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1982年5月 『やくも3号』 キサシ180−9
 なぜ、この列車に乗ったのか、これまた鉄ちゃん以外には説明しにくい事情である。
 伯備線の電化がその年の7月に迫り、当然ディーゼル特急は電車特急(381系)に置きかえられることになるが、それは同時に食堂車が消えることを意味していた。そう、だから食堂車に乗りに行っただけなのである。食事代より交通費のほうがはるかにかかった訳だ。
記念写真
がらがらの食堂車で記念写真


 ちょうど昼時分、食堂車に行くと、他には一組のビジネスマン風の客しかおらず、廃止を知っているこちらはよけいに淋しい思いが募る。
 中年のウエイターが「電車にして20分くらい短縮しても旅情がなくなってしまう」とぼやくのを聞いて「そうですよね」と相槌を打っても、食堂車の廃止を変えられるものではない。
 そんなウエイターに記念写真を撮ってもらったりして、最後に、尋ねてもいいかどうか迷っていた質問をした。
「7月からどうするんですか」
「山陰線の『まつかぜ』に乗ることになっている」
「ああ、『まつかぜ』にも食堂車がありましたね」
 少しほっとして食堂車を後にした。

ここまでディーゼル特急ばかりになってしまったので、電車特急も少し思い出してみよう。
とき12号にて
発車直後の『とき12号』
食堂車の様子


 181系の特急『とき12号』で新潟から東京へ帰ったのは1978年2月。新潟を発車する際、ウエイトレスが並んでホームに一礼する姿を、食堂車サシ181−7の入口で見ていた。こんなシーンを逆にホーム側から見たりすると、うーん、乗りたいと思ったものだ。特急『とき』に限らず、どの食堂車でも一礼はしていたとは思うが、今わずかに残る夜行寝台特急の食堂車ではどうなのだろうか。
 上野〜青森間の特急『いなほ3号』の食堂車サシ481−38は、1981年2月北海道行きの道中である。秋田出身の先輩から、特急『いなほ』から見る日本海の夕陽はきれいだよ、と言われて羽越本線まわりにしたのであった。
 予想以上に岩だらけの海岸を眺めて、日も暮れた頃、食堂車に向かった。食堂車に入るとテーブルに特急『いなほ』にちなんで、いなほが活けてあったのが印象的で、東北訛りのウエイトレスの言葉もあいまって、旅情を強く感じたのであった。

ファイル
新幹線で売られていたファイル


 この原稿を書いている今はもう、新幹線の食堂車はその役割を終えている。本音を言うと、新幹線の食堂車は、自由席に座れなかった人達が延々と粘るというイメージがあって、あまり利用しなかった。別に相席は構わないのだが、出張帰りの疲れ果てたおっさんがビール1本におつまみ程度を並べて、グテーッと突っ伏して寝ている前では食欲も出なかった経験もある。
 ニュースでは新幹線のスピードアップで食堂車の利用者が減ったからと言っていたが、そんな雰囲気が敬遠されたこともあるのではないかと思う。
 でも、同じニュースのインタビューで乗客が答えていたように、気分転換になったし、私も間がもたなくなった子供を連れて食堂車へ行ったこともある。
 時間制にして入替えを早めたらよかったのかなあ、なんて今さら考えてみても『やくも』でウエイターと話したときのように、現実を変えられるはずもなく、空しい思いだけが残る。
 これで残る食堂車は夜行列車のカシオペア、北斗星、トワイライトエクスプレスだけとなってしまった。それも予約制の特別な食堂車で、トワイライトエクスプレスのフランス料理など12,000円・・・
 果たして、これらの食堂車に乗れる日は来るのだろうか。

【2000年3月記】



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