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 パンタグラフをぐっと前に突き出した迫力あるスタイルで人気の高かったEF57。
 1940年(昭和15年)から1943年にかけて全部で15両製造されたが、時期が時期だけに本格的な活躍は戦後、東海道本線電化の西進に合わせ特急列車が増発された頃からである。『つばめ』、『はと』のヘッドマークを誇らしげに掲げたEF57の写真を見ると、まさに全盛期という感じだ。
 もちろん、私はその頃の活躍は知る由もなく、晩年の東北本線での姿をぎりぎり見ることができたのであった。

 EF57は旅客用の機関車なので、撮影は当然客車列車を狙うことになるのだが、最後の活躍の場である東北本線でもさすがに昼間の客車列車は少なく、夜行列車がメインとなる。上野発の夜行列車降りたときから・・・思わず筆が走ってしまうが、撮影は青森ではなく上野方だから、上野を夜発車する夜行列車は不可、すなわち早朝の上り列車を狙うことになる。 なおかつEF57はEF58と共通運用だったので、日によっては下手をすると1本もEF57が入っていなかったりする。ということで、臨時列車が増発され、日も長くなるゴールデンウイークやお盆休みが撮影シーズンということになる。
 それにしても、撮影ポイントでカメラを構え、ファインダーにEF58が入ってくると、「ちぇ、57じゃねぇや」と舌打ちしたのだが、それから約10年後、今度はEF58がなくなるからと、同じ東北本線にEF58を撮りに行ったのだから、鉄ちゃんの性というのは何と因果なものか。

 さて、EF57の撮影ポイントは、大宮の先の東大宮〜栗橋間の田園地帯が定番であったが、当時国分寺に住んでいた私にとっては中央線の始発電車に乗っても、現地は7時過ぎになってしまい、肝心の早朝の夜行列車の多くを撮り逃してしまう。今であれば、車で行ってしまうのだろうが、当時は免許もないというより取れる年齢ではなかったので、中央線を使うしかない。 時刻表を見ているうち、裏技を思いついた。当時の中央線には夜行鈍行があり、上り新宿行きが3時47分に立川を出る。立川までは自転車で簡単に行ける距離だったので、これに乗り、新宿へ行き、山手線の始発で池袋、赤羽線に乗り換えて赤羽へ行けば、東北本線の始発電車に間に合うのである。

 このルートで初めてEF57の撮影に行ったのは、1975年(昭和50年)のゴールデンウイーク。立川からむさ苦しい山男がグテーッと横たわる何とも言えない雰囲気の鈍行列車で出発し、新宿、池袋を経由して赤羽へ。ここで、初めてEF57を見た。
 これまで、いわゆるデッキ付の古い電気機関車は、中央線のEF13やEF15、青梅線のED16くらいしか見たことがなかったので、デッキも広いEF57がパンタグラフを突き出して疾走してくる様は、あの猛獣のサイが角を突き立てて迫って来るようで、予想以上の迫力に思わず、おおっと声を上げてしまうほどだった。

久喜〜栗橋にて 列車名は失念。
天気が悪いのに200mmの望遠レンズで
撮ったもの。
予想以上にスピードが出ていて、列車が
ファインダーの中でどんどん大きくなって
焦った記憶がある。何とか画面内ぎりぎり
に収まった。
(久喜〜栗橋間にて)


