曹操伝
(189年12月〜191年)
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| 189年12月の状況。どこが誰だか分かりませんが、すぐに淘汰されます。 |
| 189年 冬12月 |
・曹操、許昌を占領 | 曹操は字を孟徳といい、沛国 この時、洛陽の董卓は献帝を擁し強勢であった。曹操は、董卓が必ず東に向かってくるであろうと思い、先に許昌を占領して拠点とし、陳留を夏侯惇に委ねた。 |
| --------- 190年 --------- | ||
| 夏6月 | ・董卓、王匡領河内を攻め、これを攻略。王匡滅ぶ | 曹操は国力増強に努めて董卓の東進に備えたが、董卓軍はそれ以上に増強された。そこで曹操は、董卓軍の訓練が不十分なうちに撃つべきではないかと考えた。夏6月、董卓が河内の王匡を撃つと、その隙を狙って洛陽を攻める事を計画した。 秋7月、許昌の荀イクを登用して軍師とした。 |
| 秋7月 | ・陶謙、寿春を占領 ・劉焉、雲南を占領 |
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| 冬11月 | ・劉表、武陵を占領 | |
| 冬12月 | ・董卓、張楊領上党を攻め、これを攻略。張楊滅ぶ ・袁術、新野を占領 |
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| --------- 191年 --------- | ||
| 春1月 | ・董卓、袁術領宛を攻め、これを攻略 | 春1月、許昌の民が蜂起したので、曹操は兵糧を供出してなだめた。 袁術が南下すると洛陽の董卓軍は宛を攻略した。3月、曹操は董卓軍が分散したのを見て、夏侯淵・楽進らを指揮して洛陽を攻めた。董卓軍は虎牢関で防禦したが、曹操はこれを撃破し、さらに追撃して全滅させ、洛陽を占領した。 秋9月、曹操は濮陽の劉岱を撃つ事を計画し、韓馥と同盟した。しかし、董卓軍に囲まれているので洛陽から動けなかった。 冬12月、許昌の太守・李典は独断で汝南を占領したが、曹操はこれを喜ばなかった。 |
| 春2月 | ・袁紹、劉備領平原を攻め、これを攻略。劉備滅ぶ | |
| 春3月 | ・曹操、董卓領洛陽を攻め、これを攻略 ・孫堅、桂陽を占領 |
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| 秋8月 | ・董卓、安定を占領 ・董卓、張燕領晋陽を攻め、これを攻略。張燕滅ぶ |
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| 秋9月 | ・曹操、韓馥と同盟 ・陶謙、建業を占領 ・劉表、江夏を占領 |
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| 冬10月 | ・劉焉、永安を占領 ・劉表、上庸を占領 |
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| 冬11月 | ・董卓、漢中を占領 | |
| 冬12月 | ・曹操、汝南を占領 | |
| 孟徳の告白 |
189年12月
基本方針としては、周辺の弱小勢力を併呑して力をつけ、董卓を倒して華北を統一してから南下したいところだが、董卓が東に向かってくれば、それを防ぐのに精一杯になるだろう。
とりあえず「諜報」で洛陽を覗いてみると、兵力は5万1千だった。こちらは2万8千。7千ばかり徴兵し、曹操と両夏侯・曹仁・楽進に再編。そして、夏侯惇を陳留に残し、董卓に取られる前に許昌を占領した。とても2都市を守り切れる戦力ではないが、最悪の場合、陳留は放棄してもかまわない。
―――――― 190年 ――――――
1月
