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 誰でも、好きな人ができれば、その人のことをよく知りたいと思うように、好きな鉄道、片上鉄道についてよく知りたい。 今回の旅行はそういう意味もあった。そのために今回の旅行はいつもと少し違ったものになった。
オープンデッキ客車(和気にて)
オープンデッキ客車
(和気にて昭和57年撮影)


 どうでもいいが、疲れていた。前日、OBのMさんの寮に泊まっても疲れはとれなかった。朝、名古屋を出て、大阪を経て、夕方やっと和気に着いた。電車の窓から片鉄(片上鉄道の略称)のオープンデッキ客車 の姿を認めたとき、ああ、待っていてくれたんだなあ、とほっと心に和むものがあった。
 例によってデッキに立ち、流れる風景を追いもせず、ただ、ぼんやりとゆられていた。そのうち空いてきた車内に入り、川側の1BOXを占領した。夕陽に映える吉井川が美しかった。
 終点の柵原(やなはら)で旅館に電話すると、さっそうとセリカで迎えにやってきた。宿は旅の直前にとったのだが、沿線の旅館はすべて断られ、ずるずると山奥になってしまった。『のんき旅館』という僕の泊まった旅館は、そんな名にふさわしく、柵原の奥2Kmほどの集落の中にあった。学生ですからまけて下さいと言うと、4,000円のところ、3,300円にまけてくれた。部屋はなんと冷房つき、TV見放題で、もったいないくらいだ。

 翌日、早速行動開始だ。バスで吉ヶ原(きちがはら)へ、待合室に居た老人に声をかけた。インタビュー第1号である。「お客が減ったねぇ」ということだった。
 気動車に乗って、沿線最大の町、周匝(すさい)へ行き、町役場で町勢などのパンフレットをいただいた。そこからとなりの備前福田駅まで歩き、ついに本命、女子高生にインタビューした。夏休みだというのに、体育祭の練習だという。
「こういう鉄道つかっていて、どう思う?」
「うーん、山陽線の子にバカにされる。山陽線は『ヨコ』にゆれるけど、片鉄は『タテ』にゆれるでしょ」
「なるほどネ」
女子高生
ごめんなさい黙って撮りました

 発車まぎわになって、もう一人、女子高生がやってきた。なんと、かわいい。もうちょっと早く来てくれればインタビューしたのに。一緒の列車に乗ったが、他に大勢女子高生が居るのに、そのコだけに話しかけるのは見え見えなので、自分の心にさからい、泣く泣く男子高生と話をしていた。しかし、これが研究なのだろうか。ちなみにその女子高生は『斜陽』を呼んでいた。
 さて、この列車は、和気止まりなので、仕方なく片上行のバスに乗り換えた。料金こそ高いが、冷房つきリクライニングシートで設備はだんち。
 片上では片鉄の事業所を訪れた。肝心な話になると「そういうことは丸の内の本社に聞いてくれ」と言う。何のために片上までやってきたのか。それにしても旅客輸送量、貨物輸送量のグラフが急降下しているのがむなしい。最後に何か楽しかった思い出、苦しかった思い出はありませんかと尋ねると、
「そうですね、やっぱり柵原の社宅にいたころが一番楽しかったですね。あの頃は社宅もぎっしりあって、それを思うと今はやっぱりさみしいですね」という答えが返ってきた。
 こうして事業所を辞し、駅へ帰るとまたオープンデッキが入線してくる。さあ一日も終わりだ。車内に入ると昨日と同じ席に座っている人がいた。去年来たときも座っていたように思う。興味を覚え、声をかけてみると、片鉄の車両整備をしている人だった。「昨日も同じ席でしたね」と言うと、ニヤッと笑って「ああ」と答えた。
 この人が誰あろう、車軸をいただいたAさんである。出会いとは不思議なものだ。整備の方々のチームワークのよさ、車両の状態など興味ある話がつきなかった。
「この車両は自分が直したんだと思うとやりがいがあるでしょう」
「いやあ、そんなもんはないねぇ、若いならともかく、35年もやってりゃなあ。部品は重いし、汚れるし、若いもんもやりたがらん」
と苦笑した。平均年齢48〜49才、熟練した車両の塗装屋が定年になるので、これからは塗装を簡素化するという。そして、古い車軸があるから見に来ないかということになり、それではまた明日会いましょうと約束して別れた。

