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はじめに
 もう、2年も前のことです。確か、14時のバスでした。
 後輩一人を連れて、姫路と和田山を結ぶ播但線新井(にい)駅を出発したのは。
雨の明延駅にて
雨の明延駅にて

 20〜30分も走ったでしょうか、大きな精錬所が見えると神子畑(みこばた)です。
 そこから、明延(あけのべ)まで軌道があるのです。
 明延鉱山で産出した鉱石を神子畑まで運搬するのです。
 その名も明延と神子畑の頭文字を取って、明神電車。
 というより1円電車と言ったほうが有名ですし、ユーモラスです。
 もちろん、運賃が1円なのです。

 さて、肝心の列車は、休日のために本数が少なく、3時間ほど待たされました。
 そして、待望の列車が・・・・・・・
 声も出せず、立っているのがやっとでした。
 これがこの世のものなのでしょうか。
 なんという列車、なんと奇々怪々な化物なのでしょうか。
 しばらくはカメラも構えず、ただ、ぽかんとしていました。



連載第4回 ナロー編その3 明延の1円電車



ギロチンみたいで我ながら気持ち悪い記念写真
ギロチンみたいで我ながら
気持ち悪い記念写真

「おい、記念写真撮らんのか!」
「えっ?」
運ちゃんに声をかけられて答えた。
「運転台に入っていいぞ」
「えっ、本当ですか」
「あと少しで発車だ、早くしろ」
後輩とかわるがわる運転台に入って記念写真を撮った。
 さて、客車は恐ろしく小さく、車内で立つことはできない。
 手が出せないように窓に格子がはまっていて、まるで囚人護送車のよう。
 ゲージは762mm、機関車は両端についていて、いわゆるプッシュプル運転だ。
 ガォー、キキキ、ガガガ・・・・・
 走り出したらたまらない。全線約5Km、そのほとんどがトンネル。ものすごい反響で会話などできない。 囚人護送車のような車内
 明延に着くとまたすごい。500mmゲージの軌道が762mmと3線になったりして、やたらめったらに敷かれている。僕と連れは興奮しすぎて、我に返ったときは真っ暗だった。あわてて、あけみちゃん、いやあけみ荘(もちろん旅館)を捜した。
 翌日、蓄電池機関車などを見て、連れが明延から山陰線八鹿に抜けるバスで帰るというので、最後に1往復乗ることにした。神子畑からの帰り、なんと車内にキャンディーズのような3人娘がいた。これは絵になると隠し撮りをしようとしたとたん、
「おっ、こんなポンコツ電車にべっぴんが乗っとる、撮れ撮れ」 なんて、一緒に乗っていた鉱夫のおっさんが言うもんだから、カメラを意識してしまって、こちらを向いてくれない。まったくよけいなことを言いやがって!
 そのコらとさよならをして、そして連れとも別れた。そのあとはずっと一人だが、ストロボの電池を買った電気屋のおばさんや、鉱夫のおっさんに、
明延のキャンディーズ?(もう一人は陰に隠れている)
明延のキャンディーズ?
(もう一人は陰に隠れている)

「おや、連れの方は?」
と聞かれるたび、覚えていてくれたんだなあなんて嬉しくなって、
「あいつはホームシックにかかって帰っちゃいましたよ」なんて答えていた。

 翌朝、雨の音で目を覚ました。窓をあけてみると、見事に傘の花が咲いていた。ちょうど小学生の登校時間だったのだ。がっくりきて、9時過ぎまで寝ていた。
 おそい朝メシだった。宿のおばさんが気の毒そうに言った。
「この辺は雨が多くてねえ、弁当忘れても傘忘れるなと言うくらいですから」
とどこかで聞いたようなせりふであったが、なんと僕は傘を下津井電鉄の児島駅に置き忘れてしまって、手元にないのだ。宿の傘を借りて写真を撮っていた。そして、13時発の電車で神子畑に出て、帰ることにした。宿の好意で傘を駅までさして行って、駅で預かってもらえばいいということだった。駅まで15分くらいあるので大いに助かった。宿を出てしばらく行くと、突然女性の声で
「みやたさ━━━━━ん」
と呼ばれ、
ドキーッ としてふりかえると、そこには別れを惜しむ女のコが花束をもって・・・・・なんて冗談(ついつい夢が)
 宿のおばさんだった。僕の持って行った傘には名前が入っていなかったので、あとでわからなくなると困るからとしっかり「あけみ荘」と書かれた傘を持ってきたのだ。丁重な礼を言って別れた。でもやっぱりもっと若いコのほうがよかった。
 駅は高台にあって、坂をのぼっていくと、山あいに町が一望できる。つくづくいい町だったと思う。駅で傘のことを頼み、5円を出して記念に切符を5枚買おうとすると、ポイと適当に渡される。数えてみると7枚もある。
 神子畑に着いた。雨に濡れるので、待合室に駆けてゆくと、
「おーい、これに乗れるぞ」
と言われた。見るとインクライン(第3回大嶺炭鉱参照)、そこでは斜面台車と呼ばれるものに乗れるというのだ。
「本当は(部外者は)いけないんだが、一緒にいりゃわからん」
 その人は親切にも車で新井駅まで送ってくれた。バスは接続が悪いので非常に助かった。
 予定以上に早く急行「但馬」で大阪に出たこともあって、いつのまにか僕の足は四日市へ向かっていた。そう、 近鉄ナローである。周遊券はその日で切れるというのに・・・・・

あとがき
 思えば当時はまだ高校生でした。もちろん大学の鉄研なんて全然知りませんでしたし、まさか自分が入部するなんて思ってもいませんでした。
 やはり、2年間とは長いものです。いろいろなことがおきました。果たして1円電車は今日も走っているのでしょうか。
1円電車よ永遠に

1976年4月の軌道めぐり
【1978年5月発行キロポスト第63号】





明延には、その後2回ほど訪れましたが、1円電車よ永遠に、という願いもむなしく、
昭和62年の明延鉱山閉山とともにその使命を終えたということです。
明延で、今でも印象に残っているのは、ストロボの電池を買った電気屋さんで、店のおばさんと
東京から来たことなどを話したときのことです。そのおばさんの陰から、娘さんでしょうか、
きらきら瞳を輝かせながらのぞきこんでいるのでした。
もし、「一緒に東京行こうか」と声をかけたら、二つ返事でピョンと来てしまいそうな、
そんな輝きの瞳でした。
その頃まででしょうか、『東京』という響きに特別な意味があったのは。
原稿を書いた当時、明延からの帰りに名前を叫ばれた花束を持った女のコのくだりは、
この電気屋さんの娘さんをイメージしていたように記憶しています。

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