とにかく人材が必要ということで、在野にいた荀攸を「訪問」したあと登用しようとしたが失敗。引き続き捜索で荀シンを発見し登用した。あとは訓練と商業開発。
2月
訓練と治安上昇の後、洛陽を覗いてみると賑やかに色々やっていた。特に兵の訓練は自分を狙っているようで恐ろしかったが、董卓が2万の兵を持っている以外はみな五千以下なので、攻めてきても何とかなるだろう。
鐘ヨウ・程イクを発見したが、いずれも登用に失敗。
3月
荀シンが公孫サンに引き抜かれたが、鐘ヨウ・程イク・陳羣を一気に登用。今月も訓練に励む。東の勢力を覗いてみると、大した事はなかった。とにかく今は国力増強だ。
閑を得たのでギョウの張コウを訪問してみると、なかなか好感触だった。
4月
程イクが袁術に引き抜かれてしまった。取り返そうとしたが、自分を含め3人連続で失敗。陳宮は成功すると言ったのに全く当てにならない。仕方なく「贈答」で親密を上げてみた。
5月
今月は陳羣が劉表へ……。捜索で戯志才を登用。今までお目にかかった事はなかったが、なかなか優秀だ。
洛陽軍は7万を超え、呂布も1万以上の兵を持っている。コツコツやっていても、もともと豊かな董卓にはいつまでたっても追いつけないどころか、兵力差は開くばかりだ。そうであれば、早く訓練度を上げて、敵が脆いうちに攻撃して打撃を与えた方がいいのではないか。
というわけで、大胆にもまず洛陽攻略を目指すことにした。
6月
程イクら、引き抜かれた武将の奪回を試みるが、ことごとく失敗。楽進が政治の指南を求めてきたので、応じてやる。
7月
董卓が呂布ら主力を率いて河内を攻略した。これはラッキーだ! 洛陽が手薄になったばかりでなく、董卓軍を分断し、一気に弱体化させるチャンスかもしれない。
陳宮の進言で武術大会を開催。8名のトーナメントは、武力の高い方が勝ち進み、けっきょく夏侯惇が優勝した。再び陳宮の進言で捜索を行い荀イク発見。3人目の李典で登用に成功した。早速当てにならない陳宮に代え、軍師に任命。許昌で8千ばかり徴兵。
8月
許昌に流れてきた王匡を登用。洛陽の荀攸に一応「手紙」を送ってみる。
今月も許昌で8千6百、陳留で5千を徴兵。あとは訓練。
9月
王匡が劉表に引き抜かれた。別に惜しい人材ではないが、登用するそばから引き抜かれるのは、まったく腹が立つ!
10月
荀イクの進言により郭嘉登用。袁術と同盟を結び、洛陽攻めに援軍を出してもらいたいが、金がないので外交が出来ない。兵糧を売ろうにも、相場がなかなかよくならない。くそぉ、焦る……。仕方なく計略を仕掛け、荀イクが侯成に「埋伏」成功。また、郭嘉で荀攸を引き抜いた。
11月
荀攸が公孫サンのもとに……。いい加減にしろぉぉーーー!!
荀イクの進言で典韋を登用。引き抜き防止のため親睦を深めようと訪問してみる。「長安の李カクは、賄賂で何でもする」とのこと。
訓練はほぼ終了。あとは袁術との同盟だが……。
12月
典韋が袁紹に……。ホントに勘弁してくれよぉ……。
洛陽軍は6万にまで増えてしまった。我軍は5万ちょっと。外交が出来ないので、荀イクに宋謙への埋伏をやらせた。
―――――― 191年 ――――――
1月
いきなり、生を司る神・南斗と死を司る神・北斗による名士十選が発表され、10位にランクされた。1位は董卓、2位は袁紹、3位は皇甫嵩。極悪人の董卓がトップというのは、納得いかん。
なんと許昌で民衆蜂起! 兵糧の約3割にあたる2万余を供出し、何とか説得。このままではジリ貧だ……。
相場は売りも買いも、金1当たり兵糧10前後が限界か?
荀イクの進言で満寵を登用。典韋も取り返した。陳留で5千徴兵。
董卓が更に北に兵を進めたのはいいが、袁術も南下してしまった。これで、あまり援軍としては期待できなくなってしまった。
2月
おおっ!天は我を見捨てなかった! 洛陽軍が今度は南下。洛陽にはまだ5万ほど残っているが、まともな武力を持っているのは盧植くらい。訓練もほとんどされていない。周辺も宛に2万ちょっとの他は、1万ほど。これなら勝てる!
