もう一度

「じゃあ,気をつけて」
「すみません。わざわざ空港まで送っていただいて」
「謝ることはない。僕が好きでここまできたんだから」

用事があるようなことを言っていたが,直江はとりたてて急いでいる様子もなかった。
搭乗にはまだ少し時間がありそうだ。

昨日から,直江がいっそうやさしくなっている感じがした。
とても優しい目をしていて。
表情が穏やかで。
動作がゆったりとしていて。

体のことは心配だったが,そんなにつらそうでもないようだ。
きてよかったのかもしれない。
倫子はそう思った。

「お体の具合はどうですか?」
「ん? そうだな,大分いい。」
「先生を一人にするのはちょっと心配だったんですが,調子がよさそうならよかったです」
「心配?」
「はい。また倒れたりしたら心配で」
「ああ。それは大丈夫」

「こちらにはどのくらい?」
「久しぶりだからあと2,3日はいたいと思っている」
「そうですか。。。あのう,やっぱり私も一緒にいてはいけませんか。」
「ん?」
「先生と一緒に,あと少し」
「どうした。君には仕事があるだろう」
「でも。。。なんだか帰りたくないです。」
「わがまま,だな」
「いけませんか」
「残念ながら,NOだ」
「じゃあ,電話してもいいですか?」
「そんなに心配することはない」
「でも」
「何かあったら,こっちから電話するから」
「ほんとですか?」
「ああ」

アナウンスが流れた。

「もう,いったほうがいい」
「。。。はい。帰る日が決まったら連絡くださいね。時間が合えば,迎えに行きますから」
「大げさだな」
「そんなことないです。私にとってはとても大切です」
「行きなさい」
「はい」
「ん」

荷物を持って,倫子が立ち上がった。

「元気で」
「? だってすぐ会えるじゃないですか?」
「。。。東京もまだ寒い日が続く」
「ああ,そうですね,こっちはもっと寒いですから先生も気をつけて」

促されても,倫子はまだ行く気になれなかった。

「どうしてそんな顔をする。」
「すみません。なんか,ちょっと感傷的になってるのかもしれません」
「笑って」
「え?」
「悲しむことなんかないんだから。笑って」
「でも。。。」

直江の手が倫子の頬に伸びた。

「さあ」

直江の暖かい手の温もりに促されるように倫子が笑った。

「そう。君にはそれが一番だ」
「早く帰ってきてくださいね」
倫子の問いに答えず,直江はただ微笑んだ。

直江の手が離れ,離れる直江の手を倫子が触れて,
そして二人の手が離れると同時に,倫子は歩き出した。

数メートル歩いて,倫子が振り返ると,さっき別れた場所に直江が立っている。
コートのポケットに両手を入れて。
これから,あの寒い場所に帰ることを考えると,申し訳ない気がした。
思わず,右手を上げて手をふると,直江もポケットから手を出して軽く上げてくれた。

倫子はペコリとおじぎをすると,前を向いて歩き出した。
。。。もう一度。もう一度,振り返りたかった。
先生の姿を見たかった。
でも,なぜか見てはいけないような気がしてしまう。
『倫子』
呼ぶ声がして振り返ると,遠くに直江の黒いコート姿がまだ見える気がした。

言い残したことはなかっただろうか。
去っていく後姿を見ながら,直江は必死に考えた。
これが最後だ。
あんな悲しげな顔は見たくなかったから,つい,言ってしまったが。
最後に笑顔が見られてよかった。
やわらかい彼女の頬。温もりがまだ手に残っていた。
無意識に手が伸びて,頬に触れていた。

未練なんだろう。
悔いはないけれど,未練はある。
いつまでも見ていたかった彼女の笑顔。
彼女の笑顔に執着する自分がおかしかったが,でも,それが今の自分なのだと思う。
それが,彼女を好きになった自分,彼女が好きになってくれた自分なのだ。

『倫子』
あれを聞いたらどう思うだろう。
そんなことを考えている自分がおかしかった。

ああ,最後にもう一度だけ抱きしめればよかった。
。。。人の目なんか気にしないで。

まだ私の知らない直江先生の姿を追い求めています。
どう話しただろう。どんな顔をしただろう。
それはきっと残された倫子も同じだったんだろうけど、
決定的に違うのは、倫子は私たちの知らない直江先生を知っていたってことで。
嫉妬しますね。