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 車両編1/3



2600系
 電車通学を始めた1964年(昭和39年)、小田急に最新車両が登場した。2600系である。もちろん当時は形式名など知らないから、あだ名は何の面白みもないが、『新車』である。まさに工場を出たばかりのピカピカの車両もいて、その度合いによって、『新々車』『新々々車』『新々々々車』というバリエーションがあった。
 つまり、『新車』は2600系の総称、『新々車』は比較的きれいなもの、『新々々車』は下回りはピカピカだが、屋根が少し汚れているもの、『新々々々車』はパンタグラフまでピカピカのもの、と改めて説明するのも恥ずかしいような分類であった。
 こんなに細かく分類していたので、当時、2600系は既に数十両あったように今まで思い込んでいたが、『鉄道ピクトリアル』によると、1964年度末で18両しかなかったそうだ。
 ということは、今日見た『新々々々車』が、数日たったら『新々々車』になり、さらに『新々車』と、同じ電車を格下げしていただけかも知れない。

多摩川を渡る2600系 多摩川を渡る2600系。
まだ冷房改造前の1978年の撮影なので、
運転席後ろの戸袋窓にルーバーが入っている。
もともと、この写真はかっこつけて、露出を
バックの山に合わせて電車をシルエットに
していたものを無理に明るく補正したもの。
おかげで、はっきりしない写真になってしまった。


 この2600系、今までの小田急電車とは一線を画していて、その姿に完全に魅了されてしまった。
 まず、それまでの編成が2、4、6両と偶数だったのに対して、5両編成と奇数なのが新鮮だったし、発進音も従来の車両とは違う『フワーン』という何とも心地いい音がしていた。
 (ところで、2600系は前述のとおり1964年度末で18両ということだが、なぜ5の倍数ではないのだろう)
 スタイルも、運転席すぐ後ろの戸袋窓のルーバーもしゃれていて、なによりも車体の裾を絞った外観が異彩を放っていた。車内から見ると、車体の絞りに合わせて、ステンレス無塗装のドアが、きゅっと内側にくびれているところなんて、何ともなまめかしいものであった。
 ここまでくると、なんだか怪しい小学生である。

 ただ、後にこれらの理由を知るにつれ、子供の頃にいだいていた2600系の『かっこいい』というイメージの現実を突きつけられることになる。
 というのも、奇数の5両編成は、単にホームの延伸が間に合わなかったための当面の措置だったそうで、現に数年後に6両編成となってしまった。しゃれていると思った運転席後ろのルーバーは、夏場、乗客からの暑いというクレーム対策で、ステンレス扉もメンテナンスフリーのためと、どれも『かっこよさ』とは無縁であったのだ。
 車体の裾を絞っているのは、母親から「スピードを出すため丸くしている」という教えを長く信じていたのだが、後年、経堂車庫で「ああ、あれは単に定員を増やすためだよ」と言われ、あえなく崩壊。おまけに『鉄道ピクトリアル』には、最高速度、加速度とも2400系に劣ると書かれていて、止めを刺された感じだ。
 子供の頃に描いていた夢や希望は、はかなく消えやすいものである。こうして人はみな、大人になっていくのだ。
 何を気取っているのかわからないが、それでも2600系は、今も小田急で一番好きな電車なのである。

小田原駅の2600系 2600系の現在の姿。
というより、もはや晩年の姿と言うべきなのが
なんとも淋しい。
(小田原駅にて。2001年10月撮影)


 純粋に2600系に憧れて電車通学をしていた小学生時代、朝は電車を選ぶ余裕はないので、下校時に2600系が来るのを待ちつづけたものだ。
 ただ、小心者の私は、2600系を待っていることを他の電車の運転士や車掌に知れてしまうと、気を悪くするのではと心配になり、狛江駅で、何か落し物を探しているとか、友達を待っているようなそぶりをして待っていたのであった。
 そんな小細工をしても、やり過ごそうとした古い電車の車掌から、「お〜い、ボク、乗らないのかい」なんて声をかけられて、ドキっとしたものである。
 おかげで家に帰る時間もまちまちになってしまい、母親に「今日は遅かったのね」なんて言われてしまう。狛江駅で2600系をひたすら待っていたことがばれたら大変と、「いつもとおんなじ新車に乗ったんだから遅くないよ」なんて答えていた。もうばればれである。

 2600系に乗ったら、もちろん運転席後ろに陣取り、中の様子を見る。友達数人と乗ったりすると、運転士に大声で、「ねえねえ、70km/h出して〜」と叫んで大騒ぎである。
 狛江〜和泉多摩川間は数百mしかないので、通常は60km/hでノッチを切られてしまうことを子供たちもよく知っていて、もっとスピードを、と騒いでいたのだ。もっとも、しつこいけれども私は小心者なので、「うるさい」と運転士に怒られるのがこわいので、叫ぶのは友達に任せて、私は黙って心の中で「70km/h出して」と願っていたのである。小心者というよりせこい小学生であった。 
 もう時効だろうから、書いてしまうが、ある日、同じように頼んでみると、運転士が振り返り、にやりと笑った。「おお、やってくれそうだ」と、みな固唾を呑んでスピードメーターを見つめている。果たしてぐんぐん針が上がり、ついに70km/h達成!「やった〜」と大歓声が上がる。
 ・・・しかし、運転士にとっても70km/hというのは、いつもと勝手が違ったのだろう、和泉多摩川駅で、ほぼ1両分、オーバーランしてしまった。運転席の後ろにいたのでは下りられない、今度は「ウワァ〜、たいへんだ」と叫びながら、みんなで後ろに向かって車内を駆け出したのであった。
 今思えば、運転士には本当に迷惑な子供たちであった。せこい私は黙って見ていただけとはいえ、同罪である。ごめんなさい。

 思い入れが強いだけに、2600系だけで長くなってしまった。次項からは形式の古い順に簡単に書いていこう。



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