許昌で8千あまりを徴兵し、陳留との間で再編。出撃準備は完了した。
3月
満寵が劉焉に……。
一応郭嘉に破壊工作をさせると、洛陽の防御度が500ちょっとから40ほど下がった。
自分で1万2千を率い、夏侯淵・楽進・曹休・典韋が約6千ずつ、参軍・荀イクが約2千の総勢3万8千で出陣(戦争についてはこちら)。敵は洛陽の全軍5万3千で虎牢関に迎撃に出てきたが見事に勝利し、洛陽を占領。楊彪・伏完・侯成らを登用し、李儒らを解放した。 [虎牢関の戦い]
結局、戦い終わって1万近く兵力が増え、兵糧・金も手に入った。まずは完勝!
4月
典韋がよりによって董卓に引き抜かれた! もう戦勝気分も吹き飛んで、人間不振に陥りそうだ……。
とりあえず、許昌の太守に李典を任命。洛陽の兵を再編し、降伏組の兵を取り上げ夏侯淵らに振り分けた。
5月
伏完・楊彪が引き抜かれた。ホントにどうやって配下を増やせというのだ。忠誠度が見えないので、キープも引き抜きも難しい。その他にやらなければならない事も多いし、人材確保は各地の太守に任せた方がいいのだろうか。そうは言っても、人材確保中心の委任はないので、とりあえず治政で委任をした。
売り相場が6まで上がったので、3万ほど売った。
6月
在野の人材も見つからなくなってきたので、どう人を集めればいいのかを考えながら訓練などに励む。やはり戦争で得た捕虜を何とかキープするしかないか……。
7月
漢詩大会を開催。順当にと言うべきか、荀イクが優勝した。
相変わらず人材は流失は続き、蔡ヨウが劉表につく。しかし、宋謙・侯成・李粛は何とかこのまま留まりそうだ。典韋が去ったのはショックだったが、人数的には増えている。
周辺を諜報すると、董卓軍23万、おそらくライバルになるであろう袁紹軍は12万と判明。我軍は8万7千。
8月
人狩りの戦争をするにしても、兵力的には董卓軍に備えるのに精一杯なので、もっと増強しなければならない。とりあえず洛陽で8700徴兵。洛陽は豊かで財政に余裕も出てきたので、初めて朝廷に金を献上し、貢献度をアップ。
劉備滅亡後の関羽がギョウの韓馥に仕えているのが分かったので、訪問してみた。好感触だったが、登用は無理のようだ。
何気なく袁術の様子を見てみると、兵糧がなく秋の収支もマイナス予想。もう終わりか。
9月
人材確保を主眼とした次の攻略目標は濮陽とした。逃げ場がなく、そこそこ武将がいて、あまり強くない所はここしかない。とはいえ、兵力がまだまだ不足なので、援軍を出させるのと同時に攻め込んだ後の安全を確保するため、韓馥と同盟した。期間は4年。
暇が出来たと言うかやる事がないので、初めて巡察をした。民に金を恵むと、民心掌握が10アップ。また河内に張遼がいたので手紙を出してみた。
それにしても、董卓は分断されたのを気にする様子もなく領土を拡大している。各地とも自給自足が可能なだけに、分断してもあまり意味はないのかもしれない。
10月
訓練以外にやることがない。あまった行動力で郭嘉を朝廷に派遣。また巡察に出て盗賊を退治した。先月に続き張遼に贈答。また、宛の賈クに会いに行ったが断られた。
11月
太守に委任した都市では、内政の数値は上がっているものの人材は全く増えないので、全て任意の委任に切り替えてみた。暇を持て余し、無駄と思いつつ劉備・張遼に手紙攻勢。
12月
郭嘉を朝廷に派遣。
河内には6万6千、宛には5万と、洛陽周辺の董卓軍はどんどん増えている。董卓は、こちらの全軍に匹敵する兵力を洛陽攻めに動員できる。これでは、いつまでたっても濮陽に攻め込めない……。
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| 191年末の状況。強大な董卓の領土に食い込んだがゆえに、身動き取れず……。 |
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