 EF57の撮影は正直なところ、失敗も多かった。
 この日の撮影には間違えてフィルムをASA100(いつのまにかISO100と呼ぶようになった)のフジのネオパンSSを持っていってしまい、早朝の列車撮影では使い物にならず、仕方なくASA400に増感して使ったが、現像するとやはり粒子がかなり荒れてしまった。
 家に帰ってEF57かっこよかったよと弟に言うと、一緒に行くということになり、同じゴールデンウイークにもう一度仕切りなおしをする。今度はASA400のコダックのトライXをちゃんと準備し、目覚ましを3時に合わせ、寝床に入る。そして翌朝目を覚ますと、外は青空が広がり、太陽はさんさんと照りつけ、絶好の撮影日和・・・・・?
 2人そろって、完全に寝坊であった。
 今度こそと翌日、今度はちゃんと3時に目覚める。しかし外はザーザー雨の音。前日の寝坊が悔やまれるが、もう休みも終わってしまう。えーい行くしかないと無理やり出かけた。雨は小降りにはなったものの、やはりこの日の写真は眠たい感じになってしまった。(上の写真)
 そして、とどめは撮影を終えて立川に帰ってくると、駐輪場に置いた新品の自転車がない!弟の古い自転車は残っているので、狙われたようだ。警察に届けるが、乗り逃げならともかく、おそらくプロの仕業で、調書をとっても解決できないと思ったのか、とりあってくれない。 まあ、説明するほうも「朝3時半に立川に来て、いや3時半といっても夜遊びではなくて、夜行列車に乗るためで・・・・・」なんて言い訳しているようでは迫力なかったのだが。結局、自転車は戻ってこなかった。

 翌年の夏、もう一度チャレンジした。今度は天気もよく、今日こそはという気分も高まる。ところが、夜が明けるにつれて、もやがかかってしまい、真っ白な中をEF57が数本行ってしまった。
 ようやく見通しがよくなってきたと思ったら、狙っていた列車は3本連続してEF58でがっくり。結局午後まで粘ってようやく2本のEF57にありついた。そのうちの1本が下の写真。

東大宮〜蓮田間にてにて おそらく124列車と思う。
この列車もスピードが速く、もう少し引き
つけるつもりが、慌ててシャッターを切って
しまった。さすが元特急牽引機だけある。
(東大宮〜蓮田間にて)


 当時の撮影メモをなくしてしまい、どの写真も列車名がはっきりしないのだが、この日のネガの最後に写っている列車は夕方17時頃の鈍行列車125列車に間違いない。それにしても朝6時前から夕方まで一日中よく粘ったもので、列車の合間や昼食などどうしたのか、その記憶も残っていない。
 下の写真がこの125列車で、田んぼのあぜ道で撮ったものだ。本当はもっと近づきたかったのであるが、実はそのあぜ道には先客が数人いて、先着者のアングルを邪魔しないという鉄ちゃんの暗黙のルールに則り、あぜ道に並んだのであった。誰かが「125レ(列車)は、EF57の1とEF58の重連らしい」と言っている。国鉄の大宮機関区に尋ねたらしいが、これは現場に迷惑がかかるという点で本来ルール違反。それはそれとして、EF57の1号機との情報に、ちょっと複雑な気分であった。突き出したパンタグラフが魅力のEF57の中にあって、1号機のみパンタグラフが内側に寄っていて、当時既に全機廃車となっていたEF56と同じ形態であった。パンタグラフの位置が違うだけで、ずいぶん印象が異なるもので、古めかしい表現で恐縮だが男性的なEF57の中にあって、1号機は女性的な感じだった。
 ということで、せっかくなら1号機でないEF57がよかったと思ったのである。

東大宮〜蓮田間にてにて EF57 1号機に回送のEF58がつながった
125列車。
居並ぶ鉄ちゃんのシャッター音が一斉に鳴り
響いた瞬間でもある。
(東大宮〜蓮田間にて)



 あぜ道にはいつのまにか鉄ちゃんがまるでさよなら列車かと思わせるくらい並んでいる。この列に嫌気がさしたこともあり、この後EF57を撮りに行くことはなく、私にとってはまさしくこの日の125列車がEF57のさよなら列車となってしまった。

あぜ道に並ぶ鉄ちゃんの列

あぜ道に並ぶ鉄ちゃんの列。
今は皆いいおっさんになっているのだろう。他人のことは言えないが・・・

【1999年9月記】




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