 柵原2泊目の朝、柵原町の教育委員長の重歳氏と会って、柵原の歴史を伺った。鉄道の歴史が専門ではないので、うまく話が続かなかったが、片鉄ができたとき、どのような感想を持たれたか尋ねてみた。
「みんなかけっことかで1番になったと自慢していた。けれども汽車が走るようになって、私は思った、所詮、人間の英知でつくられた汽車にはかなわない。かけっこで1番になってもしょうがない、だから私はスポーツなんてやらなかった。そして勉強をした」
 その答えは、僕には逃げ口上のように思えて納得がいかなかったが、そんなことを議論するのが目的ではないので、そのまま聞いていた。
 その後、周匝へ向かい、役場の紹介で角南さんというお米屋さんのおじいさんと会った。とても70過ぎとは思えないくらい元気そうで、キセルをぷかぷかふかしながら話してくれた。最後はしっかり勉強しなさいというお説教になってしまうのには閉口した。
 午後、約束どおりAさんのいる片上の車庫を訪れ、車両の整備をしている方々に車軸を見せていただいた。
 1912年ドイツ製の車軸がまだ現役で貨車に使われているのには驚いた。
これは1914年製
わざわざ軸箱を開けて見せてくれた。
これは1914年ドイツ、ヘンシェル社製。

 廃車になった貨車の車軸も保存してあった。事業所は廃車すると一括してクズ鉄屋に売り払ってしまうので、密かに車軸だけ取っておいたのだという。だから見つかるとやばいので、ロッカーの隅に隠してあったのがいかにも微笑ましい。 写真を撮ろうとすると、暗いからと電球を持ってきてくれたり、サッとグラインダーで鉛筆を削ってくれたり、気取りのないもてなしぶりが嬉しかった。本当に鉄道好きな男達という感じだ。現場だからこそ車両に一番愛着を持つのだろう。あたたかさのこもる車庫であった。 そしてこの日も帰りはオープンデッキ客車だった。

 さて、ついに最終日、まだ大きな仕事が残っていた。沿線の人々にアンケートハガキを配るのである。約250枚のハガキを封筒に入れ、民宿の自転車を借り、郵便配達よろしく家々に配ってまわった。思ったより手間がかかり、一日中配っていたので焼けて腕がほてる。 結局100枚ばかり残ってしまった。あきらめて宿へ帰り、出立の準備をし、会計の段になって、がびーん、1万円しかない。郵便貯金は日曜なのでおろせない。宿代は3,300円×3=9,900円。しかたないので9,000円だけ払い、後は郵送することになった。ただただ平謝り・・・・・
 こうしてのんき旅館を後にし、バスに乗り、片鉄に乗り、夕メシ食って、残ったのは122円。缶ジュースを1本飲める分だけ残し、和気から九州に向かう夜行急行『阿蘇・くにさき』に乗ったのであった。

片上鉄道再々訪 終

片上鉄道現地調査を終えて
 あまりたいした資料ではないが、とりあえずのせてみた。 【資料はこちらをクリック】
 100枚残っていたハガキもその後配り終え、そのうち約4割の116枚が回収でき、まずまずの成果を収めた。たった116枚から推測するのも危険だが、ある程度片鉄の現状をあらわしていると思う。
 この付近は一世帯に平均1台以上の自家用車を持ち、周匝付近は岡山行のバスが1時間に1〜3本走っている。片上は耐火レンガの工場が多いが、大きな会社は自家用マイクロバスを送迎用に使用しており、片鉄沿線へも深く進出し、片鉄の通勤客を食っている。 周匝にあるスーパー(西友よりひとまわりぐらい小さくしたような感じ、『サンショップ』)もマイクロバスで送迎しており、一部片鉄と競合する。つまり、買物客まで取られてしまうわけだが、逆に山奥から乗客を連れてきてくれるという利点もある。スーパーに行くふりをして駅へ行けばいいのだから。 そのためプラスマイナス0といったところか。
 高校が和気と周匝にあり、バイク通学は許されないため、学生はみな片鉄を利用している。結局のところ、どこのローカル線も同じであるが、通学路線として生き延びているような感じである。

【1979年10・11月発行キロポスト第78・81号】




片上鉄道は、ほっとする雰囲気が大好きで、この後も何度か訪れています。
この時(昭和54年)は、実は私の好きな作家である吉村昭の綿密な取材に基づく
事実にこだわった小説の影響を受けて、その真似事をしようと思ったのですが、
飽きっぽい性格のため、結局中途半端で終わってしまいました。
アンケートの回答の中には、詳しいことを知りたかったら誰それに尋ねたらどうか
などアドバイスしていただいた方もいたのに、そのままになってしまいました。
さて、本文で車軸をいただいた顛末に何も触れていませんでした。
もちろん、頂戴した車軸は1本そのままという訳ではなく、銘の入った頭の部分を
切りとったものですが、それでも重さは半端ではなく、この後の九州旅行の帰路、
もう一度片鉄のA氏を尋ね、受け取ったものです。
(実はこの時、宿の未払金も清算し、また自転車を借りてアンケートの残りも配ったのです)
A氏から丁寧に梱包された車軸をありがたく頂戴し、ちょっと運ぶのに難儀したものの、
無事持ち帰れました。いったいどれくらいの重さかとヘルスメーターで計ると17Kgでした。
車軸は今も東京の実家に鎮座していますが、先日改めて見ると、クリアラッカーを
塗っておいたのに、ずいぶん錆びが浮いてしまっています。
今度実家に帰ったら、ひとつ錆び落としでもしましょうか・・・・・


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