軌より約18センチ外側に張り出しているわけです。又、モーターが狭軌用のままで当初は「スカスカ」でギアの噛み合わせが悪かったとのこと。

  小田急クハ1850形(TR25A)  1978-2-17 代々木八幡

極めつけの「近代化改造版」です。種車はやはりモハ63である。しかし、台車はご覧の通り・・・枕バネはコイルバネにオイルダンパーまで!。更に各軸用にブレーキシリンダーも取り付けられ電磁直通ブレーキ化された。流石、小田急と叫びたくなる大改造である。

 西武クモハ513(TR25C)  1977-3-29 保谷

こちらは、何と空気バネにボルスタアンカまで取り付けられたもの。足回りの貧弱だった西武では101系登場まで唯一の電動車用空気バネ台車として君臨した。しかし、この台車は電動車用にも拘わらずホイールベースは2450ミリ(DT12は2500、TR23は2450)であり国鉄DT12ではなく梅鉢鉄工所製のオリジナルに端を発する変り種である。この台車は、かつて「日常風景」だったが・・・今、改めて調べてみると実に謎が多いことが判ったが、ここではひとまず触れずに「通過扱い」と致しますm(__)m。

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