気 賀

 慶長6年(1601)に創設された気賀関は箱根、新居と並んで東海道三関所の1つ。関守は元和5年(1619)から明治2年の関所廃止に至るまで旗本の気賀近藤家が12代にわたり代々拝命した。また気賀は宿場町で8軒の旅籠があった。

★二宮神社
 後醍醐天皇の皇子宗良親王は南朝方勢力拡大のため井伊谷の井伊家にきていた。延元3年(1338)親王の側室である井伊家の娘駿河姫は親王の軍を見送ってこの地に来たが急病でなくなった。親王の御座所のあった所へ宮をたて姫をまつった。

★跡川の道祖神
 姫街道と金地院道との分岐点に建てられている。高さ2mほどの自然石である。金地院は宗良親王の妃駿河姫をとむらった寺。

★長楽寺
 弘法大師が創建したと言われる。本堂は、山門など江戸時代の建物のほか、文化財が多い。小堀遠州作の庭園で有名。

★堀川城跡
 永禄10年(1567)気賀領主新田友作らによって築城された。北側に都田川、西と南には入り江に囲まれ東側に城門があった。今川方に属していたため永禄12年徳川家康の三千の兵に攻められ落城。死者1000人、捕虜700人。跡地には石碑と首塚がある。現在の都田川は城跡の東南を流れている。

★獄門なわて
 家康は堀川城攻略後、捕虜700人をここで処刑した。その首を小川に沿った道にさらしたことからこの名がついた。「堀川城将士最期之地」の石碑がある。

★桝形と常夜灯
 気賀宿西入口は石組の上に土を積み上げ矢来を組み門が設けられ、内側が桝形になっていた。桝形の一部にひょうたんのデザインがあり面白い。常夜灯は安政4年(1857)に西町の若者たちが40両の金を集めて当地の安全を秋葉山に祈ったものである。

★気賀宿
 天正15年(1587)本多作左衛門によって、気賀は街道の宿と定められた。町家も整備されて山手に土塁、南は堀川、東に関所、西に木戸を作ってあり、その中に約80軒の町家が並んでいた。西町通りには昔の家並みが残っている。

★本陣
 気賀宿の本陣は1軒で、気賀宿の設定とともに中村家が勤めた。中村家は気賀町および上村の庄屋を兼任し、本陣の建坪90坪、門構はあったが玄関はなかった。本陣の向側に高札場があったが、いずれも当時の面影は残っていない。

★姫街道歴史民族資料館
 一階にはイグサ栽培や漁労などの民族資料、二階には銅鐸などの考古資料と姫街道に関する資料が多数展示してある。資料館の横には明治時代前半まで使われた産屋が移築されている。

★細江神社
 明応8年の大地震による津波でこの地に流れ着いたご神体をまつる。この故事から地震厄よけの神としてあがめられています。境内にはこの地方のイグサ栽培の基礎を築いた近藤氏をまつる藺草神社、天然記念物の楠がある。
姫街道歴史民族資料館 細江神社

★陣屋
 三千五百石余の旗本として気賀の領主および気賀の関所の管理を勤めた近藤氏の屋敷で関所の西にあった。御殿と役所があり、役所の前庭にあったシイの木は実が大きく、かつて将軍家へ献上したことから江戸シイとよばれ、跡地の気賀小学校にのこっている。

★気賀関所跡
 慶長6年(1601)、徳川家康により創設された。敷地547坪(1805平方メートル)で街道をはさんで北に本番所、南に向番所と二階の望楼(遠見番所)があり、上に釣鐘が掛けてあり、下には大砲一門が備えてあった。平日は番頭2人、平番5人が交代で勤務し、下番1人、足軽2〜3人がそれに従っていた。現在、関所東門(冠門)跡は町の中心の4つ辻の西北門に石碑があり、本番所の一部が通りから一歩奥に入った所に残っている。また関所防備のため東門から宿の南側に沿って設けられた要害堀が気賀四角付近から西に残っている。幅1.8メートル。

★犬くぐり道
 関所の取り締まりのため、付近の住人でさえ通行には不便をきたしたため、領主が作った裏道が犬くぐり道です。道の途中にむしろ1枚をたらし、立って歩く人間は通れないが犬がくぐるのはさしつかえないという、法の抜け道だった。そのため住人はむしろの下を4つ足になって通りぬけた。武士は絶対に通らなかったという。

★復元・気賀関所
 町役場の西に平成2年に再現された。 TEL(053)523-2855 月曜休館


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