直江はキッチンからの音で目覚めた。
そうか。。。この音で、あんな夢を見たんだな。
包丁でトントン切る音。この音のせいだろう。
この部屋で、こんな音が聞こえるとは、信じられない気がした。

「いいにおいがする」
「はい?」
倫子が振り返るとキッチンの入り口から直江がのぞいていた。

「早起きだな」
「おはようございます」
「ん」
「よく眠れましたか」
「ん」
「朝ごはん、あまり食べないとかおっしゃってましたけど、作りますから食べてくださいね」
「何作ってる」
「たいしたものじゃないですけど」

「キッチンからの音で目が覚めるなんて久しぶりだ」
「そうですか?」
「一人暮らしを始めてからはこんなことはなかったから」
「起こしちゃったんですね」
「いや。寝覚めはよかったよ」
「それならよかったです」

「。。。夢を見た」
「夢、ですか」
「子供の頃の夢」
「どんな夢ですか」
「。。。」
「先生?」
「。。。母親が出てきた。。。後姿だったけどな」
「おかあさん?」
「包丁の音とか、そういうのが聞こえてきたからだろう」
「後姿だけですか?」
「そう」
「先生のお母様。。。どんな方なんですか」
「。。。強い人だ。父は早く死んだが、一人で僕と姉を育ててくれた」
「そうなんですか」
「。。。別にマザコンじゃないぞ」

『何を言い出すかと思ったら』変な先生だ。
「そんなこと思っていませんよ」

プイっと直江が背を向けていなくなった。
「先生? まだちょっとかかりますから横になっていてもいいですよ」
直江が写真を持って戻ってきた。

「これ」
「はい?」
「母だ」
「え、あ、いいんですか」
「どうぞ」

直江が差し出した古い写真に、一人の女性と女の子と男の子が写っていた。

「きれいな方ですね。先生、5才。。。くらいですか」
「そのくらいだろう」
「どこで撮られたものなんですか」
「どこだったかな。。。忘れた」

その写真は、支笏湖で撮られたものだった。
あの寒い日の翌日、よく晴れた湖のほとりで撮ったものだ。
あの日から支笏湖は自分にとって特別な場所になった。

「きれいな湖ですね」
「そうだな」
「北海道ですか」
「そうだと思う。。。準備はできたの」
「あ、はい。すみません。お待たせしちゃって」

支笏湖の話を、倫子にはできないと思った。
あそこは特別な場所だ。その話は、いまは。。。したくない。

「君と似ているかもしれないな」

倫子の返事はなかった。
聞こえなかったのかな。まあ、いい。
どこが、と聞かれても答えられないから。

私が考えるお母さんとの写真は、真ん中に水野真紀さんが屈んでいて、両手で子供を抱えて撮っている感じの写真。
そのときのお母さんは吹っ切れたような顔をしてるんですよ。青空のように。