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関東鉄道竜ケ崎線路線図
地図

 記憶の怪しい関東鉄道シリーズ第3弾は竜ケ崎線。
 他の路線と同様、JR常磐線に接続、佐貫から竜ケ崎まで4.5Kmの短い路線だ。それでも歴史は古く、1900年(明治33年)に軌間762mmのナローゲージの軽便鉄道、竜崎鉄道として開業、その後改軌され、常総筑波鉄道との合併、さらに1965年(昭和40年)、今の鹿島鉄道と合併して関東鉄道となり、現在に至っている。

 さて、竜ケ崎線へ行ったのは、鉾田線の項でも触れたとおり、1976年(昭和51年)12月と、翌年10月の筑波線見学会の後であり、路線が短いこともあって、いずれもついでに寄るという感じであった。
 で、早速高校時代の雑文を引っ張り出す。
竜ケ崎の朝、うすもやの情景、黄金の線路、そしてキハ41302。
機間庫の横で寒さに震えていると、もう動けないと思っていたキハ41302が身震いした。エンジンをかけたのだ。
誇張ではない。今でも目をつぶってみると、キハ41302がブルルッと体を震わせる姿をありありと写し出せるのだ。
機間庫の中、油の黒い光。気動車の大きさ。
わけのわからない部品がいっぱいちらばる。そして奥には動けぬ蒸気機関車。
詰所の側に、錘付転轍器の山。引き倒された腕木式信号機。
キハ41302
キハ41302。後方を走るのは
運用を終えて一旦引上げられる
キハ521+522?

 そう、初めて竜ケ崎線を訪れたこの日、佐貫からの気動車は、電車型の車体に更新されたキハ521(だったと思う)で、竜ケ崎に着いて国鉄キハ04そのままのキハ41302を見つけたとき、ああ、もう休車なのだろうなと思っていたら、突然エンジンがかかり、驚いたのだった。
 そして、もちろんキハ41302に乗って、気分よく佐貫に戻り、鉾田線へ向かったのであった。
 ただ、古めかしい車体から見て、当然変速機は機械式と思ったら液体式だったのは意外だったが、そのおかげで現役で走っていたのかもしれない。でも、鉾田線で車体更新されたのに機械式のままだったキハ651に乗ったのだから一概には言えないか。結局これらの気動車は変速機のことよりも、エンジンなどの足回りの調子がいいので使われていたのだろうか。

 このときの写真には苦い思い出がある。家へ帰って、フィルム3本をまとめて処理できるタンクで現像したが、何を勘違いしたのか現像液が足りず、たまたま一番上になっていた竜ケ崎線のフィルムの上半分が現像不足になってしまったのだ。処分するには忍びなく、そのまま置いていたネガを今回焼きつけて、半分かすれた写真をパソコンの画像処理ソフトでなんとかごまかそうとトライしたが、やはり無理であった。 ということで、アルバムの写真は翌年の10月のときのもので、キハ41302もどうにか残っていて写真に残すことができた。

 高校時代の雑文で、車庫の奥で動けぬ蒸気機関車と称した4号機は、2回目の訪問時にはピカピカに整備されていた。聞けば文化の日に展示するためとのことであった。火を入れることはないようだったが、前年とは打って変わって、今にも走り出しそうな感じであった。(今は龍ケ崎民俗資料館に保存されている由)
 撮影を終えて、さあ帰ろうと見学をお願いした整備の方に声をかけようとしたら、車庫に人影がない。黙って帰るのも気が引けるので、多分整備を終えて一風呂浴びているのだろうと思って、風呂に向かって、大声で「ありがとうございました」と叫ぶと、思わぬ方向から「ハーイ」と返事が返ってきた。結局姿は見えなかったが、一応挨拶もできたということで、車庫を後にした。

 【1999年5月記】


初めて竜ケ崎へ行ったときも思ったのですが、予想以上にひらけた町で、
東京のベッドタウンとして早くから大規模な開発が進んでいたのでしょう。
今回、何か参考資料はないかと『関東鉄道竜ケ崎線』でインターネットの
検索をかけてみたら、不動産屋のページもたくさん表示されてしまいました。
でも、それだからこそ、たった4.5Kmの単線の路線でも
通勤、通学の足として現在でも活躍し続けているのだと思います。
さて、本来なら次回は第4弾として、常総線を取り上げるべきなのでしょうが、
実は行ったことがないので、関東鉄道シリーズは今回で一応終了とします。

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正確には写真のように錘の付いた「転轍(ポイント)てこ」のこと。
モデルは25年前のわたくし(^^;
青梅線二俣尾の引込線跡にて。
錘付転轍器
鉾田線でも触れたが、自動車のマニュアル車と同じ構造。
鉄道では早くから液体変速機が普及した。

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