またあう日まで

 詰将棋全国大会が終わり、はや2週間が過ぎようとしている。
 今にして思えば、あの日はまるで夢のような出来事だった。
 大会メインプロデューサーとして、大会にまつわる全てを振返ってみたいと思う。

 一年前の名古屋大会で、福島竜胆氏に 「東京大会のプロデューサーをやってくれないか」 と言われたのがすべての始まりだった。

 プロデューサーを引き受けた僕が最初に考えたのは、
全国大会のテーマだった。 これまでの全国大会は、詰棋人たちの交流や親睦に重きがおかれており、それが僕には常々不満だった。 「詰将棋文化は世間一般から不当に評価されているのではないか」 という思いが僕には根強くあり、この機会を利用して、詰将棋文化を社会に対してアピールしたかったのだ。

 また、大会そのものも
「詰将棋を考える場」 に昇華したかった。 これは作品を解いたり作ったりということではなく、ジャンルとしての詰将棋がどうゆうものなのかを、来場の詰将棋ファンに考えて欲しかったのだ。 (※例えば、規約問題一つとっても未だに多くのことが未解決かつ曖昧であり、芸術の一分野と捉えても、はなはだ未発達なジャンルなのである。)

 その意味で、
詰将棋シンポジウムの開催( 「21世紀の詰将棋を考える」 がテーマ)は、真っ先に頭の中に浮かんだ企画だった。 続く 「詰パラクイズ」 も比較的早くに思いついた。 クイズ自体は従来の流れを踏襲するものだが、シンポジウムが固い内容なのでバランスを取る意味があったし、パラの各コーナー担当者に問題を作ってもらうことで、読者と担当者の関係を密にできる意義もあると思った。

 企画を思いついたといっても、実行に移すのは別問題である。 プロデューサーとしては、思いばかりが先行し、実質的な作業が伴わなかった。 大会全般に関する準備もあまり進まないまま、時間ばかりが過ぎていったことを認めねばならない。


 僕がよそ見をしてる間に、幾つかの偶然が重なっていった。

 一つは
「詰将棋400年」の企画。 この企画が立ちあがったのは大会のほんの数ヶ月前である。 闘病中の森田氏がベッドで構想を練り、加藤氏と福島氏の協力で「画像で見る詰将棋400年」のイベントが決定した。 これで大会に一本の大きな柱が出来た。 またこれにより、シンポジウムの存在意義も、より明確になった。 詰将棋の過去と未来を見据える、車の両輪になったのである。

 加藤氏が立ち上げた
「詰将棋400年」 に関するHPは大変有り難かった。 これにより大会前から話題を各方面に提供し、一つのウェーブを形成することができた。 全国大会がイベントとしての<点>ではなく、<流れ>となった瞬間である。
 
 もう一つの偶然は、
全詰連組織の見直しである。 私は立場上この動きには無関係だったが、全詰連を実質的に機能できる組織として強固にするという考えは、個人的にも大賛成だ。 ただ痛し痒しだったのは、メンバーが全国大会のスタッフと被っており、そちらの話し合いが優先され、十分に大会準備の打合せができなかったことである。

 三つ目の偶然は、
高橋和氏の看寿賞受賞である。 女流プロ棋士が看寿賞を受賞すること自体は大したことではない。 確かに話題性は有り、事実そのおかげでNHKなどの取材が来たのだが、俯瞰的に見れば一時的な話である。 それよりも、史上初めて女性が看寿賞を受賞した、という事実の方が大きい。 ご存知のように詰将棋界は女性の人口が極めて少なく、女流作家に至っては皆無に等しい。 そうした背景の中で看寿賞作家が生まれたことは、新しい時代の幕開けの象徴的な出来事と言えるだろう。 事実今回の大会では、彼女を含めて5名の女性参加者があった。 必ずしも全員が詰将棋に興味があったわけではないとはいえ、これは立派な数字である。

 なお、高橋和さんには、あくまでも 「一詰将棋ファン」 として参加をお願いした。 詰将棋の前にはなんぴとも同じ、というのが僕らの基本理念だった。


 さて、大会も2ヶ月前に迫り、いよいよスタッフの準備も本格化してきた。 こうゆう時、東京という土地柄は強い。 潜在的な詰将棋人口が多いからだ。詰工房のメンバーを中心として、20名以上のスタッフとメールで頻繁に連絡を取り合った。 勿論人間同士のことであるから、意志の疎通などで様々なトラブルはあったが、7・20に向け、
皆が一丸となって邁進して行ったのは言うまでもない。

 本番当日の出来は皆様がご覧になった通りである。 人によって受け止め方も様々だろう。 準備不足による不手際もあったが、
全体としては大成功だったと考えている。 146名という参加人数もそうだが、特に破綻なく全ての行事を進行できたのが大きい。

 詰パラクイズの優勝者が詰パラ未見の人だったり、僅か30分で全員の一人一言を実行できたりと、予想外の好展開も起きたのは
「神のなせる業」 だったかもしれない。

 完成度という点では2年前の静岡大会に軍配が上がるだろう。 しかし今回は、造り手側の意志−−
詰将棋文化を考え、アピールする場にしたい−−が明確にあった。 この点は従来の大会と一線を画していたと思う。 全てを満足に表現はできなかったが、巨大な壁に一つの穴を穿つことはできたのではないか。

 と同時に、今後このような規模の大会を行うには、趣味の延長や片手間という意識では不可能だと感じた。 東京詰将棋工房という、優秀な人材を抱えてなお苦労した経緯を思えば、その思いはなおさらだ。 世間一般を見据え、100名以上の参加者を呼ぶイベントを執り行うには、
仕事と同じ意識で取り組むことが必要だ。 ボランティアのスタッフにそれを求めるのは無理だろうか?

 詰将棋全国大会がこれまでと同じく、趣味人の親交を深めるだけの、内輪向けのイベントでよいというならそれもまたいいだろう。 しかし、新たな時代の流れを感じ、我々が空けた穴をさらに大きくする気持ちがあるなら
真剣に考えてほしい

 先ほど挙げた 「三つの偶然」 は時代の必然かもしれない。後戻りは難しい。その意味で今回の大会は、今後の全国大会の
「試金石的存在」 になると思う。やや自賛が過ぎたかもしれぬが、僕らが全国大会に投じた熱意を汲み取って欲しい。


 最後の最後になってしまい恐縮だが、今回の大会運営に汗を流し、協力して頂いたスタッフ、寄付をして下さった方々、そして何よりも大会当日にわざわざ足を運んで頂いた参加者の皆様に、プロデューサーとして
あつく御礼申し上げたい

 スタッフが難しいことを言っても、参加者がいなければイベントは成り立たない。 その意味ではやはり
「お客様は神様」 なのだ。


 さて、個人的な話に戻ると、福島氏が書いてる通り、僕自身はしばらく詰将棋と距離をあける。 これは全国大会が影響してのことではない。 むしろ、もっと早くに詰将棋から離れてるところを、プロデューサーという役職のおかげで繋がっていたと言った方が良い。 だからタイトルの言葉になってしまう。
 
 
またあう日まで−−。

 それが来年の大阪大会になるのか、再来年の北海道大会になるのかは分からないけれど。

文責  大会プロデューサー  清水英幸