NN病的「模倣犯」

■私が考える私の本性
私は生粋の中居ファンとは一線を画していると思っている。
彼のことはかっこいいと思うし、尊敬できると思うし、いつまでも追いかけるだろうと、それは一緒。
彼の姿にうっとりし、笑い、喜び、その言葉にうなづき、元気をもらう。
それも一緒。でも、どこか違う。それがNN病患者なんじゃないかなと思っている。

彼の次回ドラマが、「中居くん」に近い、元気でさわやかで正直で熱血漢で人のいいそんな青年の役だったら、私はおそらく穏やかにそのドラマを見る。もちろん、毎週心待ちにするよ。そこには「すてきな中居くん」がいるから。
でも、それにとりつかれて壊れることはない。
そして、次回作が直江庸介の延長線上にあったら。。。私はまた壊れる可能性が高い。
ただ、もし壊れた場合、結局『壊れた原因は何か』という問題に突き当たる。
そして、その壊れ方で、改めて直江庸介以外の「白い影」のすばらしさがわかるのだと思う。
同じように壊れたら、白い影において私に影響を与えたのは大部分が直江庸介だったということになり、あまり壊れなければ。。。直江庸介以外の、映像とか音楽とか倫子とか小橋先生とかを含めた白い影そのものが、私に影響を与えたのだということになるだろう。ここまで考える私ってかなり変な奴だ。
もちろん、直江庸介、ピースとシビアな役が続いたから、次は普通のラブストーリーでもやってもらいたいなぁと思う気持ちもある。ハッピーエンドで終わるような。
■そして「模倣犯」
製作発表を見て、やばいと思った。
ナゼって彼演じるピースの容姿は「直江先生に酷似していた」から。
ピースは中居正広の延長線上にはいなかった。
その姿を見るかぎり、直江庸介の延長線上にいた。
額を出したその髪形、黒ずくめの服。まさかそこまで。。。
追いかけずにはいられなかった。
私は「中居正広における直江庸介的部分」を見逃すことなどできないのだ。
たとえそれが直江庸介でなかったとしても。
すでに中居正広と直江庸介の区別はできていたが、そこにピースが加わるとどういうことになるんだろう。
直江庸介とピースの区別はつけられるだろうか。
映画主演。喜ばしいことなのに何やら不安な気持ちがあった。
あちこちで登場する映像やスチールやインタビュー。
これらはほとんどが「中居くん」であったけれど、「中居正広における直江庸介的部分」が垣間見えるときがある。
やばい、やばいと思いながら、ひたすら私は追っかける。
『ピースは直江先生より妖艶ね』などと言いながら。
■では感想を
映画『模倣犯』には、当たり前のことだが直江庸介はいなかった。
そして、中居正広もいなかった。ピースは別人だった。
すでにあのCGを駆使?した非現実的な描写で我に返っていた私は、映画を見終わったとき『直江先生が一番だ』と最初に思った。
あのCGまではピースのかっこよさにちょっとボーっとなっていたかもしれない。しかし、ピースの内面に迫りたいという欲求はCGとともにどこかにいってしまった。
ピースの表情には内面を想像したくなるような何かがあったような気はする。しかし、ピースを観察するにはあまりにも時間が短すぎた。
映画は2時間強の長さだが、前半でピースは登場しない。唐突に登場する印象。その行動に意味も感情も感じられない。
映画のコピーである『ナゼ人ヲ殺シテハイケナイノ?』に至るピースの考えを読み取ることはできなかった。
わからなかった。この映画の意図するところが私にはわからなかった。
表面的に見すぎているのか? 彼自身を追いかけすぎるからか?
事前にいろいろな情報を見すぎたからか!?
とにかく、映画の中に入っていけなかったのだ。

映画を見るとき、その映画の世界に浸りたいと思う気持ちがある。
誰が演じているとかそういうことを忘れて、映画のストーリーに集中したかった。
だから、この映画でも中居正広を忘れたかったのだが、それはできなかった。
『中居くんすてきだった』という感想はいくらでもいえる。
でもだからといって、映画がよかったという感想にはならないように思う。
映画もよくて、彼もかっこよくて。そういう欲求は欲張りなのだろうか。
期待しすぎたのかな、とも思う。
もしかしたら、私はいやだいやだと言いながら去年のような壊れ方をしたかったのかもしれない。
理屈抜きでハマり込むあの感覚に。

■最後にNN病の本領発揮(それは想像力)

  • あの子供はピースと鞠子の子供だろう。
  • ピースが執拗に有馬をターゲットにするのは、鞠子から話を聞いていたからだ。
    鞠子は有馬が大好きだっただろう。グランドファザコンだったかもしれない。
    かなり年齢の高い相手と不倫をしていたようであるし。
    ピースにそんな家族はいない。いないがゆえにねたましく、憎い。
  • ピースは自分のしていることを振り返るやつだった。
    苦悩といえる感情も少しはあったと思う。
    しかし、その苦悩に行動を止めるまでの意識はない。
  • 『人間は血ではなく環境が育てるのだということを証明してください』
    この言葉は、ピースが『自分がこうなったのは環境のせいかもしれない』と感じているからで、
    有馬に育てられれば鞠子のような人間に育つだろうと思っていたからだ。
    しかし、鞠子とて有馬の望むように育ったのかというと疑問が残る。
    それに、鞠子の母親は現実逃避で精神が錯乱するほどの弱い人間である。
    『そんなあなたにまっとうな人間が育てられるものか』という挑戦でもあると思う。
  • ピースは自分の犯した罪を悔い改めるところまではいかないだろうが、自分の人生は
    歪んでしまっていることには気づいている。
  • 結局は自殺。自分を誰にも汚させないということ。プライド。
    自分より下等レベルの人間に裁かれることに我慢ならない。
    しかし、自殺だってそれは完璧な自分が失敗したことを意味する。

終わり♪