NN病的「直江庸介を語る文字」と「逢いたい気持ち」

■直江庸介を語る文字
「人はなぜ白い影を語り続けるのか −直江庸介という誘惑−」の本が発売された。
なんだろう,とても不思議な気持ちがした。PSIKOで初めて読んだときも感慨深いものがあった。
けれど,これだけのページ数,直江庸介と白い影について書かれているものを目にすると,圧倒されるものがある。
もちろん,嬉しい気持ちが大部分だけれど,それだけではない,何か不思議な感じ。
私たちが,誰に言われるでもなく,どうしようもない気持ちに動かされて語り続けてきた軌跡が,この本の中にある。
懐かしくもあり,幸せでもあり。不思議な感じがしたのは,自分に起こったこれまでのことが思い出されるからだろうか。
単に読むだけではなくて,そこに書かれていることが,自分たちの意見や感情を代弁しているようなものだからだろうか。
ロケ地の写真を見れば本編のことも思い出すし,自分の足でその場所に立ったときのことも思い出して感傷に浸る。
いまだ病気は癒えていない。結局,まだ私は直江庸介について語りたいし,考えたいし,知りたいんだろうと思う。
もうこれで十分だとは思っていないのだろう。もっと,もっと,もっと。
本当に,最近は白い影の世間的露出がない。。。当たり前なんだけど。
私は毎日のように考えるのに,考えていられる環境が明らかに少なくなっている。
だから,これだけたくさんの『直江庸介を語る文字』を見ると嬉しくなるんだろう。

どういう表紙であるかは知っていたが,実際見てみると「たんぽぽのわたげ」に水滴がついている写真はきれいだった。
水滴のついたわたげを見ていたらなぜだか胸がきゅ〜っとした。しばし感傷にひたった。
たんぽぽではなく,わたげである理由。何か意味があるように思ってしまう。
やはりわたげというのは象徴的だ。

■逢いたい気持ち
単行本に引き続いて「白い影 -その物語のはじまりと命の記憶-」のDVDが発売された。
ディレクターによって,ずいぶんと解釈が変わる。そのことを痛感した。
そもそも,白い影のメインDは吉田Dだったと思う。直江庸介に対する思いはどのディレクターも強いものだけれど,吉田Dによって,私は白い影のトーンが決まったと思っている。
彼の「直江は死ぬところを見られたくなかった」という言葉も,最後のシーンでボートに乗った倫子に直江の心臓の音が重なった意味も,「ああ,そうだ」と納得できたのだ。
だから,SPを作るなら吉田Dに演出してもらいたかったな,というのが正直な気持ち。
福澤Dは4話と6話の演出で「直江」という男を象徴的に演出し,おそらく一番印象に残るだろう,あの4話のラストシーンなどすごい演出が見られた。4話と6話は全編通してもすごい回なのだ。それに異論はない。
ただ,福澤Dの演出したSPだけが直江の過去として語られてしまうのに抵抗がある。
あの姿が直江庸介の本当の過去の姿だったのか。疑問が残る。
吉田Dだったらどうしただろう? どういうシーンにしただろう? そう考えてしまう。
見たくないシーンがあったからかもしれない。入水シーンや手術シーン。本編とはトーンが違っていた。
ただ,である。福澤Dなりの強い思い入れとこだわりがあったのだということは,インタビューを見て理解できた。
福澤Dの考える直江庸介。。。
それは私の考える直江庸介とは違っていた部分があるけれど,説得力は確かにあったのだ。

福澤Dの次なる構想。
とことん直江庸介という男を見てみたいというた彼の構想には既に3つのストーリーがあるらしい。

(1)幼少時代
 父親は幼い頃他界している。その彼が医者を目指すきっかけなど?

(2)行田病院に来てから倫子に出会う前
 自棄になって酒と女に逃げながら,外科医として医者の仕事を全うしようとする姿。

(3)北海道で倫子と別れてから死ぬまでの空白の2日間
 倫子と別れてから,彼は何をしていたのか。

これらの構想について私の考えを言わせていただければ,以下のようなものになる。

(1)幼少時代は中居直江が出てこないので,果たして白い影として成立するかは疑問だ。
 幼少時代まで製作するなら,そのほかのストーリーも実現して白い影の完全体を目指さなくては意味がない。

(2)個人的には倫子に出会う前までの,「ワル」な感じの直江庸介は見てみたい気がする。
 たった一人で病と向き合いながら,医者を続け,周りとは距離をおく。
 院長に「腕は確かなんだが何を考えているかわからない」と言わしめたその姿。

(3)渡辺先生はこれがおもしろいと言われたそうだが(すでに構想をお持ちなんだろう),
 この2日間を映像にするのは,かなりコアな感じがする。SPは単発でも内容が理解できたと思う。
 しかし,最後の2日間だけ切り取って成立させるには視聴者に前提知識が必要だ。
 映画でというならまずは本編を整理して映画にしてからだと思う。

最初からのNN病患者は,これらの構想について手放しでは喜べない気持ちを持っている人がほとんどではないだろうか。
NN病まっただなかの人は,もう待ち遠しい気持ちのほうが強いのかもしれないけれど。
ましてや「映画化は皆さんの応援次第」などと言われては。
NN病歴2年の私の気持ちを羅列すると。。。
・本編以上の直江庸介には会えない
・彼を直江庸介ばかりに縛り付けられない
・いずれにしても本編で貫かれた直江と倫子のストーリーにはならない
などの気持ちが入り混じっている。
しかし,困ったことに,福澤Dの「僕は直江庸介に逢いたい」という言葉を無視できないでいる。
そう,私だって直江先生に会いたい。直江先生のことなら何でも知りたい。そういう気持ちはまだ強い。
だから,「逢いたい」と言われれば「そうだ」と同意してしまう。理由なんかないんだもの。
「逢いたい気持ち」はずーっと変わっていない。
いろいろ御託を並べて強がってみても,本当はとても逢いたいのだ。
だから,拒絶でも賛成でもない,非常に複雑な気持ちでいる。

直江庸介をスクリーンで見てみたい。それはこの2年間ずっと思ってきた。
「模倣犯」を見ては「これが直江先生だったら」と思い,次々と映画に出演する彼女を見れば「白い影も映画になれば」などと妄想する。
恐ろしくきれいな直江先生を残しておきたいと同時に,皆に知ってもらいたい。彼の生き方とその儚さを忘れたくない。
SPが終わって,『ああ,これで本当に終わりなんだな』という気持ちを持っていたが,もしかしたらまだ続きがあるかもしれない。
もちろん,これからも私は直江庸介を語り続けていくけれど,もしかしたらまた新しい直江庸介に逢えるかもしれない。
「逢わなくてもいい」という気持ちと「逢いたい」という気持ちが交錯する。
複雑だ。積極的に新しい直江庸介を待ちたくないんだけど,あきらめきれないんだよな。
そっとしておいてもらいたかった,というのが一番正直な気持ちかもしれない。
寝た子を起こすとなかなか寝付かないものなんだよ。

終わり